日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!  そのⅨ 北欧よりも日本にあるもの

この記事は「日本と北欧と世界 日本だってやれるぞ!」を下のように分割したものの、そのⅨです。

そのⅠ ある中年カップルとの会話
そのⅡ 自然災害と天然資源
そのⅢ 来た道 似たところと違うところ
そのⅣ 自然との向き合い方について
そのⅤ デザインについて
そのⅥ 世界の目と自身の目
そのⅦ 日本の今の豊かさ 「貿易立国」から「投資立国」へ
そのⅧ なぜ日本は「最高の国ベスト3」に入るのか
そのⅨ 北欧よりも日本にあるもの
そのⅩ 私の精一杯の提言

そのⅨ 北欧よりも日本にあるもの

不思議な国 日本

 堂々 世界1位の災害大国
幾度か触れてきました。
地球という生々しい惑星の表面を卵の殻のように覆っている薄い皮(プレート)は、およそ12枚にひび割れているところ、そのうちの4枚がせめぎ合うことで盛り上がったが日本列島なのですから、地震と噴火が多いのは当たり前のことではあります。

その列島はさらに、たとえば宇宙ステーションからは南から北に横たわっているのように見え、それを尻尾から頭まで串刺しにするかのように、台風も来襲して猛威を振るいます。

狭い国土 資源貧国
国土面積は世界80位(ノルウェーとほぼ同じ)と小さく、資源に恵まれておらず、エネルギー自給率はわずか10%(ノルウェー800%、北欧4国平均250%)にとどまります。
離島が四方に点在しているために「排他的経済水域」は世界6位という広大さであり、そこに豊富なエネルギー資源や鉱物資源が存在することが明らかになっているものの、エネルギー資源として期待されるメタンハイドレートは海底からさらに数百メートルも下に、レアメタルなどの鉱物資源は海底火山の周辺などに見られる海底熱水鉱床に在るので、探索と採掘は大変に難しく、安定してコストに見合うだけの量を得ることができるのは相当先になりそうです。

にもかかわらず
にもかかわらず、現在の日本はGDPだけを取り上げても世界3位。
そうした今を支えるに、これもこれまで見たように、視点によっては北欧をしのぐほどに脈々と拍動し続けているのは、いったいどうしてでしょう。

北欧の人からすれば、日本は「人がひしめいている極東の小さな島」でありましょう。来日して世界一の大都市である東京の、おそらく世界一複雑に地下を掘り下げている東京駅に立って、巨大地震発生率30年以内に80%以上と知らされているにもかかわらず、平然(?)と行き交っている人々を見たら不気味にさえ感じるかもしれません。
けれど、かつて何万年も前に、何ものかを求めて列島に到達した私たちの祖先たちは、この島々の美しさ、豊かさ、恐ろしさと常に真正面から向き合って探求してきました。
そしていま、良かれ悪しかれ、今のように私たちは在るのです。

現在の私たちの特性
これまで様々な視点から見てきました。現在の私たち日本人の特性を「貿易立国」と「投資立国」というバランスから抽出すると、次のようになりそうです。

主として貿易立国を支えているもの
・・・勤勉・緻密・控え目・均一に高い知的能力・満点主義・過敏・没個と集団志向・寛容さに欠けるところ・・・

主として投資立国を支えているもの
・・・大胆・冒険的・先見的に広域を見る能力・危機管理能力(危機予防よりも危機処理)・鈍感と楽天(自然災害に対して)・・・

全く反対に向かう特性を一つの個人や民族が同時に備えているのは当たり前のことなのでしょうが、その相反ぶりがそれぞれに際立って反り上がっているのが私たち日本人の特徴のようです。
その反り上がりぶりは、例えば「幸福度ランキング(国連)」などで、調査項目によって結果が真反対の傾向となって現れ、「違う国の結果が混じったのではないか?」と、とまどってしまうまでになっています。

日本列島に渡ってきた人々 大胆な冒険者

ヒト(ホモ・サピエンス)というもの
ヒトは、DNAの配列から見れば98.5〜99.0%はチンパンジーなのですが、そのわずかな差がもたらしているものには驚くばかりです。
言葉をあやつるということを決定的な特徴として現世人類ホモ・サピエンスが現われますが、彼らは驚くばかりの想像力と創造力を備えた新種でした。それが高い身体能力に支えられて、信じられないほどの環境適応力と行動力をもたらします。少し詳しくは、このブログの「ヒトの正体」というカテゴリーの中の「裸のヒトとその能力」という記事を参照してください。

