イースター島 ロンゴロンゴ私考

大海原

これまた、かなり前のことになりますが、「大いなる西部」というハリウッド映画がありました。グレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストンが共演した、後味のさわやかな作品でした。
東部で船の船長をしていた男が、招かれて西部を訪れ、近隣の大牧場主たちが集まったパーティーで話しかけられます。「広いだろう、こんなところ他にはないからね」 元船長は返します。「いや、あります」 「どこに?」 「海です」・・・・・座が白けてしまいます。

前のブログで大平原を取り上げましたから、今度は、大海原の旅に思いをはせてみたいと思います。

太平洋の島々

まず、太平洋を中心にした地図です。
薄いオレンジの線でに囲ってある範囲で、ポリネシア語などを含む「オーストロネシア語族」と分類される言葉が使われています。その範囲は、北端は台湾、南端がニュージーランド、東端がイースター島、西端はアフリカ大陸近くのマダガスカル島、に達するという広大なものです。

そして、オーストロネシア語族の最も古い形が、台湾原住民の間に残っていることが知られてきました。

台湾。もっと驚くべきことがあります。台湾とイースター島とは16000㎞(地球半周にもなんなんとする距離)も離れていますが、謎の島イースターの人骨のミトコンドリアDNAを分析すると、台湾近海に住む人々と共通した部分が多いということも知られてきました。

言語からも、DNAからも。
アフリカで発祥して陸上を東へ東へと進出してきた人類の一部が、主流と袂を分かたって海に向かい、台湾を経て南の島々に拡散したことを示しています。
そのルートを、オレンジ色で描きました。現在でも、タロイモ(里芋の一種)を主食とし、アウトリガーカヌー(外洋を航行できるカヌー)を頻用する文化圏と一致します。
海というものに特別な思いを抱いていたらしい部族たちは、5000年前ほどに台湾を経て、フィリピン、インドネシアと南下し、東に向かってニューギア、ポリネシア。ついにタヒチ島に達しました。今からわずか1500年ほど前のことです。
さらに、タヒチから北のハワイ諸島、東のイースター島にまで行き着いたのが、今からたかだか1000年ほど前のこと。
6万年ばかり前にアフリカから始まった人類の大移動という歴史から見れば、この別れと拡散は極く最近のことで、ホモサピエンス最後の移住イベントであったと言えそうです。

海洋大冒険の始まり アウトリガーカヌーの発明

一本の丸木をくりぬいて作るカヌーは古くから使われていますが、スピードを出すには有利なものの、横からの揺れにはひどく不安定な乗物です。
波の高い時に水面を抑えるように巧みにオールを使うと転覆を免がれることがある、といった経験から思い付いたのかも知れません。舟に並行して小さな丸木を浮かべ、それを、座席の前後から棒を伸ばして舟に固定するのです。こうすることで、安定性はぐんと増します。のちにアウトリガーと呼ばれるようになりました。大発明でした!
たちまち洗練されて図のようになります。

アウトリガー(舷外浮材)は片側に一つだけ、というのがミソです。両側に付けると、高波と高波の間に入った時に、船の重さが支柱にぶら下がることになり、支柱は破損してしまいます。

片側アウトリガーカヌーには、帆を張ることができるようなり、風上に向って走行することさえできるようになり、外洋航行がこなせるようになりました。つまり帆船の出現です。太平洋地域では、3500年ほど前のこととされているようです。
アウトリガーに関連することですが、「日本人はどこから来たのか」というのが最近の人類学分野の話題になっています。上に述べた、分岐してポリネシア方面に拡散した部族があったという5000年前よりも、一桁も昔を探る話です。

・・・琉球列島を島伝いに北上して来た人々が私達日本人のルーツの一つをなしており、彼等は30000年ほど前には、すでに沖縄本島に達していた。100㎞以上の航海を要して渡ってきたわけであるが、その方法が分からない。アウトリガーカヌーなどはなかったはず。筏や丸木舟を使っての実験航海を繰り返して、その答えを得ようとしているが・・・

