「方丈記」の不思議


小品でありながら

 「方丈記」は全編で400字詰原稿用紙25枚ばかりの小品でありながら、私にとっては生涯で読んだ本の中で一二を争うほどに印象深いものになっています。
 作者の「鴨長明」は琵琶や琴の名手でもあったせいか、諸行無常を結晶させたような文章が深いリズムを伴っており、読み進んでいるうちに私自身の声が自然に引き出されて音読に移っている・・・といった風です。

天災人災のルポ 

 方丈記は「災害の文学」と呼ばれることがあるそうです。
 鴨長明は何事も探求して極めようとする徹底性、冷徹な観察力、結構な行動力を備えた人でした。
 そんな人が21歳の若さで相続争いに敗れてから、30年間も、平安末期の末法感漂う洛中洛外を転々としたのですから、凄い物を見聞することになります。
 「安元の大火」「治承の竜巻」「治承の遷都」「養和の大飢饉」「養和の大地震」・・・群がり起こった天災人災の実見禄は、実際の体験から何十年も温められてから表わされたものであるだけに、簡潔でありながら叙事詩を読むような緊迫感があり、読んでいる方の緊張も次第に高まって、総毛立つような場面さえいくつかあります。

徹底した隠棲と清貧

 一方、方丈記は「住居の文学」とも言われることがあるそうです。
 荒れる帝都での年月を重ねるごとに、長明の諸行無常という構えはいよいよ強固なものとなり、和歌、琵琶、琴の達人でありながら自分のこれまでの生き様は本意ではなかったとして、50歳で唐突に出家して隠栖し、54歳時に、長い間温めていたアイデアを叶えるようにして、組み立て式の草庵(方丈)を設計します。
 本邦最初のプレハブ住宅とも言うべきものの説明が簡略ながら実に的確で、後の人が再現してみようとすると、誰もが同じ結果になるようです。私も試みてみたのですが、やはり先輩方のスケッチをなぞるだけになってしまいました。

 草庵とともに人里離れたところに移り棲んで、さらに無駄を殺ぎ落とした隠棲の自給自足を始めます。4年後の58歳で著された方丈記は、前半の緊迫のルポルタージュ風から一転して、草庵での清貧の快適さを詠い上げます。近くの森番の息子である10歳の童と連れ立って、時には「笠取山」などからの景勝を楽しみ、野草を摘み、落穂拾いなどをする様子などは、わけても伸び伸びとして楽しげです。このような楽しさが様々に繰り返して語られるので、挫折に終わった半生への無念を捻じ伏せようとして力んでいるのかとすら感じられてくるほどです。

不思議

 方丈記は「災害の文学」「住居の文学」と評されますが、これに「自然食の文学」あるいは「アウトドアの文学」とでもいうものが加わって三冠に輝く・・・残念ながら、それは成りませんでした。
 風流三昧の数寄を高らかに詠っているものの、それを可能にする基盤、つまり飢えや寒さを凌ぐための工夫や労作についてはあまり語ろうとしていません。当方としては、そのあたりも正確に知りたいのですが・・・不思議です。
 副食についてはその材料として、セリ、ムカゴ、コケモモ、ヨメナといった名前が出てくるので、それらから想像すれば、季節の旬ごとに、ツクシ、ヨモギ、ノビル、フキ、コゴミ、イタドリといった野草や、タケノコ、クワノミ、アケビ、サルナシ、イチゴ、キノコ、ヤマイモなどを最大限に活用したことだろうと推察されます。一部は冬季の一汁一菜の具材のために塩漬けにして保存したでありましょう。
 けれど、肝心の主食については「・・・峰の木の実、わづかに命をつぐばかりなり。・・・糧乏しければ・・・」とあるだけで、何をどのように加工して食の中心にしたのかは書かれていません。峰の木の実とはクリ、ドングリ、トチなどのことでしょう。ドングリことにトチは、縄文時代の人々がしたように、大変な手間をかけてあくぬきをしないと食べられません。草庵の南にしつらえた岩の桶に掛樋で水を引いて、長時間の水抜きを要したに違いなく、それを煮て炒って、乾燥させて保存するのです。気の抜けない作業が幾日も続いたはずです。それらについては何も触れられていません。

 言うまでもなく、塩は欠くことのできない物です。長明は54歳から没する62歳までの8年間を仙人のように暮らしましたが、「・・・おのづから都に出でて乞匈となれる事を恥ずといえども・・・」と記しているように、稀には京まで足を伸ばしました。塩を調達するのが目的であったろうと思われます。 
 庵を結んだあたりは標高160メートルほどであるらしいけれど、そもそも京都盆地の夏の暑さと冬の寒さは定評のあるところです。長明はそれを「藤の衣」「麻の衾」で凌いだと書いています。藤の衣というのは、藤の蔓の繊維をほぐして編み上げた衣のこと。また「・・・埋み火をかきおこして、老のねざめの友とす」とありますから、冬場には寝床の近くに囲炉裏のようなものがしつらえられていたかもしれません。
 生き長らえること、それ自体が難行苦行の積み重ねであったはずです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

最終の一転

 仏道の修行に「山籠り」というのがあり、世俗との関わりを断って隠遁生活を一定期間続ける難行なのだそうです。
 鴨長明が実践した隠棲生活・・・ぎりぎりの自給自足を懸命に支え、そこに間隙を見出しては花鳥風月や音曲を楽しむ・・・これこそは推奨されるべき仏道修行「山籠もり」そのものであるはずです。
 ところが方丈記の最終段に至って突如、長明は隠棲の日々に強い疑念を覚え、草庵と周辺の閑寂にあまりに愛着しているのは何事にも執心してはならぬという仏の教えに背いたことではないか、という激しい自省を記すことになります。

・・・一期の月影傾きて・・・たちまち三途の闇に向わんとす。・・・仏の教え給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。今草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。いかが要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。・・・

(・・・一度の生涯も傾いて・・・いよいよ私も三途の河原を渡ろうとしている。・・・そもそも仏が教えている要点は、何ごとにつけ執心してはならないということである。してみれば今、こうして私が草庵の生活や静けさに深く入れ込んでこだわるのは、仏道の修行に反することなのである。どうでもいいような楽しみをあれこれと述べ立てて、あたら時を無駄にするのは・・・)

 答えを示さないまま、年月日を記して終わっています。

宇宙ロケットを手掛けさせてみたかった

 長明は、ほどの良さというような曖昧を許せない人でした。まして人と人との所業は全て曖昧で成り立っているということを、自分にも他者にも許せません。それで、何事にも執着してはならないと常にとらわれ続けるのも、また執着のありようの一つだということに気付けないのです。気付こうとしないのです。
 全てか無か。長明は強迫的に執着しました。それだからこそ、的確にして正確、徹底。鬼気迫る迫力。天災人災の未曾有の記録が世に残されることになりました。
 
 こういう人には、宇宙ロケットの開発を手掛けさせてみたかった。天文学的な数の部品を一つ一つ吟味して、正確に繋いでゆく長期の作業にぴったりだと思うからです。

 組み上がった巨大な飛行体を前にしたとき、「あまりに入れ込み過ぎた」と、最後の配線の一本を違えてしまうというようなことは・・・ありますまい。とらわれなどということが通用しないほど、宇宙は果てしないからです。

この光景 Forever   春編


に続いて、「多摩モノレール」「昭和記念公園のサイクリングロード」「みんなの原っぱ」「子供の森」などのの光景を挙げたいと思います。

モスグリーンに霞む春  「多摩モノレール」
樹々の芽が一斉に吹き出るころ・・・山桜がそこかしこで咲き始めるころ、森や山は暖かいモスグリーンに霞んで見えるものです。そうした中をオモチャのように見える電車がゆっくり走っています。

この動画は日野市の遊歩道の一角からほぼ西を望んだもので、近くには「都立多摩動物公園」が、遠くには奥多摩山系の山々が写っています。山々は「高尾」「陣馬」「雲取」などのはずであり、さらにカメラを少し西に振れば「富士」が視界に入ってくるはずなのですが、いずれも春霞のためにもやっていて判然としません。ただ静かで平和です。
 「多摩モノレール」は東京都の多摩地域を南北に結ぶ交通機関として2000年に整備されたものですが、その利便性が高いことから、最近、北への延伸計画が実行の段階に移ったということです。

ママチャリの天国  「昭和記念公園のサイクリングロード」
 ご存知「国営昭和記念公園」は、もともとは飛行場として使われていた土地をレクリエーション施設に再開発したものだそうです。なるほど、180ヘクタール(およそ180町歩)という広さも頷けるし、その中に14キロメートルものサイクリングロードが設けられているというのも合点が行きます。
 開園されてから40年以上もが経っていることから、植栽も大きくなって馴染んできております。初めの頃のサイクリングコースには、レース用仕様のハンドルの下がった自転車が隊列を作って駆け回るという光景がよく見られたものでしたが、この頃はいわゆるママチャリ同士がのんびり譲り合っているといった雰囲気です。2000台ものレンタル自転車が用意されており、ゴールデンウイークなどにはそれも出払ってしまうことがあるそうですが、それでも混み合っているという感じはしません。広いのです。

大欅を真ん中に  「みんなの原っぱ」
1本の大欅がシンボルツリーのようにど真ん中に置かれている広場があり、「みんなの原っぱ」と呼ばれています。その奥まったところに幾本もの桜の木が植えられていて、花見を楽しむ人も多いのですが、やはり混み合っているという感じはしません。

サクラユキヤナギ
クリスマスローズとおとぎの小屋

ふわふわ  「子供の森」

 

可愛らしい 「アオバハゴロモ」の幼虫

 

 6月中旬の良く晴れた日、何時ものように子犬と連れ立って近くの公園に行きました。
 木陰に入って真夏のような日差しを避けていると、ふと、眼の前の柵の鉄パイプに何やら小さなコンペイトウのようなものが付いているのに気付きました。3つ4つあります。何だろうと訝しんでいると、その1つがチコチコチコと動き始めたのです。
 私のカメラは望遠仕様なので近くのものを接写するのは苦手なのですが、精一杯にクローズアップした動画がこれです。

 チコチコ歩いて行って1匹のアブラムシのようなものと出会い、一旦離れて何を思ったか、後ずさりして挨拶。その様子がなんとも可愛らしい!

