コロナ疲れのみなさんへ

自粛とコロナストレス

自分は、80過ぎて畑仕事に勤しむ農夫です。
腰を痛めていますが、膝を曲げたり伸ばしたりする動きにはあまり響かないので、晴れた日には、ああ、また畑にいけるな、と思います。
空を見上げるのが好きです。空を自由に飛び回る鳥が大好きです。

さて、最近、SNSというものをやる娘から、新型肺炎の来襲がストレスになって心身のバランスを崩してしまったり、鬱になってしまっている人が多いと聞きました。
当たり前だと思います。

私は、80歳まで、精神科医として務めてきました。
経歴の40年ほどは法務省で、罪を犯した少年少女たちの育て直しと支援に関わり、植物で言えば、適した土と、適した時に水をやり、持っている生きるチカラを最大限に活かそうという仕事に携わりました。
そのあとの15年は街の精神科医として友人のクリニックに務めたのです。
そんな経験から、この、今までにない出来事で、人々が心身に影響を受けないはずがない、と言い切れます。
植物で言ったら、急に新しい環境に置かれ、どうしたらよいかわからなくなってしおれている、とでも例えられるでしょう。

まずは、その状態を受け入れることです。
おかしくなって当たり前。
コロナが降り懸かってきている異常な事態を受け入れましょう。
怖がっている自分を受け入れるのです。でも、けど、だけどではなく、怖いという気持ちを受け入れましょう。
まずはそこからです。 “コロナ疲れのみなさんへ” の続きを読む

イースター島 ロンゴロンゴ私考


大海原

これまた、かなり前のことになりますが、「大いなる西部」というハリウッド映画がありました。グレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストンが共演した、後味のさわやかな作品でした。
東部で船の船長をしていた男が、招かれて西部を訪れ、近隣の大牧場主たちが集まったパーティーで話しかけられます。「広いだろう、こんなところ他にはないからね」 元船長は返します。「いや、あります」 「どこに?」 「海です」・・・・・座が白けてしまいます。

前のブログで大平原を取り上げましたから、今度は、大海原の旅に思いをはせてみたいと思います。

太平洋の島々

まず、太平洋を中心にした地図です。
薄いオレンジの線でに囲ってある範囲で、ポリネシア語などを含む「オーストロネシア語族」と分類される言葉が使われています。その範囲は、北端は台湾、南端がニュージーランド、東端がイースター島、西端はアフリカ大陸近くのマダガスカル島、に達するという広大なものです。

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コロナ疲れの皆さんへ:農夫からのお返事

自粛とコロナストレス

みなさんその後いかがお過ごしですか。

数日前、わたくしは、コロナ疲れで苦しいおもいをしていらっしゃる方が沢山いるという話を娘から聞いて、ささやかなメッセージを託しました。

それが、SNSというもので皆さんに届けられると・・・思いもかけず、張り詰めた風船に、私が針を刺してまわるということになってしまったらしいのです。うろたえてしまいました。
なんと多くの人が張り詰めて生きているのでしょう!

その音色はさまざまでしたが、一つの例外もなく、私からのメッセージを受け取り、かみくだいて、まっすぐに返してくれるという、しなやかさで包まれた魂の叫びでした。

そこから一歩を進んで、
「泣いたら、すっきりしました。明日から、また私を必要としてくれる方々のために、頑張ります」
このような気持ちを私に返して下さった方のどんなに多いことでしょうか。

ぐっとこみあげてくるものを押さえなければならないことが幾度もありました。

私の中で、何かが再生される気配を感じました。歳を取り、とうとう私も枯れてきたなぁ、とおもっていた心がざわめき、
「ああ、日本は大丈夫だ、みなさんに支えてもらっている」
と感じました。癒やされたのは私の方でした。心から、御礼申し上げます。