実験航海。「国立科学博物館」を中心に、気鋭の学者たちが大汗を流して丸木舟を漕いでいます。私はこういう話が大好きです。私としては、はるか後に出現したアウトリガーとまではゆかないにしても、アウトリガーモドキといったものが既に有ったのではないか、たとえば、海神をなだめるためのちょっとした貢物を長い棒の先に付けて舷外を横に張り出した、としか考えられないのですが・・・。これだけでも、ぐんと安定するはずです。アウトリガーまで、もうちょっとです。
わくわくする実験航海は今も進行中で、その様子を『3万年前の航海』と入れて検索できます。

ダブルカヌーの出現

おそらく積載量の点で、一本の丸木舟では物足りなくなった場面が生じてきたものでしょう。「いっそ、同じ大きさの丸木舟を並べて固定したらどういうことになるだろう」と考えた人がいました。ダブルカヌー(双胴カヌー)の出現でした!
船と船をつなぐのに板を使えば甲板となり、空いたところに網を張れば、そこにも物を載せることができます。
やがて、全長10m以上、複数枚の帆。こうなると、かなりの人数の人、長い航海に必要な水、食料、物資を運ぶことができます。

東方への大航海

謎の巨大石像「モアイ」が立ち並ぶ絶海の孤島「イースター島」。ユニークさで際立った文明。その意味やノウハウの核心を誰も語ることができないという奇妙な衰滅。
このあたりの海域には、どうも、ヒトの創り出す天国と地獄とが凝集して示されるという物凄さが漂うようです。

タヒチ島とその近辺(仏領ポリネシア)から、東に向けての移住のための大航海が企てられました。およそ1000年前のことです。
漂流や漂着ではなく、移住です。全くの新天地を切り開いて繁栄するというのが目的でした。

行方が未知ということ
タヒチ島の東4200㎞(北海道から九州までの日本列島2個がすっぽり入る距離)のところに、イースター島が在るということを現在の私たちは知っています。
当時、タヒチから海に乗り出したポリネシアンは何も知りませんでした。
星を読み、風を読み、潮を測り、嵐と闘うやり方を十分に心得ていても、さかまく嵐の向こう側がどうなっているのか、何が待っているか、何の予測も立てられませんでした。轟音の中、不意に海が途絶えて、一切が奈落になだれ落ちている果てがあるかも知れません。波の向こうに途方もなく大きな怪獣が現れて、双胴のカヌーごと丸呑みにしてしまうかもしれません。
ぎりぎりの食べ物や水に耐えるよりも、恐怖と闘う方が大変だったろうと思われます。

移住ということ
人々が全くの新天地に到達して安定し、人口を維持し、さらには増加させるには、あらかじめそれなりの大きさの集団であることが要件です。最少で男女5組のカップル。コンピューターでのシミュレイションはこのように示すのだそうです。
10m級の双胴の外洋航海カヌーには、男女20人ほどの人と、さまざまな物資を運ぶことができただろうと思われます。16世紀、イースター島の最盛期の島民は15000人ほどに達したという推定があります。
絶海の孤島への移住ということで、参考になる事件があります。

・・・謎の人々がタヒチから東に乗り出した大航海から、およそ800年後の1789年。同じポリネシアのトンガ付近で「バウンティ号」という英国軍艦で反乱があり、艦長たちを海に追い出した水兵らは、タヒチで幾人かの現地島民を船に乗せて東に向った。その時の人数は、男性15人(英国水兵9人・タヒチ島民6人)、女性11人(タヒチ島民)、赤子1人、合計27人であった。1年近くをさまよって、イースター島の西の海域にあるピトケアンという無人島にたどり着く。呪われたように、何年かにわたって殺し合いが続いたようであるが、ともあれ、40年後には島民300人近くにまで増加した。その後もあれこれあって現在は50人前後。島は英国領となっている。・・・

一緒に運んだもの
多くの人を乗せて、いつまで続くか分からない航海に出るのですから、ぎりぎりまで水と食料を積む必要があります。さらに、新天地での暮らしを思えば、栽培のための植物の苗やタネ、家畜なども載せなければなりません。タロイモ、ニワトリ、ネズミを運んだのは確実とされています。