 腕時計と比べてみると分かるとおり、綿菓子のかけらのように見える全体は大層小さいのですが、精々アップしてみると、お相撲さんのように結構に踏ん張っているのが分かります。それがまた可愛い。

 ちょっと腕時計を乱暴に動かすと・・・ピッ・・・どこかに跳ね跳んでしまいます。脚を踏ん張っているのは、いつでも瞬発できるための心得なのでしょう。
顔が写っている写真もあります。

 家に帰って調べてみると、すぐに分かりました。「アオバハゴロモ」の幼虫なのです。成虫の写真を引用させてもらいます。

アオバハゴロモ】症状・対策・予防(植物の害虫) 

 そういえば、まんまるな眼つきや透き通ったような脚つきが、大人と子供で似通ったところがあります。誰にもお馴染みの昆虫で、アオバハゴロモという名前は、青みがかった羽衣を纏ったように綺麗だというところから付けられたものでしょう。体長6~10mmほどの大きさで、所によって「シロコババ」「ハトムシ」「ポッポ」などと呼ばれるそうです。

 ハゴロモと言えば天女が羽織るものと決まっていますが、アオバハゴロモの学名はGeishia distinctissima Walkerとされており、ラテン語では「とびきりの芸者さん」というような意味でありましょう。名付け親であるWalkerという学者の何やら訳ありの思い入れが窺えます。

 アオバハゴロモの幼虫たちが例外なく背負っている綿穂のようなものは、自分の尾の端から分泌した蝋物質であり、それらが集団をなして広葉植物の茎に取り付くことが多いので、その部分が真っ白な粉まみれになって目立つのが普通なのです。    どうしてわざわざ目立つようなことをするのだろう。

 どうしてまた、私と子犬が出会ったように、歯も立たない鉄パイプの上で運動会をするのだろう・・・ただ可愛らしいと思うだけで、何も分かりません。
 チコチコ頑張れ!

「菩提樹」と「雪山讃歌」

 

 私はマニアックな音楽の愛好家ではありません。
 一人で工作や草取りなどをしている時などに、ふと、何やらメロディーを口ずさんでいるのに気付くことがあったり、美空ひばりはやっぱり上手いなぁ、と思ったりする・・・といった程度の音楽好きです。
 そんな私にも、長い間を呑気に付き合っていた歌が、ひよっとした拍子に、実は深刻な内容のものであったのだと分かって、独りで思い入ってしまうことが幾度かありました。とりあえず「菩提樹」と「雪山讃歌」がそうした例です。

菩提樹

    菩提樹   近藤朔風 訳詞

   〽泉に添いて 茂る菩提樹
    慕いゆきては うまし夢見つ
    幹には彫りぬ ゆかし言葉
    うれし悲しに といしそのかげ

    今日も過(よぎ)りぬ 暗き小夜中
    まやみに立ちて まなこ閉ずれば
    枝はそよぎて 語るごとし
    来よいとし友 此処に幸あり

 「菩提樹」を教わったのは、おそらく中学3年の時でした。
 教科書には2番までしか載っていませんでしたが、歌詞が難しくて半分も解らなかったものの、メロディーはすんなり入ってきたので、家に帰ってからも兄とよく合唱したものです。
 唄い出しに〽泉に添いて~とあるのを、私は勝手に〽泉に沿いて~と受け取ってしまったので、頭の中に浮かんで来るのは、大きな泉の岸に沿って何本もの樹が茂っているという広々とした明るい光景でした。音楽の先生が、菩提樹はヨーロッパでは街路樹としてよく使われる、と話してくれたことも先入観として影響したと思われます。

 つまり、少年のころの私にとっては、シューベルト作曲の「菩提樹」という歌は美しく、広く、穏やかなものでした。

一変

 学生時代に第二外国語としてドイツ語を選択したことがあり、そのゴツゴツした文法に苦戦させられたものでした。
 ある日の講義で、無味乾燥になりがちな時間を和ませようとしたのでしょう、ドイツ語の教授が紹介してくれたのが「菩提樹」の原詩でした。
「これは恐ろしい詩です。これから羽ばたこうとする若者の足を引っ張る。無理して遠くへ行かなくてもいいよ、じっと休んでいなさいよと。みんなも気を付けた方がいい」
といった風に解説したので私は驚きました。それまで「菩提樹」に抱いていたイメージとは正反対だったからです。

 なるほど、Muellerという詩人による原詩では、菩提樹(セイヨウシナノキ)は湧き水の脇に立っている1本(ein Lindenbaum)であり、その詩を訳した近藤朔風という人もきちんと、泉に沿いてではなく、泉に添いてとしています。泉に寄り添うように、一本のひときわ大きい菩提樹が聳え立っているという情景が本来なのでした。少年の頃にじゃれつくように親しんだ樹が、それを離れようとすると「ここにおいで」と招き寄せるというのですから、なんだか凄味があります。
 2番の終わりにいとし友と訳されているのは原詩ではGeselleという単語で、仲間とか朋友のことなのだそうですが、ドイツやオーストリアには伝統的に「徒弟制度」があって、この詩が作られた頃には各地を巡りながら腕を磨こうとする若い職人のことをWandergeselle(旅回り職人)と呼んだようです。Geselleである自分は、いずれはMeister(名工)になることを目指して、歯を食いしばっても修業を重ねなければならないというわけでしょう。
 日本にも 〽庖丁一本 晒に巻いて 旅へ出るのも 板場の修業~ といった旅の仕方があるように、もの作りにこだわるという点で、日本とドイツには似たところがあるようです。

 原詩は、私が中学で教わったものよりもかなり長いものでした。近藤朔風の訳にも続きがあります。

  〽面をかすめて 吹く風寒く
   笠は飛べども 捨てて急ぎぬ
   はるか離(さか)りて たたずまえば
   なおもきこゆる 此処に幸あり
   此処に幸あり

 寒風のために傘(帽子)が吹き飛ばされてしまったけれど、取りに戻る余裕もなく急ぎ、はるかに遠ざかっても、樹が招き寄せる声が聞こえる・・・これはかなり切羽詰まっていて、普通のホームシックとはレベルが違うようです。調べてみるとはたして・・・
 
 「菩提樹」はシューベルトが死期迫った頃に作曲した24の組曲「冬の旅」の5番手に置かれているもので、主人公の若者(おそらく旅回り職人)が或る滞在先で夢のような恋に出会うことができたものの、実る直前にどうゆうわけか相手に心変わりされ、激しい葛藤を抱えながら冬の旅に旅立つ・・・
     ・・・
    Komm her zu mir, Geselle, ここへおいで 若者よ
    Hier findst du deine Ruh.  君の安らぎは此処にある

 大樹が呼びかけてくる安らぎというのは幸ではなく、永遠の安らぎつまり自死であるという解釈すらもあるようでした。
 「強烈に求めるものが在るところ、そこは同時に地獄でもある」といった深刻な状況が詠われているのでした。
 「なんだか深読みのしすぎじゃないかなぁ」と私としては思ったことでした。

 やがて私は、非行少年少女の治療と教育に携わることになりましたが、現場に立ってみると直ぐに、「冬の旅」に詠われているような状況は、さして稀でもなくこの世にあり得るのだということを知ることになりました。
 例えば、虐待を受けながら育った少年少女たちが「家庭」というものに抱く想いと毎日は、「強烈に求めるものが在るところ、そこは同時に地獄でもある」という刀の刃の上を渡るような「冬の旅」の連続なのです。
 「菩提樹」は、3番の始まりでピアノが激しく変調して響き出すと、こちらの緊張も高まって来ます。そんな歌なのでした。

雪山讃歌

 大学の1年と2年の夏休みを目一杯に使って、「高山植物監視員」というアルバイトをしたことがあります。はるかな昔、昭和も30年代のことです。
 場所は、ヨーロッパアルプスのエーデルワイスに最も似たタカネウスユキソウが見られるという中央アルプス。主峰木曽駒ヶ岳の頂上小屋に長期間を泊まり込んで、仕事をするもサボるも、自分が予定して自分が監督するというおおらかさ。当時の長野営林局木曽福島営林署は、よくぞ、私を信用してくれたものです。