現世人類は7万年ほど前にアフリカを出て世界中に拡散し、今よりも寒冷であったヨーロッパ西部に見事な洞窟壁画までを残し、東方では冬季気温が-30℃を下回る北部シベリアにもたくさんの旧石器時代遺跡を残し、15000年前ほどから一部はさらに東に向かい、その頃は存在した陸の回廊を渡って北米のアラスカに到達し、北米を縦断して南米に至り、さらに南下して1000年ほど後についには南極圏にほど近い突端にまで行き着いてようやく留まりました。パタゴニアに住みついたモンゴロイドの一族のことを言っています。
それほど古い出来事ではありません。人類の祖先がチンパンジーから分かれ始めた500万年前から現在までを100㎝のスケールに取ると、現生人類が世界に拡散を始めたのは98㎝ほどのあたり、南米の端に行き着いて留まったのは99.7㎝ほどのところになります。
地球は案外狭いというか、営みの変遷は速いものだというか、温暖なアフリカを出てわざわざ極寒の地に至り、それから再び対極の極寒の地へ…それにしても現生人類の逞しい想像力と創造力は、横の方向にも縦の方向にもむさぼるように発揮され続けました。
横に向かうエネルギーとは、文字どおり地理的に新天地を求めて移動しようとするエネルギーのことを、縦の方向のそれとは、到達した一点一点で道具を工夫し、狩りや農耕を改良し、居住性を高め、呪術や芸術を深めようとするエネルギーを指しています。

列島に渡ってきた人々
何時どのようにしてホモ・サピエンスのエネルギーは日本列島に到達したのか、最近、明らかになってきています。三つのルートがありました。

①大陸から朝鮮半島を南下し、対馬を経て九州に至る「対馬ルート」。最も古いルートでおよそ38000年前のこと。②台湾から琉球の島々を北上した「沖縄ルート」。およそ30000年前のこと。③大陸の北側からサハリンを通って北海道に至った「北海道ルート」。使われたのがおよそ25000年前のこと。

当時、最後の氷河期のために海面は現在よりも80mほど低く、それだけ黄海と日本海は浅く、北海道は大陸と地続きでした。それでも、「対馬ルート」を辿るには40㎞ほどの海峡を渡らなければならず、「沖縄ルート」で島伝いに北上するとすれば黒潮をよぎるようにして100㎞ほどを航海しなければならなかったはずです。

遺跡などを繋ぎ合わせて検討すると、信じられないような大冒険が浮かび上がってきます。
最少でどれだけの人数で新天地に渡れば移動先で繁栄することができるのか。どうしてこれを知っていたのでしょう?
旧石器時代のヒトの一群が、石の斧で彫り上げた丸木舟に乗って未知の大海に乗り出し、最近のシミュレーションによれば、少なくとも男女5組のカップルが100㎞の渡航に成功したのです!
横揺れに弱いカヌーで外洋に出たらどういうことになるか、私にもおおよそ想像できます。しかも、一艘に5人が乗れたとすれば、少なくても2艘が前後してでも同じ島に行き着かなければ、企ての結果はゼロなのです。

強固につながり合った意志と体力、周到性と決断力、それに運が合わさってこそ手に入れることができた快挙でした。今を生きている私には、爪の垢を煎じて飲みたいほどのエネルギーです。
そうしたエネルギーは、飢えからもたらされたものか。闘争などの成り行きからもたらされたものか…。
「根源的に宇宙が持つエネルギー」に駆動されたものだとしか捉えようがないようにも思われます。

私たちの祖先は、かつてアフリカを離れてユーラシア大陸を東に向かったホモ・サピエンスの一部のうち、海を知り、それを怖れるばかりではなく、海を果敢に乗り越える術を蓄積した人々でした。
大きなロマンと貫徹力を備えた人たちでした!