誰に予想できたことか。このネズミ(ナンヨウネズミ)こそが、それからの繁栄の数百年後に、新天地に恐ろしい災厄をもたらす原因となったのです。

企ての規模の大きさ
当時のポリネシアの人々は、石器はもちろん、衣類、弓矢、捩ったロープなどは知っていたものの、鉄を加工する技術は持っていませんでした。双胴の航海用カヌー。巨大な樹を切り倒すのも、それを丸木舟にくり抜くのも、その二つを繋ぐ板材を削り出すのも、帆、網、固縛用の綱を編み上げるのも・・・鉄の道具なしでやらなければなりませんでした。主役は石で作られた斧でした。これだけでも、現代の私たちには、目が回るほどの労力です。

舟を作り上げ、資材を集め、乗り組む若者たちを養成し、それらを未知の外洋航海にまとめあげるには、揺るぎない信念と強い統率力が必要だったはずです。
他の部族から急襲されたので「すわ、海に逃げろ」といった火急の事情ではあり得ないし、その一方「水平線の彼方に、もっと良いところがあるのでは」といったような、ほんわかあこがれムードだけでは貫徹できないことです。

思ってみましょう。
このようにして航海に乗り出した人たちが100組あったとします。
方位は、星を頼り、時には風や潮の流れを読んで、おおよそ分かっていたでしょう。あとは、波また波、うねりまたうねり、嵐また嵐、といった無限の広がりで全くの未知です。緑に映える未知の島を視野に入れることができたのは、100組中何組あったことか。1組もなかったのでは・・・歩留まりは分かりません。あたら、波間に消えていった沢山の若者たちがいたことは確かです。
ダブルカヌーは安定性が高いものの、一度転覆してしまったら復原するのは難しく、操縦性も悪いというのが特性です。せっかくの島に近づいたものの、取り巻く岩礁に乗り上げてしまって全滅、といった航海もあったはずです。
北方に4000㎞のハワイ諸島、東に4200㎞のイースター島。これらに突き当たったのは、幸運中の幸運に導かれてのことでした。

ロンゴロンゴの伝え カリスマ性の源

これだけ規模の大きな賭けともなると、個人個人の思いが担うのは無理なことで、いくつかの部族からなる一つの文化圏によって支えられる必要があったろうとするのが自然です。
思うに、年毎に、クルーが海に送り出されたのです。それが、特異な文化の証として、伝統行事となって、何年も、幾世代も、続いたものでしょう。
たとえば、呪術と伝承とが入り混じって、次のような思いがポリネシアの島々に語り継がれていたとします。

・・・祖先がそうしたように、今の繁栄に甘んずることなく、我らも新しい島々を求めて大海に出なければならない。勇者たちは戻らないが、先々で繁栄することができれば、それが種族の発展である。行く者の長には、命運を背負うにふさわしく、偉大な祖先から受け継いでいる万能のマナ(霊力・生命エネルギー)が与えられよう・・・

イースター島に、宝物として受け継がれているペン皿ほどの大きさの木片があります。その上にびっしりと文字が彫り付けられていて「ロンゴロンゴ」と呼ばれているのですが、今、それを読める人は誰もいません。世界屈指の未解読文字なのだそうです。その内容は、例示したようなものではないかと、私は夢想することがあります。


一隻の船が外洋に出れば、それが先の知れない航海であればなおさら、水と食料、なによりも、希望と絶望に乱高下するクルーの心を掌握しなければなりません。一刻一刻、強力で具体的なカリスマ的指導力が要求されます。
知識・信念・体力+α。時々に選り抜かれた航海の責任者に、部族を代表する呪術師などからしっかりと授けられたはずです。
イースター島に行き着くことになった謎のダブルカヌーの上で、どのようなドラマが有ったか、その一端を想像できるような気がしますが、このカヌーの長は、甲板の上のもの全てを催眠術で包み込むようなカリスマ性を発揮し、稀に見る統率者として航海を成功に導き、新天地の祖として絶対的にあがめられるようになりました。その証拠が、万能のマナの具現として作られ続けた石の巨像モアイの群像です。
伝承によると、このダブルカヌーを指揮した男の名は「ホトゥマツア」といい、現在のイースター島でも、全ての始祖神として謳い継がれています。

栄光と衰え

今のイースター島は、樹木がほとんど生えない痩せた土壌に覆われていますが、1000年ほど前に、ホトゥマツアが上陸した頃はそんなではありませんでした。一面の緑でおおわれて瑞々しく輝くようだったというのは、古い土の層から大量のヤシの花粉や、樹木の化石が見つかることからも間違いはありません。
下に見る、現在のハワイ諸島とように。

