神戸連続児童殺傷事件 Ⅺ-Ⅰ 少年犯罪の俯瞰〔戦後編〕

 「神戸連続児童殺傷事件」を理解するために、戦前と戦後とを分けて、少年犯罪を俯瞰してみる。

1 戦後の少年犯罪の要約

 戦後、この国の非行現象は、3つの大きな波を経てから鎮静化した。第一の波のピークは敗戦直後の昭和26年(1951)、第二の波のピークは昭和39年(1964)、第三の波のピークは昭和58年(1983)であった。

 第一の波と医療少年院という現場
 第一の波を構成する非行は、「警察白書」などによって次のように特色付けられている。
「生活のための基本的な物品の窮乏、とりわけ極度にひっ迫した食糧事情、社会的荒廃と混乱のもと、年長少年(18・⒚歳)の窃盗、強盗、詐欺などの財産犯が目立つ」。これらをまとめて「貧困型非行」とも呼ばれた。

 この時期を受けて、医療少年院は「結核の時代」とまとめられる。
「戦災孤児」「浮浪児狩り」といった言葉がなお生々しく、国中が飢えていた中で彼らの栄養状態が良いものであったわけがない。非常な過剰収容のうち、その50%近くが結核におかされており、有効な抗結核剤が出回るのを待てずに、不幸な転帰をたどるものも少なくなかった。院の過去帳にはかなりの数の記帳があるが、ほとんどがこの時代の結核による病死である。 “神戸連続児童殺傷事件 Ⅺ-Ⅰ 少年犯罪の俯瞰〔戦後編〕” の続きを読む

神戸連続児童殺傷事件 Ⅺ-Ⅱ 少年犯罪の俯瞰[戦前編]

 同じカテゴリーのⅪ-Ⅰ少年犯罪の俯瞰[戦後編]で、経済成長率と関連付けて、「少年犯罪は社会の動きが激しい時に増加する」とした。戦後の少年犯罪は3つの波を経たが、「バブル景気」の頃に迎えた「第3の波」は、犯罪検挙数からいうと戦後最大であったものの「学校型非行」と特徴づけられたように、内容的には「万引き」と「放置自転車の乗り逃げ」が80%近くを占めていたものであり、それからというもの「バブル崩壊」後の「失われた20年」という社会の沈滞をなぞるようにして、少年犯罪は減少の一途をたどっている。けれども、戦後どの時期においても、時々の非行群の特徴とされたものからは突出した異質の犯罪が散発していることについても要約した。

1 戦前の社会の特徴

 先ずは、戦前の経済活動というものはどのようであったかをいくらかでも知ろうとした。太平洋戦争の開戦時に、日本のGNPは米国の10分の1ほどであったということはおぼろげに承知していたが、大日本帝国の経済成長率というものはどのように推移していたのかを気にしたことはなかった。 “神戸連続児童殺傷事件 Ⅺ-Ⅱ 少年犯罪の俯瞰[戦前編]” の続きを読む

河川敷が溢れたときはどうするの・・・「キジ」

 ご存知のように、「キジ」は日本の固有種で、国鳥に指定されています。
 昔から屏風や掛軸に好んで描かれていますから、その絢爛とした彩りもおなじみでありましょう。それにしても、カメラというものの無かった時代に、絵描きたちは対象の一瞬を良く捉えていたこと!昔の人の絵を見るたびに感じいります。

傾いたアカシアの林

 春から初夏にかけて、多摩川の河川敷でも「ケーン ケーン」というオスの鳴き声がけっこう聞かれます。写真は、増水した時に流されてきた木や草を根元に絡ませて傾きながらも、したたかに花を咲かしているアカシアの明るい林です。 “河川敷が溢れたときはどうするの・・・「キジ」” の続きを読む

認知症になったらどうするのかな 「ツバメ」「イワツバメ」

 「ツバメ」は誰にもなじみのある小鳥です。
 そのスマートさにふさわしい飛翔能力には驚かされます。宮本武蔵のライバルだった佐々木小次郎の秘剣「つばめ返し」は、ツバメが華麗俊敏に身をひるがえす有り様にあやかって名付けられたものでしょう。
カルガモの上を飛ぶツバメです。

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馬に噛まれて・・・川また川を渡る

 馬‥・これに私は二度噛まれ、一度振り落とされ、一度蹴り上げられたことがある。
 一歳半ころ、ネエヤに背負われて街道に出ると、ちょうど一頭のふとぶととした運送馬が荷車につながれたまま飼葉を食べていた。「ほら、おうまちゃんよう」とネエヤが背中をねじると、カボチャのような私の頭が運送馬のほうに振り出された。馬は付き合っている気分ではなかったらしい。麻雀のパイのような前歯が私の額の真ん中に当てられ、四角く皮膚がめくれてずいぶん血が出たそうだ。これはいくらなんでも憶えていない。
 八歳のとき、仲間と木曽馬の馬市に遊びに行って、度胸試しのつもりをやった。仮の囲いと囲いのあいだを駆け抜けるのである。馬たちが両方からずらりと首をだして、丸太をカヌーのようにくりぬいた桶からボクリボクリと飼葉を食んでいた。 “馬に噛まれて・・・川また川を渡る” の続きを読む

子犬のケン

             
  〽総攻撃の命くだり
   三軍の意気天を衝く
   目醒めがちなる敵兵の
   胆驚かす秋の風
   ・・・・・
   トテーッ!
   やい、有象無象!