今回の、皆さんとのやり取りの中には、普段とは違う重いものがあるなと感じられてきましたので、もう一度、手紙をしたためている次第です。

コロナとの戦いは、長期戦になってしまいました。
「人と人が接触する場面」が危険というわけですが、人の社会は「人と人との関わり合い」で成り立っていますから、みんなが危険を避けようとしたら社会は沈没してしまいます。
危険を避けようにも、それが出来ない職種や現場があります。というよりは、社会活動の大部分がそれです。
医療、介護、子育て、食品サービスなどはもとより、それらを支える流通、交通、エネルギーなどのインフラも、第一線は人の心というものを必要としています。
金銭で雇われていようと、一時的に金銭で買い物の代行を頼まれようと、どのような事情であろうと、最後の一点では、なにものにも代えがたい人の手が必要なのです。

そこをコロナは直撃してきました。八割の対人接触を控えるようにという要請は厳しいものです。そうした要請に反するのではないかと、後ろめたくすら感じながら、人々は不安を必死に押し殺して、恐怖をなだめなだめ、一日また一日と、自分が支えなけばならない持ち場に通っています。それを支援するために、全く違った立ち位置から、力を尽くしてくれている人もいます。
何を「拠り所」にしていれば、そういうことができるのでしょう。

疲れを回復できる、安心して寄りかかれるところ。
無条件で自分が受け入れられるところ。
共感と信頼が結び合うところ。
絆と愛に満たされたところ。
強い価値観や信念の世界。
自分だけの創造の世界。

「なにそれ、あらたまって」と思われそうです。
けれど、自分によく尋ねてみてください。一人暮らしであっても、家庭をお持ちでも、一日一日の実践ができているからには、あなたは、それを可能にする「拠り所」をきっと持っています。あいまいで、完全なものでなくても、そこに通ずる方向が見えているはずです。
あなたは本当に強い人です。

コロナ来襲をチャンスととらえて、「拠り所」を強化することができますように。繰り返しになりますが、完全なものである必要はありません。そこに通ずる道が見えれば、それが拠り所になりますから。
それを「安全基地」として、一人でも多く方が凌ぎ続け、さらにはコロナ後も発展することができますように。

さて、これからが、今回、言いたかったことです。
抑うつ状態が深くなってしまって、立ちすくみ、日常生活が難しくなっている方も少なくないと思います。日常のリズムが乱されると、そのようなことが起こりがちです。
自分は何の役にも立っていないのではないかと罪悪感に苦しみながら、自粛生活を送られている方もいるでしょう。普段受けている介護や託児などのサービスが突然遮断され、恐怖におののいている方もおられるでしょう。

さらに沈んでしまって、
自分の「拠り所」よってエネルギーを保ち、なんどもなんども、自分を奮い立たせてきたけれど、どうにもエネルギーが切れ、現実感が無くなってしまった、
自分を支えてくれる「拠り所」にまで怒りを感じるようになってしまった、

あるいは、死まで考えてしまうようになってしまった、
何時かは強くなれるものの、今は行き詰まっているあなたに、求められれば、私は次のように答えます。

自由と選択はあなたにあります。
自分は離脱する、それも勇気ある決断です。
戦いの最中ではありますが、「戦時中」ではないのですから。

あなたはこれまで、苦しんで皆に尽くし、誠意という貯金をいっぱいしてきました。その払い戻しを求めていいのです。
(経済活動が低迷していますから、残念ですが、取り分は少しは目減りしているでしょうけれど。)
あなたの命を殺してしまっていい「仕組み」などないのです。

強い人は強い人なりに、今、そうでない人はそうでない人なりに。

私達にはできます。私は信じています。

キジの母と子。朝の散歩です。

 

草原へのはてしない憧れ 「大草原の小さな家」


「大草原の小さな家」シリーズ

全9冊と関連図書。私も大好きです。
アメリカ開拓時代の圧倒的な自然を生きる、つつましく不屈な一家の年代記。

幌馬車の旅、猟、耕作、家畜の世話、料理、冬の備え、天災との闘い、丸木小屋の手作り・・・。それでいて、折々を楽しむ感性。一刻一刻が輝いています。

ローラ・インガルス。何時も目をまんまるにしている女の子。
この子が明るく語るのですが、天性の観察が行き届いているので、当時の日常の様子を知ろうとするのには、一級の資料になっているようです。ガース・ウイリアムズによる絵も素晴らしいものです。