水を溜めて米を作る 新技術がもたらしたもの

 農耕が始まったのはおよそ1万年前のこと、気候との関係もあって、中東から西の人は主な作物として「麦」を選び出し、それより東の人は「米」を選びました。これがそれからの文明の質に関連しています。

稲作はインドで始まったとされ、5000年ほど前には中国の長江流域へ、3500年前ほど前に日本に伝来したようです。それ以前の縄文時代の日本の人口は20万人ほどであったろうとする推定があり、土地を占有するという概念は薄いものでした。上陸した稲作は各地に広がって定着してゆきます。それは余剰を生み出す社会の始まりであり、日本という国家の芽生えでもありました。

農地を「絶対水平」にしたうえに水を張って米を作る技術、つまり水田が日本に渡ってきたのは稲そのものよりも1000年ほど遅れた2500年ほど前のことですが、弥生時代後期の静岡県登呂遺跡の水田は、すでに畦(あぜ)や用水路や堰(せき)や高床式倉庫が整備されており、美しい日本の農村の原風景が見られたようです。

農地の有効利用と養える人数の増加
水を張って稲を作るという技術は画期的なものでした。
水の持つ保温効果がセーターのような役割を果たして、もともと熱帯性の作物である稲が寒冷地でも栽培できるようになり、現に弥生時代の中期には東北地方の北部まで稲作は広がったことが分かっています。
水を張ることで土の中の水分調節が不要となり、酸欠状態になることから病・害虫を減らし、雑草を抑え、生育に有害な塩分などを流し出し、必要なミネラルは引き入れた水から供給されます。
これらが相乗して連作障害を抑えられたので、毎年同じ場所で栽培することができるようになり、面積当たりの収穫量を大幅に上げられるようになりました。
連なった水田は膨大な水を蓄え、それがダムのような作用をして水害を防ぐ効果を担うこともできたのです。

イネという植物の根には特殊なバリアがあり、葉で吸収した酸素を根の先まで効率よく運ぶことができるので、他の植物には不利な水田という環境で稲は育ちます。これが列島のそれからの人々の在り様を決めてゆくことになります。

米と人口

もう一度「米」というものに注目します。
米は美味しくて貯えがきき、なによりも、単位当たりの収穫量が多く、1反歩(10アール)当たりのカロリー収量を見ると、米およそ100万カロリー、麦類40万カロリー、トウモロコシ・大豆など30万カロリー以下ということです。米は際立って優れた作物なのです。

日本では何時のころからか、人は1人1年間で1石(150㎏)の米を食べるとされ、これはどうも当たっており、足利時代からの統計を見ると、石で表した米の産額と人口は一致しています。
奈良時代の人口およそ400万人、鎌倉時代およそ700万人、足利時代800万人とする推定があり、江戸時代初期の米の産額は3000万石ほどで人口3000万人、明治維新当時の米の産額は3500万石で人口3500万人。
そして明治維新以来100年の西暦1968年(昭和43年)前後に米の生産はピークの9300万石(1400万トン)に達し、この時日本の人口は1億人を突破しました。徳川250年間に10%強しか増えなかった人口が、明治以来の100年で3倍近くになったというのは、それを可能にした米の産額の増加とよく一致しています。

ちなみに、1970年に1400万トンというピークに達した米の生産はその後は減少に転じ、50年後の現在は780万トンにまで縮小し、一人当たりの消費量も54㎏(0.4石)となっています。「コメ離れ」というのは本当のことで、有史以来の「一人一石」という関係は成り立たなくなっています。
私たちは食料自給率を下げても、外国からの食糧を食べるようになりました。こんなことにも、私たちの変わり身の速さが窺えます。

世界の米の90%はアジアで生産されています。
そのアジアには世界の全人口の60%が住んでいます。それを可能にしているのは、云うまでもなく「米」です。
モンスーンアジアでは二期作や二毛作が可能なところが多く、雨期に深く水に浸かっても生育できるような品種も改良されています。単位あたり得られるエネルギーはさらに大きくなりつつあります。
そうしたわけで、日本を含むアジアの人口密度は高く、日本と北欧との人口密度を比べてみると、日本は1平方キロメートル当たり347人。これに対し、北欧は49人。日本の人口密度は北欧4国の7倍(ノルウェーに限れば23倍)となります。ちなみに世界平均は1平方キロメートル当たり60人です。米の力と言えましょう。