 いろんなことが思い出されます。直接、高山植物に関わらない事が多いのは奇妙です。
 その頃は、中学生を中心とする学童の集団登山が盛んでした。夏休みの行事として県の内外からやって来たのですが、今の感覚から思えば、熱中症を防ぐために体育館の空調が必須だとする今の感覚から思えば、引率の先生からして、良く言えばおおらか、悪く言えば準備不足。それが問題を呼び寄せることがありました。一同転がり込むように頂上小屋にたどり着いて、やれやれ・・・点呼を取ると・・・一人足らない!
 腕章(官給品・でっかくて目だつ)を付けていた私が真っ先に相談をうけたまわることになり、登山道を駆け下ることになりました。7~8号目のあたりで置いてけぼりになった生徒を見付けられたのですが、その瞬間、私の経験した二夏での3例とも「あぁ、助かった」というような表情を浮かべることはありませんでした。それほど消耗していたのでしょう。
 「山酔い」あるいは「高山病」と呼ばれますが、標高2000メートルを超えるあたりから、酸素が薄くなっていくのに身体が付いて行けずに、吐き気、ふらつき、頭痛などに悩まされることがあります。集団登山の場合は、次第に後ろに下がってどんじりを務めることになり、それさえも無理になって独り置いて行かれる状態になり、そうした時に「少しペースを落として」と声を挙げにくいのは、折角の行事である集団登山の足を引っ張りたくないという健気な思いが働くからでしょう。
 登山道の折り返しを曲がった途端に、白い人影に衝突しそうになったことがあります。暮れなずんだ中にぼんやりと佇んでいたのは一人の少女で、6合目のあたりから気分が悪くなって遅れ始め、7合目のあたりで一歩も進めなくなり、仕方なく独りで下山しようとして5合目付近まで下ると嘘のように体調は何でもなくなり、これなら大丈夫と反転して7合目まで登り直すと、また動けなくなってしまう・・・これを2度繰り返したということでした。教科書に載せたいような「山酔い」とはいえ、危ないところ。私は少女を背負って頂上小屋を目指し、途中まで出迎えに来ていた先生たちに引き合わすことができました。
 奇妙なことなので忘れないでいます。私がお礼にもらったのは、3例が3例ともそれぞれに、申し合わせたように、ウイスキーのポケット瓶1本でした。
 
 同じ頃、コーラスグループ・ダークダックスの「雪山讃歌」がヒットを続けており、当時の紅白歌合戦でも披露されたものでした。

     雪山讃歌

  〽雪よ岩よ われ等が宿り
   俺たちゃ 街には
   住めないからに
    ・・・・
   煙い小屋でも 黄金の御殿
   早く行こうよ
   谷間の小屋へ
    ・・・・
   荒れて狂うは 吹雪か雪崩れ
   俺たちゃ そんなもの
   恐れはせぬぞ
    ・・・・
   山よさよなら ご機嫌宜しゅう
   また来る時にも
   笑っておくれ
 
 「お上品だぁ」と思ったことでした。1番に〽俺たちゃ街には住めないからに~と言っておきながら、最後の6番で〽山よさよならご機嫌よろしゅう また来る時にも笑っておくれ~とあるので、「あら、帰っちゃうの。街には住めないんじゃなかったの」と気に入らず、4番の吹雪や雪崩を恐れないというのは、もっと気に入りませんでした。もともとは某大学の山岳部の歌だったそうです。
 私が仕事をした中央アルプスには際立った難所は少ないことから、新入山岳部員の初歩的な訓練の場に選ばれることが多かったようで、主峰の頂上付近でそのような場面をしばしば見かけたものでした。7・8人のグループの中の2人ほどが際立って大きな荷物を背負わされて苦しげによろぼっており、小さなバックを引っ掛けた先輩らしい連中に取り巻かれて、足蹴にされんばかりに叱咤されている光景でした。
 そんなことを軽々とハモッテ彈んでいる「雪山讃歌」を、私は好きにはなれませんでした。

一転

 「第三の男」「禁じられた遊び」「羅生門」「生きる」「ローマの休日」「七人の侍」「西部戦線異常なし」「シエーン」・・・あの頃こそ、映画の黄金時代と言えたかも知れないと思います。それらの作品に共通しているのは、やたらにスペクタクルな場面を積み上げるのではなく、一つの曲あるいは音響に、テーマに匹敵するほどの感動を込めることに成功しているところではないかと思います。例えば「羅生門」のクライマックスに挿入されたヒグラシの声は、ずっと後まで頭の中で不気味に鳴り響いていたものでした。
 そんな何年か後のある時、蔵出しの作品を単品で上映する「名画座」という小さな映画館で「荒野の決闘」という映画を観ました。ジョン・フォード監督作品で原題をOh My Darling Clementineといい、その中で私は「雪山讃歌」のメロディーと再会することになりました。

   Oh My Darling Clementine

  In a cavern, in a canyon,
  Excavating for a mine,
  Dwelt a miner, forty-niner,
  And his daughter Clementine.

  Oh my darling, oh my darling,
  Oh my darling Clementine
  You are lost and gone forever,
  Dreadful sorry, Clementine.

  Light she was, and like a fairy,
  And her shoes were number nine;
  Herring boxes without topses,
  Sandals were for Clementine.
   
   ・・・・・

  ~クレメンタインは、蓋の取れたニシンの箱をサンダルにしながらも、妖精のように可憐に跳び回る働き者。在る朝、コガモを水辺に連れて行こうとしたところ、根っこに足を採られて逆巻く湖の中へどぶん。ルビーのような唇から吹き出す泡はたちまちか細くなったけど、なんと、ぼくはカナヅチ。クレメンタインは墓地の雑草の肥やしに。父親は悲しんで松の木のように痩せ細ってしまい、娘に付いていてあげなきゃと思うまでになって、それで今はクレメンタインと同じ所に。僕がせめて釣り糸を持ち合わせていれば、それを投げ入れてやってクレメンタインを助けられたかも知れないのに~
  
 ゴールドラッシュ最中のカリフォルニアにやってきた砂金採りの男とその娘クレメンタインの運命を、クレメンタインの恋人であった若者が詠い、それが広く歌い継がれて、アメリカ民謡とまで言われるまでになっている曲なのだそうです。
 14番にも亘る中で一番ぐっと来るのは、クレメンタインという娘は蓋の無くなったニシンの箱(Herring boxes without topses)をサンダル代わりにして妖精のように動き回っていた、というところだと私は思いました。干されたニシンが詰められていた箱は、そのままでは履くわけにはゆかないはずで、おそらく金鉱探しの父親が、馬か牛の革を打ち付けてサンダル風に作り換えたものであったでしょう。

 荒々しく未開でありながら、素朴なエネルギーに溢れていた古き良きアメリカ。そんなことを想わずにはいられない曲なのでした。

蜘蛛の子を散らすように


一度、見てみたかった

 「蜘蛛の子を散らすように」・・・何かの目的で集まっていた人たちが、いきなり慌てふためいて逃げ散るありさまを例えていうことがあります。ところが私は、クモの子が逃げる様子はどんな風かを見たことがありません。

出会えた 蜘蛛の赤ちゃんたち

 もうすぐ梅雨入りかという頃のある日、子犬と一緒に近くの公園に行くと、その日も、ちょっとした広がりは子犬と私の貸し切りでした。この頃の子供たちはあまり外に出ないようです。
 広場の奥まったところに一本の常緑樹があって風に吹かれていましたが、その葉の一部の揺れ方が周囲とは違っているのが目に留まり、目を凝らすと、つぶつぶした小さなものが黒い団子状に集まって宙にうごめいています。
クモの赤ちゃんたち! 卵嚢からこぼれ出たばかり!

 黒い団子は、親が作ったものらしい網に絡まっていましたが、よく見ると、その網が逆光に透き通って見えるあたりに、赤ちゃんの一部はすでに最初の脱皮を終えたらしく、透明な抜け殻がたくさんこびり付いています。卵嚢から出たばかりとは言え、そのくらいの時間は経っているようでした。

蜘蛛の子を散らすように・・・?

 一度この目で確かめたいと思っていました。
 カメラを片手に構えておいて、もう一方の手に握った杖の先で・・・軽くエイ!
すると瞬時に・・・四方八方にわらわらと散り、そして暫くするとてんでんに戻って来ます。
言われている通り! 納得です。

独立した蜘蛛の子たち

 次の日、細い竹の棒と子犬とまた公園に行きました。
 竹の棒の先には両面テープで一円玉を張り付けてあります。一円玉と比較することで、クモの子のサイズを分かり易くしようと考えたからです。
 と、前の日に在ったつぶつぶの黒い団子は消えてしまっており、その代わりに周囲の葉と葉をつないで可愛らしい華奢な蜘蛛の巣が五つ六つ見付かりました。それぞれの巣の中央にはクモの子らしいものが乗っています。ゴマ粒ほどの大きさとはいえ、昨日よりは一回り大きくなっています。半分透き通っているようでした。
 片目でファインダーを覗きながら片手で一円玉を近づけようとするから、距離感が怪しくなります。一円玉がうっかり巣に触れてしまうと、あっという間にクモの子は視界から外れて何処かへ消えてしまいます。おそらく垂直に逆落としで逃げているのでしょうが、はっきりしません。前の日にも驚かされましたが、一日のうちにクモの子たちは更に素早くなっているようでした。

 一晩のうちに、クモの子たちは集団を解いて独立したものに違いありません。
細い糸を使って頼り無げとは言え、そこそこの赤ん坊のうちに一人前の形をした巣を作り上げるとは驚くべきことです。蜘蛛が作り出す糸は鋼線よりも強いのだそうですが、一人歩きを始めたばかりの赤ん坊がそんなものを作れるのです。
可愛らしい職人の大きさを一円玉と比べて見てください。

大人になれるのはどれだけ?