移住した人々は、野を開墾してタロイモを植え、ニワトリを放ち、潤沢な木を伐ってカヌーを作り、魚を獲りました。
海の幸、山の幸に恵まれて、島は発展します。13〜16世紀が絶頂期だったとされています。

思うに、数百年間の繁栄の間に、人々の祖先がそうしてきたことを受け継いで、幾隻もの双胴の外洋航海カヌーが作られて、海に送り出されたのではないでしょうか。そうした冒険の先にどのような物語があったかは・・・誰も知ることが出来ません。

ところが、繁栄のうしろで、別の筋書きがひそかに進みつつありました。ホトゥマツアたちが上陸したその日から、その種は蒔かれていたのです。
はじめは全く気付かないほどにゆっくりと、やがてかすかな気配が漂うようになります。
島を覆いつくしていた緑、ことに樹木がじわじわと消えていったのです。
親の代よりも子供が、そのまた子供の方が、気付いて見れば表土が剥ぎ取られた荒地が増え、カヌーや網を新調するのが難しくなり、魚を獲るために海に出るのが難しくなり、タロイモの畑が小さくなってゆきます。
思うに、気配を増す不安は、それだけ人々を種族伝承の霊力マナに向け、マナの偶像である石像に救いを求めるように煽ることになります。
次第に多くの石像モアイが作られるようになり、その一体一体も巨大化してゆきます。人口が増えて、いくつもの部族が割拠するようになってからは、霊力マナを競い合うように、さらに沢山のモアイが作られました。石の道具で削れるような、かっこうの石材は豊富でした。
絶海の弧島に900体。巨大石像の高さ12m、重さ50t。作りかけの中に超巨大石像21m、90t。倒れているもの累々。半ば狂気の領域。
島の人々を突き動かしたのは、不安と焦燥であったろうと、私は思います。繁栄は大きな影を背負っていたのです。

樹木を消していったのは、先ずは、乱伐の悪循環でした。
山腹に彫り出した巨大石像を切り取って動かすには、なお運搬の方法には不明なところがあるものの、沢山の材木と縄が必要だったのは間違いありません。丈夫な縄は、ヤシの繊維から得られるのです。
重なる伐採は栽培と漁猟の減少を招き、不安を醸し、それが新しいモアイを求めるという悪い循環をもたらしました。

これに拍車を掛けたというよりも、一番の原因だったのがネズミによる食害でした。ナンヨウネズミは、食用としてホトゥマツアたちによってこの島に持ち込まれたのですが、天敵が居ないままに増殖し、島の生物環境のバランスを崩してしまうまでに至ります。
樹木の実がさかんに食べられたのです。今、ネズミの歯型を残した木の実がたくさん見付けられています。

悪い循環は加速して進行し、ホトゥマツアが上陸してから500年ばかりで、島の樹木は絶えてしまいました。
古いカヌーを替えることが出来なくなり、表土を失って畑も痩せてゆき、いよいよ祈念を込めて彫り上げた巨大モアイも、それを運び出すに必要な材木や綱が朽ちてゆくにつれ、山腹に放置せざるを得なくなります。

食料の不足が深刻になってゆきます。部族間で奪い合いが始まり、それぞれの守護霊力の源であるモアイを引き倒し合いました。
モアイたちが倒れて地に伏せ、あるいは虚空を睨み上げた時に、島の人々の心が死に絶えました。人肉を食べ合った痕跡をとどめた洞窟があるということです。

雪崩のような落日

1722年、キリスト教の復活祭イースターの夜、オランダ船がこの島に到達しました。記録によると、この時すでに、島民の生活は石器時代さながらに逆行していたようです。
意気を阻喪してしまっている島民には、初めて目にする鉄の武器を迎え撃つのは無理なことでした。それからは、根こそぎの略奪を受けることになります。
わけても、18世紀から始まった奴隷狩りは仮借ないもので、1862年、ペルーのスペイン植民地王国ペルー副王領からの要請を受けて、フランス人とアイルランド人の奴隷貿易業者が、数か月の間に1500人もの島民を拉致しました。島の住民の半数に及ぶという物凄さでした。
横に逃げようとも陸はなく、海に逃げようともカヌーはありません。島民たちは地下に隠れようとしました。身一つがもがいて進めるほどに細々と作られた秘密の洞穴が、沢山、今も残っています。途中でつかえてしまったら、戻るに戻られず、呼吸するのも危ぶまれるといった狭さです。周囲の火成岩が崩落して押しつぶされてしまう人もあったと思われます。人骨が残されています。