水田管理の大変さと集団志向

弥生時代に戻ります。
米は貯えることができるので、その貯えの大小によって「貧富の差」が現われはじめました。土地と農地が格段に意味を持つものになってゆきます。

開拓・灌漑・用水路設計の大変さ
私は里山を守る会のボランティア活動で、長く放置されていた畑を元に戻したことがあります。笹の根と格闘する数週間でしたが、はるか太古の昔に武蔵野の地を開拓した人々はどんなに大変だったろうと思い知らされたものでした。
彼らは、鉄製の斧や鍬などを持たずに、原野を切り開いたのです。おそらく石器で巨木を切り倒し、根を掘り起こし、笹と格闘するという労働を来る日も来る日も、おそらく幾代にもわたって続けなければなりませんでした。
危険な作業でもあったに違いありません。父が木の下敷きになり、兄弟が転げ落ちて大怪我をするといった不幸も稀ではなかったはずです。
このようにして切り開いた土地には、深い想いがこもってゆくということを私たちは理解しなければならないと思います。

集団志向を強化したもの
開墾地を水田に変えるとなると、さらに大変なことでした。地を水平に造作して階段状に繋げ、川から水を導いてきて、それがどの面にも行き渡るように、乾燥しないように、溢れないように、水路を巡らさなければなりません。
多くの家族がかかわる開拓、治水、灌漑、用水路設計といった共同作業になると、集落や村落が生まれ、それらを統率する基準が必要になります。
一人が独断で川からの取り入れ口をいじったり、用水路を変えたりすると、下流のおおぜいの人に取り返しのつかない損害を与えてしまうことになります。稲の成長に合わせて、田に深く水を張ったり、浅くしたり、時には水を抜いて乾かす(深水・抱水・中干し・落水)などいった管理がスムースになされなければ、その1年は無駄になります。死活の問題であり、のちに「農村数学」と呼ばれるようになったほどに緻密さに支えられたものでもありました。

「皆と足並みを揃えていないと米作りは難しい」「その米作りを離れては生きてゆけない」という捉え方が「米文化」の底として培われてくるのは必然のように思われます。
そこでの対人関係の基本は「あなたと私は同じなのだ」という認識であり、これが一つの水源で成り立っている村落にまで拡大すると、「私たちはみんな同じ」となり、用水路を勝手にいじる者は「村八分」にということになります。村八分どころか、後の資料としての「村おきて」には、もっと厳しい取り決めがあったことが残されています。

そうした村と村とが水源を争って「私たちとあいつら」という関係になってしまった時、双方が協力して新しい水源を開発することができれば、あるいは話し合いによって水配分の新しいルールができれば、二つの村は一つに融合されて大きな「みんな同じ」村になります。
このように、集団は衝突をくりかえして「みんな同じ」「違うものに対して不寛容」の規模を大きくしてゆき、弥生時代の末期の日本には30の国があり、最強の国が女王卑弥呼が統率する邪馬台国だったと伝えられています。米を「税」として納めさせて広域を維持するという仕組みが、すでに出来上がっていたわけです。

「動」の特性を封じ込める「静」の特性
かつて日本列島に渡ってきた私たちの祖先は、大胆果敢に横に広がろうとする、いわば「動」の特性の豊かな人たちでした。
そうした人々が「稲作」という技術を手にするにつれ、一定の農地に米を作ることで生きられる人数が目覚ましく増え、増えれば増えるほど、おいそれと水田を離れられなくなります。留まって掘り下げる「静」の特性が大きな役割を果たすようになります。

奈良時代を中心になされた「防人」を考えてみます。多くは関東から徴兵されたのですが、当時の人口は推定400万人ほどで、現在の名古屋市と札幌市に住む人たちが全国に拡散した程度でしたから、防人として九州まで行けと指名された時に、当時は未開であった北方にでも逃亡してしまうという手もあったと思うのです。
彼らはそれをしませんでした。妻や子や親を、村を、つまり水田を離れることができなかったからです。人質に取られていたようなものです。「防人の歌」に見るように、壮丁たちは別れを惜しんでは、行き倒れることも多かったという長くて苦しい任務に就きました。すでに、「赤紙」を拒めなかった後世と同じことだったのです。