 乱れがちなる父の足音が、大きなだみ声ともつれあって石段を降りてきた。私が小学校二年生のころの秋の夕辺。歌は日露戦争当時の古い軍歌。父が酔ったときによく歌っていたが、正確かどうかは分からない。「トテー、やい、有象無象」というのは、父の即興の合いの手。
 ガラガラと大気を裂いて落下してくる敵の砲弾が至近であるのを知って、私はすばやく草履をつっかけ、台所から庭のほうへ避難しようとした。が、酔っ払いというものはいつでも変なところに冴えているもので、この時も父の目はすでに私の動きを捕捉しており、すかさず浴びせてきた。
「そこな、待てい。トテーッ! やい、有象無象!」
 有象無象というのは何であるか、後になってだいたい分かるようになった。もうひとつの合いの手「トテーッ!」の方は、いまになっても何のことか分からない。 “子犬のケン” の続きを読む

首振りエンジン始末記

 中学一年の夏休み、兄の一人が東京の土産に「首振りエンジン」という玩具を買ってきて来てくれたことがあった。真鍮で造られたごく小型のスチームエンジンで、一人前に安全弁の付いたボイラーと、小指の先ほどのシリンダー部分との二つから組み立てられていた。原理は蒸気機関車に付けられているのと全く同じなのだが、この小型の原動機のシリンダーは、いやいやをするように左右に揺りながら勢車(はずみぐるま)をまわすので、「首振りエンジン」と呼ばれる。ぎりぎりまで簡素に工夫された実に愛くるしい機関である。
 これを搭載するにふさわしいものとして、私は船を造ることにした。幅十六センチ、長さ六十センチもの大船を設計し、「信濃」と名づけ、波を蹴散らして進む勇姿を想像しながら一週間ほどは無我夢中だった。ブリキ板を三十センチもある装甲鉄板にみたてて、手を傷だらけにしながらハンダ付けをした。機関部を取り付ける際には、上級の技師を買ってでている兄に厳しく監督された。 “首振りエンジン始末記” の続きを読む

冬の半魚人

 中学二年の晩秋の夕暮。私たちは一列縦隊になって山道を走っていた。まず足腰を鍛えようという野球クラブの訓練で、学校から出て「黒川渡ダム」をひとまわりして帰ってくるというのが定番のコースだった。なるほど、木の根や石ころをうまく避けて走ることは野球のためにもわるくないトレーニングだったろう。急な坂をのぼりつめると、こんどは木の間越しに黒い水面を透かしながらの下り坂が続いた。私たちは勢いづいて駆け下りにかかった。
 「なんだ!」
 先頭を引き受けていた先生がいきなり立ちすくんだので、全員がたたらを踏んで追突をくりかえし、斜面から落ちかかった者もいるほどの混乱となった。

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川に生きる 「コイ」

 いきなりですが、下の写真の正体は何だと思いますか?
 大洋の中で、息継ぎをしているクジラかシャチのように見えませんか。 “川に生きる 「コイ」” の続きを読む

防毒面

        
 こんなことがあってから60年以上が経ってしまっている。
大学1年の夏休み、私は木曾谷に帰っていたが、かつての同級生に学生などと付き合っている暇があるわけもなく、ひとりで夏の時間をもてあまし気味になっていた。
 ある午後、土蔵のひとつにもぐり込んであたりを掻き回していると、戦時中に配給されたものか買わされたものか、「〇〇年式防毒面」というのが出てきた。防毒面というのはガスマスクの古い呼び方である。
 帆布に厚く生ゴムがかけられ、前面に円形の厚いガラスがメガネほどの間隔ではめ込まれており、その下に鼻のための小さな隆起があり、さらにその下はカッパの口のように尖っていた。尖った先が捻じ込み式になっていて、半リットルほどの缶を装着するようになっていた。缶の中身は活性炭が主成分であるらしい。おそるおそる面を頭から被ってみると、顔が締め付けられるように張り付いてきた。次いで、缶の底にはめ込まれているゴム栓を抜いてみると、相当の抵抗があったがカビ臭い空気を吸い込めた。ゴム栓を元どおりにはめ込むと、ぴたりと呼吸ができなくなる。製作されてから二十年ちかくを経ているはずでいながら、なお気密性というか密着性は保たれていた・・・。 “防毒面” の続きを読む