 一つの卵嚢から数え切れないほど多くの子蜘蛛が生まれ出て、それらがことごとく大人になってしまったら、この世は蜘蛛だらけになってしまうに違いありますまい。夏を越え、秋を迎え、その秋も深まり、堂々たる女郎蜘蛛・・・勝手にジョロウグモと決めてかかっているのですが・・・堂々たる母蜘蛛になって、あっぱれ沢山の子を残すことが出来るのは、運に恵まれたほんの数匹であるに違いありません。

秋のジョロウグモ 頑張れ!! 蜘蛛の子たち。

つれづれフーテン老人のトランプ劇場


トランプ砲が吼える度に世界中の株が乱高下している。そのタイミングと大きさを予測できるトランプ当人とその取り巻きは、濡れ手に粟どころか札束に溺れるほどの大儲けを繰り返しているのではなかろうか。だから何度でも大砲をぶっ放す。 

・・・ど素人のゲスの勘繰りであればいいが・・・。

       目次
Ⅰ 結論
Ⅱ うらやましいアメリカの舞台
Ⅲ せっかくの恵みを活かし損ねている
Ⅳ アメリカのさまざまな歪み
Ⅴ 驚くべき富の偏在
Ⅵ それでもアメリカは膨張を続ける
Ⅶ アメリカは何処へ行く
Ⅷ 私たちは何をしているか
Ⅸ 私たちはどうすればいいか
Ⅹ そして結論の結論

Ⅰ 結論
 アメリカは広大な国土を有し、世界最大の石油と天然ガスの産出国であり、鉱物資源についても最大級の埋蔵量を誇る。
 それに見合って、人々は質の高い安定した生活を送れているかというと、これがそうではない。平均寿命は先進国中で最も短いうえに年を追って短くなってゆく傾向があり、乳幼児死亡率、相対的貧困率、ホームレス、肥満者、無保険者の率などが異様に高い。
 アメリカが伝統的に選択してきた市場経済主義は、近年の通信関連技術の発展に伴って国際的にも連動する性格を強めてきており、国境を跨いで転がりまわる資本は本家のアメリカの製造業に置いてけぼりを喰らわすようになった。中國を「世界の工場」に、アメリカを圧倒的な「通信関連サービスの提供者」にと役割を分担するまでになったのである。
それにしてもアメリカのサービス業(GAFAMなど)の生産性は高く、世界中で利益を生んで還流させ続けている。が、残念ながら、その分配については市場に任され、途方もない富の偏在が加速されることになった。それは機会の不均等をもたらしているにもかかわらず、それでも人々は「努力すればアメリカンドリームを手にすることが出来る」と信じ込んでいる節がある。自分が富裕になれないのは勤勉が足らなかったために神に選ばれなかったのであるとし、その鬱屈を慰めるためになけなしの金を払ってライフル銃を買って撫でまわし、ジャンクフッドで空腹を満たそうとする。

 こうした歪みから抜け出すには、税制を工夫して富の偏在を是正してゆくことが特効薬であるに決まっているが、アメリカの貧困層は日頃の鬱屈をトランプに託してしまった。トランプこそが美味い汁を吸っている金持ちエリートどもを懲らしめてくれるだろうと思ったのであろう。
 そのトランプは矛盾している。この記事を書いているフーテンのような老人にも分かることである。
 自分に投票してくれた層に向かっては「規制」を連呼し、移民を規制し、これ見よがしに国境に壁を築き、関税や為替レートに激しく干渉して貿易を取り仕切ろうとする。
 その一方、真逆の「脱規制」を強行して弱肉強食を煽る。パリ協定とWHOから離脱し、連邦政府職員を大量に解雇し、金融政策を策定監督するFRB(中央銀行に相当)の存在すら煙たがり、やりたい放題とはこうあるべきだと言わんばかりにハイテンションの富豪たちを後ろ盾に並べて見せる。そうしてどうも、「規制」は貧困層に向けたジェスチャーであり、本当にしたいことは「脱規制」の方であるらしい。

 規制と脱規制という正反対の中で折り合いを付けてゆこうとするのだから、どういう舵の取り方があるのかわからないけれども、これからのアメリカは大きく蛇行するに決まっている。さらに、他国の領土や地下資源に色目を使い、アメリカは世界中から騙されているのだと大声を上げ、やたらに取り仕切りたがる有り様は、愚連隊崩れが肩を揺すっているようにさえ映る。
 トランプが躍起になって問題にしているアメリカの貿易赤字は、あの国のGDPのほとんどを支えているサービス関連業の巨大さと高い生産性に起因している。そうした構造はアメリカ自身が選択して作り上げたものである。
 立役者のサービス業は非貿易財であるから、外国で大量に買われても輸出としてカウントされず、貿易収支は赤字となって目立つのは当たり前である。ドルの強さを証明しているようなものだから、放っておいてもかまわないのである。例えば、国民の所得が世界一として知られるルクセンブルグは得意の金融サービスを売りにしているから、当然、貿易収支は恒常的に大きく赤字である。
 アメリカがどうしても貿易赤字を是正したいのであれば、自国の巨大すぎるサービス関連企業にしかるべき税を上乗せ、それを財源にして製造業にテコ入れをし、製品の質を整えてから、正々堂々と国際市場に問うべきである。

アメリカの有権者にお願いしたい。国土狭隘で天然資源に恵まれず、たっぷりなのは大型の自然災害だけというような、例えば極東の小さな島国日本が、出来るだけ多くの国々と繋がり合うことで沈没を免れ、あれこれしながらも平均寿命と乳幼児死亡率とで最も良い成果を保っている。そうした懸命さを少しは思ってみて欲しい。

Ⅱ うらやましいアメリカの舞台
 石油も天然ガスも鉱物も・・・アメリカの国土はアメリカ人に微笑んでくれている。何といっても強みである。
 近年のアメリカの石油生産量は、サウジアラビア、ロシア、カナダなどを凌駕して世界のトップを占める(図1)。

 天然ガスの生産量も、ロシア、中国、イラン、カナダなどを超えて全世界の24.2%を産出してこれまた世界のトップ(図2)。

 国土は広大で地層も様々であることから、石炭、金、銅、亜鉛、その他の鉱物資源にも恵まれており、世界最大級の埋蔵量を誇っている。

Ⅲ せっかくの恵みを活かし損ねている
 狭小な国土、有るのは大型の自然災害だけといった日本からすれば、夢のような、じれったくなるばかりの舞台であるが、その活用の仕方が下手というか、歪んでいる。
 先ずは、工業生産高(図3)。

 2020年、アメリカの工業生産高が世界に占める率は16.3%に縮んでしまっている。なんと、中華人民共和国のおよそ半分である。
 赤い円で示したが、二度の大戦後、殊に第二次世界大戦直後には、疲弊した世界を尻目にアメリカの工業生産高は全世界の半分にも達していたのである。アメリカは経済、軍事、文化の総合として圧倒的に抜きんでており、世界から仰ぎ見られていた。

 どうしてアメリカの工業生産は相対的に縮んでしまったのだろう。
諸外国(殊に日本とドイツ)のめざましい復興が先行して作用したであろうが、続いて何といっても、行き詰まった共産中国が資本主義に大きく舵を切ったことが大きい。
 中国に鄧小平というしたたかな政治家が現れ、「黒猫でも白猫でもネズミを捕る猫が良い猫」「計画経済であれ市場経済であれ、生産力を上げて富の配分を多くするのが良い実践」などとし、共産党の独裁を維持しながら資本主義の仕組みを取り入れた。
 1978年には日本を訪れ、カラーテレビや自動車の生産ラインを視察し、新幹線を試乗し「これこそ中国が学ぶべきことだ」と絶賛した。
 解放された新しい市場と人的資源に殊にアメリカと日本の資本は興奮し、安い労働力をあてにして最新の工作機械とノウハウを中国に投入する。飛び付くようにして中国は稼働を始め、次第に複雑な製品を手懸けられるようになり、技術を組み合わせたより高度な物へ、それにつれて輸出するものも日用雑貨や衣類のレベルからTVや冷蔵庫などの家電などへ、コンピューターや通信機器などへ、ついにはEVや高速鉄道一式などへと発展してゆく。中国は短時日のうちに「世界の工場」と呼ばれるまでになった。

 一方、20世紀後半から始まったデジタル革命は、たちまちインターネットの普及をもたらしたが、革新の先頭を走ったアメリカ資本は、地球丸ごとを自分流のネットでくるみこんでしまうことに夢中になった。ネットサービスは世界経済に大きな影響を及ぼすようになることを予想したのである。
 アメリカは成功した。インターネット時代を先駆けてシステムやサービスの基盤を提供し続け、2010年ごろに世界が気付いて愕然とすることになるが、GAFAMと略称される米国の5大ネットサービス関連企業などが強大な市場支配力を持つ怪物に育っており、独占的な利益を得るとともに世界中の人々から情報を掻き集め、分析し、影響を与え続けるまでになってしまっていた。
 「世界の工場」は中国に、「世界のサービス業」はアメリカに・・・。これを意図したのはアメリカ自身である。自国のGDPの構成比で一次・二次産業を著しく縮小させ、それを担っている労働者の有用性を低め、人材を遠ざけ、生産手段や製造技術の改良への意欲を低めてしまったのもアメリカ自身の選択の結果である。
 サービス資本は一刻も休まずに世界中を飛び回っていよいよ肥大し、利益を吸収し続けてアメリカ経済を好調に発展させ続けたが、一方で富の極端な偏在をもたらすことになった。富の偏在は大部分の人々のフラストレーションと互いへの不信感を高めた。利便性は多様性を容認しあうゆとりを保ち難くしてしまいがちである。例えばSNSなどを使った発信は、真偽を確かめる間も無く、あっという間に攻撃的に炎上することを日常的な出来事にしてしまった。