持ち込まれた未知の疫病、ことに天然痘と結核も猛威をほしいままにしました。1872年、大規模な奴隷狩りがあってからわずか10年後。島の住人はわずか111人にまで激減し、たちまち数人となります。
かつて、誇り高いホティマツアが始祖となって絶海の孤島に開花した文明は、このようにして衰滅しました。


連れ去れた奴隷たちの一部は島に戻され、その子孫が現在のイースター島の住民となっています。彼らの伝承が大きく薄らいでおり、ロンゴロンゴを読めなくなっているのはどうしてでしょう。奴隷たちが大陸で過ごすうちに、その言葉が致命的に変形してしまったのです。奴隷という状況の恐ろしさを、こんなことからも知らされることがあります。

語り掛けているもの

私たちホモ・サピエンスは、それぞれが一個人の中に、正反対とも言える二つの心を共存させて持っているようです。他を支配したい心と、支配するものに従いたいとする心です。古来、英雄の残した物語は沢山ありますが、支配と被支配とが強烈に絡み合うという点では、同じことの繰り返しなのです。
1000年前に大航海を取り仕切ったホティマツアと伝えられる男のたぐいまれな統率力と、代々まで続けられた過度な従順。イースター島を舞台にしたユニークな文明の物語も、興亡の要因はこの二つに尽きると言ってしまえば・・・それだけのことです。

けれど、目玉をえぐり取られた石の巨像たちが深い眼窩の底から見続けているのは、ことわりを超えた遥か遠くの何かであるように思えてなりません。
地球を捨てて、あるいは追われて宇宙を目指そうとするような、何かが潜んでいるのです。天国と地獄の、さらに向こうを・・・。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

「イースター島 ロンゴロンゴ私考」への5件のフィードバック

  1. 壮大なる海へのロマン。
    3万年前の航海プロジェクト、こんな面白いプロジェクトがあったんですね。ネットの世界とはかけ離れた昔の人々に思いを馳せるプロジェクト。
    イースター島の不思議な謎。
    ロンゴロンゴと呼ばれるまだ解明できない文字。
    マナと呼ばれる力を信じていた人々。
    そして人の気持ちは支配したい気持ちと支配するものに従いたい気持ちを併せ持つということ。
    大変面白く興味深く拝読しました。まだまだ自分が知らない世界がたくさんあり、学ぶべきことがたくさんある、、と感じました。
    最近、目の前の出来事に気分が左右されがちです。しかし目先のことにとらわれることなく、いろいろな分野に目を向けることの大切さに気づきました。
    カヌーのアウトリガーの話も面白かったです。
    目をくり抜かれたモアイの悲しげなこと。知りませんでした。
    読み応えがある投稿をありがとうございます。人類が現代の「マナ」によりコロナに打ち勝って欲しい、、と勝手なことを考えました。先生、コロナウィルスや暑さに負けることなくご自愛ください。

    1. 早速のコメントをありがとうございました。
      貴方は、書いた者の望んだ通りに文章を汲んでくださる。
      不思議な能力をお持ちですね。
      何時か、ご自分の思いにも収斂してみてください。
      ご発展を祈ります。

      1. ロウボウ先生
        背中を押して下さり本当に嬉しいです。ひとの気持ちに響く文章を書いてみたいと言う夢があります。精進いたします。
        ありがとうございます!

  2. 今回も興味深く拝読しました。
    NHKのドキュメンタリー放送を観ているかのように、色々な場面が目に浮かび、引き込まれました。
    ありがとうございます。

    1. 私も、未知の海はるかを目指した人々の航海が、あまりに非実利的で求道的なので気になって仕方がないのです。
      同じころにヨーロッパでは、ヴァイキングの活動があったのですが、こちらは分かりやすいのです。
      考えさせられます。
      地球は宇宙からすればちっぽけな星ですが、私たち生物は一生懸命生き延びてきたのですから・・・。

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