ことに、母さんが作ってくれる料理についての語りが面白いうえに正確なことから、「小さな家の料理の本」といったレシピ集などが作られており、これらすらが、世界中で読まれているようです。

料理ばかりではありません。
猟銃の手入れの仕方、鉛の弾丸の作り方、罠の扱い方、獲物の処理の仕方、燻製の方法、馬や牛の扱い方、メイプルシロップや蜂蜜の収集と精製の仕方、丸木小屋の組み上げ方、暖炉の積み上げ方などなど・・・幼い女の子が、よくぞここまで見ていたもの・・・、レトロでアナログな大人にとっても、たまらないことの連続です。相応に想像を働かさなければならないところが、また、良いのです。

ログハウスの驚嘆

北方の「大きな森」からはるばる幌馬車の旅(最初の長旅)を続けてきた一家は、中南部オクラホマ州の一点に着きます。何も無い大草原でした。父さんがいきなり叫びます。「ここだよ!さあ、ここに家を建てよう」。1869年(明治元年)のことでした。

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虫からの警告? エール?


庭に置いてある小鳥の餌台が崩れかけてきたので、少し大き目なのを作り直しました。

できれば、屋根をヒワダ葺きにしてやろうと、杉か檜の倒木を当てにしていたところ、晩春の一日、里山の林の中で絶好なものに出会いました。
朽ちつつある杉の丸太でした。

丸太の表面に

厚い杉皮を簡単に剥ぎ取ることが出来ました。
すると、ボロボロと落ちる粉状の屑に続いて、どう見てもアルファベットの綴りとしか見えないものが目に飛び込んできました。

高さ4㎝ほど、綴りの長さ40Cmほど。樹の皮と幹の表面との間を、くねくねと、確信ありげに・・・(姿が見えないから名前も分かりません)が喰い進んだ跡でした。

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湖とダム 海


湖とダムは北方が似合う

地球上に、湖というものは無数にあるのだろうと思います。
シベリア上空をジェット旅客機で飛んで、黒い湖が勾玉が連なったように延々と続いている光景を見た人はおおぜい居るはずです。北極圏だけでもそんなふうです。

阿寒湖、摩周湖、支笏湖、十和田湖、バイカル湖、オンタリオ湖、ネス湖・・・その深さや透明度や特有の生き物などのためもあって、それぞれに伝説とロマンに溢れています。
黒部ダム、佐久間ダム、アスワンハイダム・・・ダムもこのクラスになると、建設の途中から伝説を生んでいます。
水が堆積すると、私たちに語り掛ける不思議な力を持つようになるのでしょう。 “湖とダム 海” の続きを読む

ルーペ

 
六歳のときのことです。
夏のある日、父の引き出しを掻き回していると、不思議なものが見つかりました。ぽってり丸く透きとおったもので、上にかざすと、どんなものでも大きく見えるのです。

夢中になって、あたりを覗いてまわりました。新聞の写真がおそろしくツブツブなのに驚き、手の指におかしな渦があって、よく見ると渦の山にそって可愛らしい水玉がならんで光っているのに驚き、障子紙がひどく毛羽立っているのに感心し、死んでいる蜘蛛の頭を覗いたときにはあやうく目を回すところでした。
一段落してみると、不思議でたまらなくなります。ガラスらしいものがふっくらしているだけで、どうしてこんなことが起こるのだろう。

その日の夕飯の最中、コップの水を飲もうとした瞬間、すばらしいことがひらめきました。コップの向こう側に透けて見える指が、これが自分のものとは思えないほどに歪んで大きく見えるのに気付いたのです。
・・・さては、あの手品の道具の中にも、水が入っているにちがいない!あれだけの薄さで、あれだけ大きくして見せるのだから、ただの水ではなく、とろりとした特別上等な水が詰め込まれているのだ・・・。 “ルーペ” の続きを読む