Ⅳ アメリカのさまざまな歪み
 平均寿命と乳幼児死亡率は、その社会の民生の成熟度を表す端的な指標の一つであることには間違いはない。
 2021年のいわゆる先進諸国の平均寿命を見てみる(図4)。

 アメリカが76.3歳で最も短く、なんと、驚くべきことに年を追って短くなって行く傾向があるのである。アメリカ社会は退歩しつつあるのだろうか。極東の小さな島国である日本が84.5歳で最も長く、意外なことのようであるがプーチン政権下のロシアは数年の間に目立って伸びている。
 乳幼児死亡率(図5)。ここでもアメリカは先進国中で最下位であり、日本が最
上位にある。

 肥満者の率(図6)。

 これもアメリカ社会が群を抜いて多く、日本が最小である。アメリカでは、貧困~ジャンクフッド~肥満という相関が言われている。

 2022年の相対的貧困率(図7)。 アメリカはポイントを上げつつある

 路上や公有地で暮らしている人を「ホームレス」としてカウントした資料がある(図8)。人口10万人当たりの人数であるが、アメリカはこれも高値を示す。何事も「自己責任」という考え方なのであろう。

 ホームレスは地方自治体などによるちょっとした介入で大きく変化するのが特徴であり、例えば日本では数年前まではかなりのものであったものが、主に地方自治体やNPOなどの工夫で大きく減少したという実践があるという。

Ⅴ 驚くべき富の偏在
 アメリカの富の偏在には恐ろしいものがある(図9)。

 上位1%の所帯が国全体の富の32%を占め、上位10%ともなると72%にもなり、上位50%の所帯の所有する富が98%にもなる。ということは、下位50%の所帯は全体の富の僅か2%しか持っていないのである。そして、金は金を吸い寄せるという性を持っているから、富める者がいっそう豊かになるのは速く、貧しいものはなかなか苦境から抜け出せない。少しでも投資に回せる余裕のある人は、おこぼれにあずかって一層余裕を得られる可能性が高く、一方、日々の基本的な消費に追われている人がゆとりを得られるように浮上するチャンスは極めて少ない。なるほど、アメリカは真っ二つに分断するわけである。
 小さな政府、個人や企業の経済活動の自由、つまり「市場原理主義」のもと、社会保障制度は最低所得者や高齢者に対してわずかに配慮されているだけで、たとえば公的医療保険制度は整備されてこなかった。人々は私的に医療保険に加入しなければならないが、商品としての医療保険は高い。それで、人口の1割に近い2800万人もが無保険での生活を強いられている。こういう階層が病や怪我のために入院を要するようなことになったら、いったいどうなるのだろう。アメリカの医療技術そのものは発達しているが、それは富裕層のニーズにのみ応えがちであって、国民の多くは恩恵を受けられないでいる。加えて医療訴訟などを取り巻いて、莫大なサービス関連業が渦を巻き、それがまた保険料を高くしてしまっている。
 
Ⅵ それでもアメリカは膨張を続ける
 アメリカと中国のGDP構成比を比べてみる(図10)。

 アメリカの一次産業と二次産業の占める割合は目立って少なくなっており、それと反対にサービス関連業が80%ほどを占めて圧倒的に高くなっている。前にも述べたが、例えばアメリカのネット関連サービスは生産性が極めて高く、文字通り地球にネットを掛けたように四六時中を稼働し、世界中から利益をむしり取って来てはアメリカのGDPを支えているのである。これからの何年間もアメリカ経済は堅調に成長を続けるだろうと予想されている(図11)。

 GDPが拡大しつつありながら、その一方で平均寿命が短くなり、乳幼児の死亡率が目立って高いという社会は、どう考えても捻じ曲がっている。サービス関連業がカーテンのようになって、実態をくらましてしまっているのであろう。
 アメリカ国民は、一見フランクで実際的に見えながら、実のところ他の国民よりもロマンチックであるらしい。努力すれば「アメリカンドリーム」なるものを均等に手にすることが出来るのだと信じている節がある。ドリームが訪れなかったのは自分の努力が足らなかったために神に選ばれなかったのであるとし、それを慰めるためになけなしの金を払ってライフル銃を買って撫でまわし、ジャンクフッドで空腹を埋め合わせようとする姿が目に浮かぶのである。
 万物がそうであるように、「市場原理主義」も完全なものではあり得ない。機会の平等を謳ってはいるが、もたらされるものは恐ろしいまでの富の偏在なのである。正確な言い回しではないかもしれないけれども、彼の鄧小平はこんなことも言っていた。「計画経済にも市場があるように、市場経済にも規制は必要である」。

Ⅶ アメリカは何処へ行く
 今のアメリカは、充分に強いところを持っている。
 世界には180種類もの通貨が流通しているが、国際的な売買や資金のやり取りをしようとしたら、国際的に認められている基軸となる通貨に換算して価格付けをし合わないと取引はスムースに流れない。
 その「基軸通貨」は長い間「英ポンド」であったが、第二次世界大戦後に英国経済が退潮するに伴って「米ドル」に替わった。現在アメリカのGDPが世界に占めるシェアは20%ほどであるが、国際為替取引において米ドルが絡む取引高は実に80%を超えている。さらには、国際貿易においてアメリカが占めるシェアは10%ほどであるが、世界の輸出入品のおよそ半分はドルで価格付けされている。利便性からも、国際的な流通や評価には基準となる通貨を介した方が分かりが良いわけで、国際機関が公表している評価もドルベースで算出されている。つまり、GDPや国際貿易の実態に比べてドルの存在は圧倒的に大きく、地球を大きく包み込んでいる(図12)。

 さらに、米国企業の雄GAFAM(グーグル・アップル・フェイスブック・アマゾン・マイクロソフト)の勢いはとどまるところを知らず、例えばグーグルの検索エンジンは95%のシェアを占め、フェイスブックの1日当たり利用者は世界で20億人を超えるまでになっている。それこそ一刻も休むことなく膨大な個人情報を集めて積み上げ、分析し、行動を予測し、影響を与え続けており、これもイメージとしては地球を大きくラップアップしている。 
 
 にもかかわらずトランプ政権は、グリーンランドを、カナダを、パナマ運河を、ウクライナの地下資源を欲しがる。どうしてそんなに焦るのだろう。どこへ行って何をしたいのであろう。アメリカが今掲げなければならないのは「MAGA」ではなく「KAGL(Keep America Great Long)」という守りの姿勢であっていい。実際、守りにシフトしなければいけない事態が既に始まっているのである。
 トランプ政権の本音はおそらく、おそらくというよりもかなりはっきりと、「脱規制」にある。今こそチャンスとしてなりふり構わずに、AI関連技術や宇宙開発技術のトップの座を自分のものにしたいと焦っているのであろう。つまり、次の世界を席巻したいのである。

 世界のGDPの大きさをブロックごとに分けると、EU諸国、アジア諸国、アメリカ大陸諸国のそれがほぼ同じほどの大きさで並んでいることが分かる(図13)。10年ほど前の2016年のデータであるから、最近急成長しつつあるインドやASEAN諸国の動向を加えると、現在のアジア諸国の描く円は一回り大きくなっており、さらに10年先を予想すれば、アジア諸国のGDPが最も大きくなる可能性が高い。

 GDPの大きさばかりではなく、その内容も急速に変化しつつある。例えば、中国版GAFAMとして注目されているBATH(バイドウ・アリババ・テンセント・ファーウェイ)に代表される中国の情報通信関連企業がこのところ急成長しつつあり、例えばファーウェイが提供する5G通信設備は世界シェア35.7%というトップに躍り出るに至っている(図14)。

 BATHの時価総額は2020年の評価でGAFA の3分の1ほどまでに達しており、ちなみに、これは日本の国家予算の2年分以上にも相当する。
2025年1月には性能の卓越した生成AIモデルをアメリカの同類会社の10分の1ほどの低コストで開発し、しかもそのノウハウを世界に公表するという余裕さえ見せた。中国は他国の技術やサービスを模倣しない独自の事業を展開しながらアメリカを猛追している。

 中国の情報通信関連企業の追い上げと並行するかのように、基軸通貨であるドルを巡る動きも、殊にロシアによるウクライナ侵攻以来加速している。
 ロシアへの経済制裁の実効性を上げるために、アメリカは国際決済システムに働きかけて、ロシアがドルを介しての貿易決済ができなくなるようにした。これを受けて、ロシアは欧米とは異なる歴史と価値観を持つBRICS(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)と協議して、国際決済での決済通貨をドル以外の通貨に換えるシステムの新設を模索するようになっている。中国はいち早く、人民元を決済通貨とする独自の決済システムを対ロシア貿易に適用するようになり、それは先進諸国の対ロシア経済制裁の効果をそれだけ殺ぐ結果をもたらした。ロシア大統領プーチンは、BRICS首脳会議の際にBRICSの共通通貨と仮定して刷り上げた紙幣を持っていたという。

 基軸通貨としてのドルは、今のところ、がっしりと地球を包み込んで揺るぎないように見える。しかしそうした一方で、世界の分極化は加速度的に進行しており、BRICSあるいはその他新興国のドル離れは、ある時、巨大な地滑りになって現れる可能性もある。 
 仮に人民元が新しい基軸通貨としてドルに取って替わろうとしているとする。これまでドル建ての借金に苦しんできた新興国などには一挙に借金から解放される千載一遇のチャンスと映って、あえて雪崩に乗り移ろうとすることがあるかもしれない。
 「俺が取り仕切ってやるからショバダイを出しな」「オトシマエをつけようじゃないか」とばかりに愚連隊さながらに振る舞うトランプ政権の下品が、アメリカ離れに弾みを付けてしまうかもしれない。今のアメリカはぬけぬけと嘘も言う。

Ⅷ 私たちは何をしているか 
 もう一度(図13)を見てみる。
 似たような大きさの円が3っ並んでいるのを見ていると「多様性」ということが迫ってくる。みんな懸命なのである。

 ヨーロッパの国々はヨーロッパなりに、かつて植民地時代に後進の国を搾取したツケが廻ってきた形で移民問題などで揺れているけれども、殊に北欧の国々は、比較的大きい政府、タフな累進課税、高い社会保障制度などを民意によって選択しており、市場経済をバランスよく修正している。毎年のように「幸せな国」のトップに名を連ねているのは、その成熟度の証であろう。
 アジアには、人類のおよそ60%が住んでおり、多く植民地支配というくびきから解放されてから、それぞれの事情を抱えつつも成長している。日本を含めてアジアの人々は、とりわけ緻密な作業をむらなく続けることに長けているようであり、そうした特性を活かして頑張っている。
 そして3っの円の大きさを合計すると76%ほどになるが、それ以外のGDPが24%ほどあるわけであり、それは世界中に散らばっている国々の人々の生業を集積したもので、ちょうど第4の円ほどの大きさになるであろう。地球号ではすでに、「多様性」と「相互依存」こそがキーワードであることを一目瞭然にしている。
 
 そうした中で、日本はどのようにしてあるのだろう。
 かつて、「東日本大震災」が日本を襲った有様を固唾を飲んで見入った世界中の人々のうちには、「日本は大丈夫か」と案じた人も多かったと思われる。現に隣国の韓国は「日本沈没」という見出しを付けて報道した。
 甚大な被害を被ったけれども、日本は沈没しなかった。第一次オイルショック、第二次オイルショック、リーマンショックでも大きなダメージを受けたが沈没しなかった。
 OPEC諸国の禁輸措置で引き起こされた1973年の第一次オイルショックは、一滴の原油も産出しない日本の石油価格を一挙に4倍に暴騰させ、長く続いた高度成長期を終わりにさせたというような衝撃では済まなかった。ほとんどパニックをもたらしたが、官民を挙げて「省エネ」に取り組み、効率よくエネルギーを使ってエネルギー効率の良い物を作り、それを賢く使う方法を追求した。こうした積み上げがあったからこそ、第二次オイルショックにも耐えられたのだと言えそうである。

 資源の乏しい国の宿命であるだろう。「源流から河口まで」・・・資源に限ったことではなく、原料の採掘や調達、加工製造、流通、販売、消費に至るまでを、国をまたいで最もスムースに循環するように工夫する。出来るだけ多くの国々に命綱を懸け、資源の調達先を分散させてバランスをとる。そうしていないと、日本は浮いていられないのである(図15)。

 国際的に評価の高い「総合商社」のように、日本は沢山の国々に通用するように外貨を準備し、投資をしている。それは「対外純資産」として計上されるが、2023年は471兆円(国家予算の4年分)を超して30年以上にも亘って世界一である。その投資先の筆頭がアメリカであるのは皮肉である。
 要するに、食料の自給すらままならないながら、それ故に、日本は踏ん張っている。

Ⅸ 私たちはどうすればいいか
 残念なことに現在、本来は世界をリードして行くべきいわゆる大国は揃って品格に乏しい。品格に欠けるどころか、アメリカは愚連隊に、ロシアは押し込み強盗に、中国は悪徳不動産業者のように見えることさえある。
 そんなアメリカの強引な要求に対して報復的な対抗手段をとるには、広大な国土と資源を基盤にした強い基礎体力が必要であり、そうした国は上にあげた大国を除けばカナダとオーストラリアほどに限られるであろう。
 日本にできること、日本がしなければならないことは自然に決まってくるように思われる。

 第一に必要なのは、高品質な製品を勤勉に作り続けるという覚悟。
 聳え立つ関税の壁を乗り越えてでも選んでもらえるためには、仕入れた資材に一段と優れた付加価値を付けて納得してもらわなければならない。かつての「第一次オイルショック」時の合言葉は「省エネ」であった。今回のそれは製品の質を変えるほどのものでありたい。トランプの恫喝は国難とも言われるが、あたふたする前に必要なのは心掛けの確認である。
 第二には一層の投資とマーケッティング。
 この国を襲う災害は甚大で抗い難いことが多いせいか、人々の自然に対する姿勢は独特である。自然は征服すべき対象ではなく、その良いところを身近に取り入れて親しむべきものだとする。街づくり、建築様式、庭園、盆栽、茶道、華道、日本料理、・・・日本の独自性を自信として改めて投資したい。
 現在の日本の輸出先は、中国を筆頭にしたアジア諸国向けが58%を占めて最大である(図16)。
 アジア諸国への輸出増も期待できるが、EU、その他、といった国々へのシェアを増やすことも可能であろう。殊に中東地域に対しては大量の石油を輸入していることから貿易収支は常に赤字である。真面目で控え目な在り様こそがブランド性を高めてくれると信じて、これを修正する工夫も凝らしたい。

Ⅹ そして結論の結論
 トランプ政権は遠からず必ず行き詰る。何もかもぶち壊して、時に力のある者の欲するままに任せるという「規制外し」が本音である限り、アメリカ社会の歪みは是正されるわけはなく、つまり、富の偏在は一層きわまり、ついに沸点を迎えずには済まないだろうからである。外に向けられた傲岸な要求に対しては、我が国としては、したたかに対応を先延ばししているのが賢明。世界と共存する能力を高める唯一の手段は一層の真面目で控え目な取り組みであると信じながら。

カラスザンショウとメジロ


カラスザンショウ(烏山椒)

 1月下旬、冬も真っ盛りの空が群青の蓋のように硬く見える日のことです。
子犬と一緒に落ち葉を踏みながら山道を行くと、トンネル状に笹竹が迫っていた向こうは明るく開けており、その少し手前に、沢山の小さな実を枝先に残している落葉樹がありました。

 そこにメジロの群れがやって来ています。
 大小の団子状に固まっている実は、カラカラに乾いて口を開けている小さな灰色の果皮が集まっているもので、その小さな灰色の粒の中からさらに小さな黑い粒が顔をのぞかせているように見えます。小枝には鋭いトゲがあるのも映っています。

  落ち葉の上を探すと、くすんだ色同士で難しかったのですが、いくつかの房状のものを見付けることが出来ました。枝の先から落ちたものです。小さな黒い種子は抜けてしまっていて、ほとんど残っていません。

 樹を見てみました。
 高さおよそ9~10メートル、幹の直径が20センチほどの高木で、根元近くの幹にはトゲの跡であるらしいイボ状の瘤が残っています。

 沢山の実、小枝のトゲ、幹のイボ、高木…これで樹が何者であるか見当が付くのですが、念のため、灰色の粒のひとかけらを摘み取って噛んでみました…間違いようもない「粉山椒」によく似た痺れるような刺激性の辛味…これでまず決定。
 葉が落ちてしまっている冬場でも知れることですが…この樹はカラスザンショウ(烏山椒)。
 さらに念を入れて、枝先のあたりをアップして見ると、可愛らしいお猿さんの面のような模様が見られます。これは去年の大きな葉が抜け落ちた後で、額のあたりにねじり鉢巻きのように盛り上がっているのが、この春に芽吹くための新芽なのです。これもカラスザンショウの特徴です。

 さて、カラスザンショウならぬお馴染みのサンショ(山椒)といえば、春の芽山椒・葉山椒・花山椒、初夏の実山椒、秋から冬の粉山椒…と殊に私たち日本人が徹底的に賞味し尽くしている風味で、その枝や樹皮までもが久しく活用されてきました。使うたびに微妙な香味が料理に移ることから枝はスリコギ(擂粉木)に加工され、剝いだ樹皮をもみだして川魚を獲るという「毒もみ」という漁法もかつてはありました。サンショの実や樹皮に含まれているサンショオール、サンショウアミドは辛み成分として知られていて大きな害はないとされているものの、キサントキシン、キサントキシン酸は、動物ことに魚類に投与すると痙攣や麻痺を起こすことが分かってきました。

 サンショの仲間(ミカン科サンショウ属)には何種類かがあり、サンショ(山椒)のほかイヌザンショウ(犬山椒)とカラスザンショウ(烏山椒)がよく知られています。
どちらも本命のサンショに比べるとスパイシーな刺激のある芳香が劣るとされて食用にはされていません。イヌザンショウというのは、犬が好むサンショという意味ではなく「犬も食わない」という感じから呼ばれるようになったヒトの勝手だろうと思われます。