追憶 木曽川本流の水泳大会

プールがない頃

私が子どもだったころには、小学校にも中学校にも、プールというものはありませんでした。私は木曾谷で育ちましたが、学校にプールが無いというのは山国だからというわけではなく、全国どこでも同じような具合だったろうと思います。
敗戦後、この国の人々は必死に復興に取り組み、朝鮮戦争という特需もあって高度経済成長の波に乗ることができましたが、三種の神器といわれた白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫に手が届きそうになったのは昭和30年(1955)を過ぎてからのことです。そしてその頃は未だ、ケイタイやパソコンは存在もしませんでした。
やがて、新・三種の神器と言われた3C(カラーテレビ・クーラー・カ―)が出回ったあたりから、学校にプールが整備されるようになったのだと思います。

川での水泳

プールが無かったころ、子供たちは川で水泳をしました。木曾川の本流です。
淀みを選んだとはいえ流れはあります。向こう岸に渡ろうと思ったら、あらかじめ、泳ぎ着いて掴まれそうな岩の見当をつけておき、流れの速さを見計らってこちら側の上流から泳ぎ出さなければなりませんでした。西部劇によくあるシーンですが、ウシの群を渡河させると斜めになるのと同じです。
水温は真夏でも18度に届くかどうかという冷たさでしたから、川を2往復ほどすると体が冷えて、誰の唇も桑の実のように紫色になりました。 “追憶 木曽川本流の水泳大会” の続きを読む

追憶 ダム氷上の下駄スケート大会

木曾谷の温暖化

「ぼくが成人式を迎えるころまではダムでスケート大会ができたよ。下駄スケートでね・・・」と話すと、地元の人でも「えーっ!信じられない」と云う人が多い。この頃のことである。
信じられないというのは、下駄スケートを使ったということではない。少し前まで、大勢の人が乗れるほどにダムが凍結した、という方についてである。

日本列島の温暖化のスピードは驚くほど速いらしい。
終戦後15年(1960)ころまで、たしかに木曾谷のダムは全面が凍結した。それが年ごとに薄くなり、多少の揺り戻しがあったらしいが、戦後30年(1975)に帰省した冬には、なんと、ダムの水面はさざなみ立っていた。

蒼氷

私が子どもだったころ、田んぼでもダムでも、まだ誰も乗っていない氷はレンズのように透明で、下のものがそのまま透けて見えた。田んぼでは稲の切り株の列が、ダムでは・・・ダムの氷の下は黒々と深みに続いていて何も見えず、不気味だった。子供たちはそんな氷を蒼氷(あおごおり)と呼んでいた。
蒼氷には粘りがあるようだった。ダムの蒼氷の上を数人が連なって滑るのを離れたところから見ていると、氷がしなって沈み、一群が通り抜けるとゆっくりと持ち上がった。
今よりも寒かったとはいえ、ダムに張る氷はそんなに厚くはなかった。氷がたわむ時にひびが生じることがあり、腹に響く音とともに、ガラスに入るひび割れによく似た腺が電光のように通り過ぎてゆく。これも不気味だった。 “追憶 ダム氷上の下駄スケート大会” の続きを読む

追憶 下駄スケート・国道ボブスレー

スケートといえばスケート靴。金属の刃(ブレード)が丈夫な革靴に取り付けられているというのが当たり前、というよりも、今はそれしかありません。
が、明治時代の末に信州の諏訪湖で「下駄スケート」というものが発明され、長いあいだ山国の子供たちの冬の遊びのアイテムでした。私もお世話になった一人です。
図のように下駄の歯を払って、村や町の鍛冶屋が打った刃をネジ止めしたもの。
鼻緒に足を入れただけでは不安定なので、足首と下駄とを紐を回して固定しました。これが難しかったのです。昔の草鞋掛(わらじがけ)の要領ですが、きつく締めあげすぎると痛い上に血の巡りが悪くなり、ゆるすぎるとぐらぐらして立つのもおぼつかない。案配には慣れが必要でした。年下の子供たちの紐の調子に気を付けてみてやるのが、スケート遊びをする者の慣わしになっておりました。 “追憶 下駄スケート・国道ボブスレー” の続きを読む