 山椒の仲間のうちでもカラスザンショウは抜きんでた高木で時に15メートル以上にも成長し、カフェインやニコチンと同じであるアルカロイド(アルカリのようなもの)と呼ばれる化学物質を持っているそうです。アルカロイドの多くの作用は温和であり、毒性があっても比較的安全であるとして様々な薬の材料になっているものですが、例えばケシの実に含まれるアヘン、コデインも同じアルカロイドであるので油断はなりません。カラスザンショウの若芽を天ぷらにして食べたり、葉を煎じて薬用として飲んだりするときには量に注意する必要があると思われます。
 植物は原則、昆虫や動物にやたらに食べられないように毒性のある物質を生成します。にもかかわらず、カラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、モンキアゲハ、クロアゲハといった大型のアゲハ蝶の幼虫はカラスザンショウの葉を食べて健やかに育つという現象はどういうことかというと、アゲハチョウとカラスザンショウの間には、進化という試行錯誤を重ねることで得られた厳しい相互選択性ともいうべきものがあるからで、他の生き物との間で同じような平和な関係が成り立つとは限らないのです。

 春から夏にかけてのカラスザンショウの様子を見てみましょう。私にはこの季節の写真の持ち合わせが無いので、インターネットで検索しました。
 たわわに咲いている花を見て思い出しましたが、これに群がったミツバチ達が作る蜂蜜は爽やかでスパイシーな香りが独特な絶品なのだそうです。一度、味わってみたいものです。ミツバチのおなかというフィルターを通っているので安心して良いのでしょう。

カラスザンショウとメジロと

 メジロにまた登場してもらいます。
 メジロといえば、初冬の残り柿に取り付いてせっせと穿っていたり、いち早く咲き始めた早春の梅の花蜜を吸うために花から花へと忙しく渡っていたり…留まるにしろ動き回るにしろ、甘い物が大好きなのです。
 カラスザンショウに来ているメジロたちは、動画に見るように、少しもじっとしておらずに灰色の房から房へとキョロキョロしながら移動しています。梅の花蜜を吸うときと同じように、少量のものを集めているようです。

 枯れ切った灰色の果皮に蜜があるはずはありません。すると、もう一つ内側の黒い種子が目当て…???
 だいぶ前のことですが、私は本命のサンショのつやつやと光る小さな黒い実を齧ってみたことがあります。ガリガリと砂のように砕けるだけで、味らしい味も素っ気もありませんでした。

 何がメジロを呼び寄せるのだろう?
 カラスザンショウの種子には甘味があるのだろうか?
 というわけで、房状のものを家に持ち帰りました。
 灰色の果皮からは黒い種子がほとんど抜け落ちていましたが、6~7個を見付けることが出来ました。2~3ミリの大きさで、皺が寄っています。

 よく見ると、皺の中から、さらに小さな黒い粒が顔を出しているものがあります。

 それを取り出してみます。ここで、皺の寄った薄い膜をAとし、それに包まれていた黒い小さな粒をBと呼ぶことにします。

 Bを口に入れてみました。
 砂を嚙んだようにガリガリと砕けるだけで、何の味もしません。
 Aの方を口に入れてみました。ごく少量がグニャグニャする感じで直ぐに無くなってしまい…どうということはありません。少なくとも、メジロが好む甘味はほとんどありません。
 何がメジロを呼び寄せるのだろう??
 写真を見直すと、気のせいか、メジロたちが取り付かれているような様子に見えてきます。
 メジロの口から黒い物が落下する瞬間が写っているものもあります…口に入れ損ねたものでしょう。間違いなく、AかBがお目当てなのです。

メジロが残した糞の謎

 次の日も訪れると、やはりメジロたちが集ってパーティーを開いていました。メジロに限らず、小鳥が口に入れるのは両方(A+B)であり、Bはそのままで排泄するとするのが順当です。「果肉を食べさせるかわりに中の種子を運んでもらう」というのが実を成らせる植物の戦略であるからです。AのみかBも消化させてしまうというような間抜けなことを、植物がするわけがありません。
 が、カラスザンショウとメジロの間には特殊な相互選択性が有って、ひょっとしたらメジロは種子Aを消化できているのかも知れません。
 そこを確かめたくてメジロの糞を探そうとしましたが、地面は落ち葉ばかりが散り重なっていて、それらしいものを見付けるのは無理でした。
 その場の片側は急な斜面に落ち込んでいるために柵が設置してあり、それは擬木のように加工された単管パイプで組み上げられていました。
 と、樹の真下に当たるパイプの上に小鳥の糞らしいものがこびり付いているのが目に留まりました。偶然に引っかかったものでしょう。一粒のもあれば、二三粒が一緒になったのもあります。カラスザンショウが運んでもらいたい種子Bは、やはり消化されないものとみえます。

 摘まみ上げようとして驚きました。
単管パイプに吹き付けてある合成樹脂に食い込むように密着しているのです。Bを包んでいる果皮Aが、メジロの腸管を通っている間に、樹脂をも溶かす物質に変化したものだろうか??

 訪れたメジロたちがせわしなく動き回るのは、お目当ての果皮Aがごく薄くて少量ずつであるからだと頷けるのですが、そもそもカラスザンショウの果皮はメジロを引き寄せる特異な化学物質を蓄えているのではないだろうか。ヒトにとってのカフェインやニコチンなどに類するような…?

 私がこの冬、最後にカラスザンショウの大木を訪れたのは、辺りに春の気配が濃くなりつつある2月23日のことで、あちらこちらでメジロの大好きな梅の花が咲き始めておりました。
それでもカラスザンショウの梢には変わらずに乾いて見える灰色の塊りが残っており、驚いたことに、そこにメジロたちが一羽二羽と訪ねて来ていました。梅の花蜜よりもカラスザンショウの僅かな果皮の方に惹かれる? 極々薄い果皮とメジロとの間には、やはり何か秘密があるようです。

 そうこうするうちにさしものカラスザンショウの種子も食い尽くされるでしょう。謎は残ったままです。
 私の足腰がまだ耐えられるなら、来年の冬にはカラスザンショウの樹の下にビニールシートなどを敷いておいて、きちんとしたサンプルなりを集めてみたいと思っています。

「赤とんぼ」の不思議


二つの「赤とんぼ」

「赤とんぼ」というと、〽ゆうや〜けこやけ〜の・・・という歌い出しの曲を思い浮かべる人が多いと思います。
 三木露風の詩に山田耕作が曲を付けたもので、〽十五で姐やは嫁にゆき お里のたよりも絶えはてた・・・などとあって「五木の子守唄」に通ずるような哀れさが醸されるのですが、最後に、〽夕やけ小やけの赤とんぼ とまっているよ竿の先・・・と、静止している赤トンボに想いを凝集させて、トンボの美しさを際立たせています。

 もう一つの「赤とんぼ」があります。戦前も昭和の初期から文部省唱歌として尋常小学校で歌われたもので、作詞作曲は不詳とされています。

   〽秋の水すみきった 流れの上を赤とんぼ  
    何百何千 揃って上(かみ)へ ただ上へ
    上(のぼ)って行くよ 上って行くよ

    秋の空金色の 夕日に浮かぶ赤とんぼ
    何百何千 並んで西へ ただ西へ
    流れて行くよ 流れて行くよ

 こちらの方は、無数のトンボが群飛する光景を目の当たりにして謳っていて、定点動画を見るように明快です。水も空もトンボも澄み切っています。こちらの方を好みとする人も多いと思われます。

赤トンボとはアキアカネのこと

 二番目に挙げた唱歌では、何百何千という数の赤いトンボが分列行進のように揃って、ただひたすらに川の上流に向かって飛翔していると謳われています。「赤とんぼ」つまり秋に赤く色付くトンボには幾種類かがありますが、ここでの赤とんぼは「アキアカネ」であるとして間違いはありますまい。 
 アキアカネは全国に分布している日本固有種のトンボで、初夏、田圃などの水中で過ごしたヤゴと呼ばれる幼虫から脱皮して成虫になるのですが、盛夏には高地に移動して避暑をするという特性があります。30℃以上の暑さには耐えられないのです。
 秋になると、オスの尾の上部が赤く色付き始め、秋雨前線が通り過ぎた頃を見計らって高地から低地に移動を開始し、それが大きな集団となることがあります。謳われているように長距離を群飛する様子が、かつては各地にしばしば見られました。

 ここで不思議があります。
 避暑を終えて高地から低地に移動しなければならないアカトンボたちは、川を伝うのであれば、下流に向かっていなければならないはずです。どうして川の上流に向っているのでしょう?

トンボは一筋縄ではゆかない 飛翔力は昆虫のうちで屈指

 アカトンボというと先に挙げた歌のとおり、先ずは棒や竿の先に静止して翅を休めている姿が浮かんでくるのですが、実はトンボの飛翔力というものは抜群なのです。
 空中の一点にホバリングすることは勿論、前後・左右・上下に自由自在。宙返りしながら虫を捕らえることも楽にこなします。一直線に高速で飛行することも得意で、殊にオニヤンマ、ギンヤンマといったヤンマ類は時速100キロ近くを出せるのだそうです。低速・高速のどちらでもOKとするためには、僅かな空気の動きを敏感に捉えてそれに浮かび、反対に高速で迎えた空気はスムースに後方へやり流す必要があります。そのために、翼の表面を微細で特殊な鱗状の組織でカバーするという巧妙なやり方を獲得しています。何億年もかけて、しっかりと進化を重ねているのです。
 ヘリコプターはトンボを真似してヒトが造ったものでありましょう。トンボは4枚の翅を別々に操って軽やかに飛ぶのですが、ヘリコプターにはそんなことは出来るわけがなく、オールのようなものを竹トンボのように回転させるより仕方ありません。で、動きはぎこちなく鈍重で、宙返りなどをすることは望めません。「オスプレイ」というアメリカの軍用機がありますが、ヘリコプターと似たような無理があり、そのせいかしばしば事故を起こしています。トンボの方がはるかに完成度は高く、今も、その方面の技術者にとって憧れの飛翔体であり続けているのです。

ヤンマ類の「黄昏飛翔」

 ヤンマ類のうちでも飛翔力屈指と云われる「ギンヤンマ」については思い出があります。
 私は木曽谷で育ちました。夏の暮れなずむ頃、木曽川の流れに沿って大型のトンボが群れて飛ぶのを毎日のように見かけたものでした。川面から3・4メートル上をキラキラと連なって飛翔する姿を、谷の人々が「あれはギンヤンマだ」と言うので、小学生としてはそのままに信じました。橋の上から見下ろせば、ギンヤンマに特有である胴の後部の鮮やかなエメラルド色が確かめられたかもしれません。
 普段、縄張りを個々にパトロールするように巡回しているヤンマ類が、日暮れから薄暮に掛けて集合して飛行する習性を「黄昏飛翔」と呼ぶのだそうです。・・・夕暮れ・・・日暮れ‥・暮れなずむ‥・薄暮‥・黄昏‥・黄昏飛翔・・・どれも美しい言葉です。
 木曽川の上のギンヤンマたちは上流に向かってきらめいていましたが、ひたすら一方を目指すという飛び方ではありませんでした。不意にふわりと群れを外しては元に戻る個体があちらこちらに見えたからです。夕方に川面に増えるユスリカなどの羽虫を捕らえるためだったろうと思われます。ヤンマ類のこうした集団を「採餌飛翔」と呼ぶのだそうです。

 

「赤とんぼ」の不思議

 唱歌「赤とんぼ」に話を戻します。
 繰り返しになりますが、ここで謳われているアカトンボは、何百何千と揃って、ひたすらに流れを上に向かっているとされています。ヤンマ類の「黄昏飛翔」「採餌飛翔」とは違って、移動のための移動なのです。
 避暑地から引き上げて低地に向かうための長距離飛翔が、どうして川を遡っているのだろう。
元々の詩は・・・

   〽秋の水すみきった 流れの上を赤とんぼ  
    何百何千 揃って下(しも)へ ただ下へ
    下(くだ)って行くよ 下って行くよ

 であったのではなかろうかと思われるのです。すると二番に・・・並んで西へ ただ西へ 流れて行くよ・・・とあるのともしっくり嚙み合うようです。避暑地から帰るのだとすれば、南か西に流れてゆくのが自然ですから。

 元詩が・・・下へ下へ・・・と繰り返しているのを嫌って(文部省唱歌とあれば)、あえて後の誰かが・・・上へ上へ・・・と置き換えたのではと勘ぐってしまうのです。
 作詞者が眺めた時は、アキアカネたちは峠や分水嶺を越えなければ低地に移動できないという狭隘で特異な地形に差し掛かっていて、一旦は上流に向っていたという可能性もありはするのですが。 

「赤とんぼ」挽歌

 トンボのことを古くは「あきつ」と呼び、日本列島のことを「あきつしま(秋津洲)」と表現したことがありました。神話によると、神武天皇が日本の国土を一望してトンボのようだと言ったのが由来だということです。トンボはそれほど身近で実感を伴うものでした。
 近年、トンボは数を減らしています。アカトンボも例外ではなく、中でもアキアカネは1990年代の後半から日本各地で個体数を激減させており、各地でレッドリストに加えられるまでになっています。
 DDT、BHC、パラチオンといった毒性の高い殺虫剤は近年さすがに生産中止あるいは使用中止となっていすが、このところフィプロールという高い殺虫能力を持った薬剤がイネ苗の病害虫予防のために多用されることが、トンボの取っては致命的になっているようです。田圃はトンボの幼虫の揺り籠であるからです。
 「赤とんぼ」に謳われているような光景は、遠い昔のものとなってしまいました。

神戸連続児童殺傷事件 Ⅰ 「20年間で堆積されたもの」

1 どうして今、神戸連続児童殺傷事件か

 「神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)」は1997年(平成9年)2月から5月にかけて為され、2022年春という時点で25年という歳月を経た。その間に、この事件に関して積み上げられた情報は膨大である。
 マスメディアの報道、検事調書、家裁審判決定要旨(のちに全文)、被害者遺族たちの手記、犯人の父母の手記、論評、座談、関連図書など・・・それらに加えて、とうとうというべきか、ここまでというべきか、加害者本人の匿名の手記までが加わった。 “神戸連続児童殺傷事件 Ⅰ 「20年間で堆積されたもの」” の続きを読む

人なつこい? ウラギンシジミ


熱中症の危険より・・・食い気

 今年(2024)の9月19日(木)、連日の酷い残暑を食い気で乗り切ろうというわけで、私はベランダで豚肉の一塊に煙を掛けてチャーシューに変えてやろうと目論んでいました。

 ふと気付くと、漬け汁の臭いに誘われたのか、燻製鍋の近くに置いたペーパータオルに1頭の小型のチョウがやって来ています。
 翅の裏が、アクリールガッシュ絵具を一刷毛で塗り上げたように、一面に鈍い白色をしていました。…私のうろ憶えによると、この手のチョウはウラギンシジミかヒメシロチョウのどちらかであるはずです。

ヒメシロチョウだったら大変なこと!

 これがヒメシロチョウだったら大変!
 ヒメシロチョウは、かなり前から都道府県の多くで絶滅危惧種も高いところに指定されており、東京都のレッドデータブックでも、例えば八王子市ではここ70年間以上も観察記録がないという希少種。河川敷などの草地が一度に広範囲が機械刈りされてしまうなどのことが生息域を狭めてしまったのだそうで、シロチョウの仲間内でもとりわけハタハタと儚げに飛ぶのだそうです。
 
 カメラを持ちに行って戻って来ても、お客さんは残っていましたから、先ずは1枚。邪魔なステンレスのトングをそっと取り除けても、そのままで居たので2枚目。

 背景がペーパータオルの白のうえに逆光なので、反対側に廻って撮り直そうと腰を浮かすと…飛び立って、ベランダの縁に置いた鉢の上で数回ホッピングしてから行ってしまいました。

ヒメシロチョウは幻 やはりウラギンシジミだった

 写真を見直すと、これは間違いなく、残念ながら、ウラギンシジミ。
 前翅の先端が鋭角に突き出しており、後翅の下縁も少し角張り気味。さらに裏面の一面の銀白色(「裏銀」が名前の由来)が、ブラックペッパーを振りかけた厚手の布を見るように丈夫そうだというのも特徴。
 大きさ19〜27mmでシジミ科最大。頑丈そうに見えるのにふさわしく、花の蜜をはじめ様々のものを求めて元気に飛び回り、幼虫がクズの葉を食べることから、最近増えつつあるのではないかとのこと。なるほど、クズがこのところ、ちょっとした林などは押しつぶさんばかりに独り勝ちにはびこっている様子は気味が悪いほどであるので、ウラギンシジミが増えつつあるというのは頷けることです。

好奇心いっぱい 可愛らしい

 それから3週間ばかりが経った10月13日(日)に、私は子犬を車に乗せて多摩川に行きました。秋になると、土手の斜面に機械が入って雑草が刈り取られているのが例年のことですが、この年は街の真ん中、それも市役所付近の街路樹の枝が落下して死者が出るという不幸な事故があり、そのために危険と思われる街路樹の伐採という喫緊の仕事が優先されて、やむを得ず、河川敷の手入れは後回しとなったようでした。
 私は自分と子犬が川に抜けられるだけの幅を細々と刈り取ろうとしました。このまま冬になると、雑草の種子がヒッツキムシになってワンコに取り付いてしまってドタバタするのを避けたいと思ったからです。

 気が付くと、とりあえず地面に投げ出しておいたカメラに、ウラギンシジミが止まっていました。翅がわずかに開き気味で、翅表のオレンジ色が窺えました。

・・・あらためて、私がカメラをいかに乱雑に扱っているのが分かってびっくりものです。雨に当たったり、落としたり、こすったり、埃だらけ、傷だらけ。それでも奇跡的に壊れません・・・。
 そんな私のカメラの何が気になるのかな? いくらなんでも、おかしな臭いまではしないと思うのだけど。

 ダイヤルやらファインダーやらをためしすがめつし、ようやくカメラを離れると、ウラギンシジミは私の周囲を飛び跳ねるように5・6回も浮き沈みしてから、脇に聳えているニセアカシアの梢を高々と越えてどこかへいってしまいました。

この秋3度目の出会い

 それから2・3日後の午後、玄関先でエゾマツの盆栽に水を掛けていると、独特な翅のきらめきと飛び方からウラギンシジミと知れるチョウがやって来て、エゾマツと水しぶきと私との間で、長々とダンスを披露してくれました。人なつこいのです。

 それからまた数日後のこと、私は子犬の好物の牛のヒズメにデスクグラインダーで切り込みを入れていました。ワンコがもう一度しゃぶり直せるようにするためです。半ば焦げた骨粉が飛び散ると、先ずは子犬が駆け寄って来て鼻をヒクヒクさせました。
 次に現れたのが、なんと、オオスズメバチでした。骨粉の舞う中にホバリングさながら、頭をこちらに向けながら、黄金の狩人は浮いたり沈んだりしておりました。

 ウラギンシジミもスズメバチも、燻煙や下ごしらえの漬け汁、そして骨の香りなどが好きなのだろうと思います。
 一方は、見るからにおどろおどろしく獰猛で、一方は可憐なのですが、似たようなな物を好むとは…生き物というものは不思議です。

 ウラギンシジミ