日本を決定づけた「墾田永世私財法」

列島の中央部で次第に強大になった大和朝廷は人々に一定の田を与え、もみ米で「粗」を収めさせます。古墳時代、飛鳥時代、奈良時代の中期までは水田は公(国)のものとされ、田を分け与えられた者は収穫の3〜10%ほどを納めたようです。
奈良時代中期になって、粗・庸・調と拡大されてきた負担に苦しんだ人々に、たまらず逃散するものが増えてきたために、724(天平15)年に聖武天皇によって「墾田永世私財法」が発出され、開墾した個人が田を永久に所有できるようになりました。土地公有の原則を破り、水田の私有化を許したということで、この法律はそれからの日本の仕組みを決定づけた重大なものとなりました。
有力な寺社や貴族が争って開墾をするようになり、私有地である「荘園」が大きくなってゆきます。
荘園は増え続けます。その境界などを巡る土地争いから、農民が武装し合うようになり、その中からプロ化した武士団が発生します。土地争いは一層ダイナミックになりました。
刀にものを言わすだけに武士団は強く、それから鎌倉・戦国・安土桃山・江戸時代を通して、日本の歴史は、武士組織集団による土地と農民、つまり「石」の奪い合いだったとまとめることができそうです。それをわけても鮮明にしたのが、豊臣秀吉による「太閤検地」という大規模で徹底した測量事業でした。
「刀狩」と「度量衡の統一」もなされ、「米」は明治維新まで国家運営の基礎であり続けました。

米文化と麦文化の差の表れ

「麦文化」においても、村を作り国を作ってきたのは「集団志向」であるに違いないのですが、その緊密度に差があり、麦畑は水田のように厳密に繋がっていないが故に、麦作文化では「私とあなたは違うのだ」というのが対人関係の基本であるとまとめられそうです。

くしくもそれは、最近の「コロナ禍」の状況にも表れているようです。
「カンツォーネ・フラメンコ・シャンソンはコロナに弱く、オーケストラは強い」
初期から、新型コロナは際立ってヨーロッパで猛威を振るいました。ことにイタリア・スペイン・フランスといった国々で爆発的で、ドイツ・オーストリア・北欧などでは低く抑えられていました。
個の直截な表出を大切にするラテン系文化と、一歩を置いて調和を考えるゲルマン・ノルマン系文化との違い。これが、ウィルスが感染してゆく機会や場面の大小となって現われるのだろうと思われました。
「米文化は麦文化よりもコロナに強い」
やがてパンデミックとなって世界中の状況が知られるようになると、もっと大きく、文化の差、つまり対人関係の基本が感染の高低を色分けるのだろうと思えるようになりました。
人口密度が高く、途上国も少なくないアジアで概して感染拡大が喰い止められているのは、他と違うことをすることには基本としてブレーキがかかる米文化というものが根底にあるからだと思われます。まだ渦中にあってさまざまに想定されているるものの、「ファクターX」の正体はそんなところなのかも知れません。
他と違うことをするのがむしろ奨励される麦文化においては、マスクの着用だけに限ってみても、法令による罰則を設けなければ徹底は難しいのでしょう。

まとめ  北欧よりも日本にあるもの

3万年ほど前に日本列島に渡ってきた私たちの祖先は、かつてアフリカを離れてユーラシア大陸を東に拡がったホモ・サピエンスの一部のうち、石の斧で彫り上げた「丸木舟」で、一定規模の集団で、大海を乗り越える術を積み上げた人々でした。人類史上でも稀に見る冒険プロジェクトと言えます。
その大きなロマンと貫徹力は、「動・横」のエネルギーとして、今の私たちの血の中に伝えられています。

「稲」という植物が運命的な作用を及ぼしました。
「水田稲作」は2500年ほど前に渡来したのですが、優れた収穫量から多くの人を養うことができるようになったものの、水田開拓や潅漑を始めとする栽培管理の微妙さは集団での共同を強く要求することになります。
一点に留まって掘り下げる「静・縦」へ。私達についてよく言われる「集団志向」という特性は、良しにつけ悪しきにつけ、稲作が始まった時から間断なく強化され続けてきたものと云えそうです。

「動」と「静」とは、日本の歴史を交互に織り上げてきました。朝鮮出兵までに至った戦国時代の動、江戸時代の静、アジア全体にまで拡大しようとした近現代の動。さすがに学ぶところがあって、第二次大戦後の現代は75年に亘ってバランスを失わずにいます。

北欧よりも日本にあるもの
日本は、国土が小さく不安定で、押しも押されぬ「世界一の自然災害大国」であるうえに、おかしなほどに天然資源に恵まれていません。
それにもかかわらず、その経済規模は世界第3位を維持しており、視点によっては今をときめく北欧諸国をも凌いで「世界最高の国ランキング3位」を占めることがあるという不思議な国です。

この不思議の種明かしは何でしょう。
現在の「投資立国」に現れているように、大胆さ・広域を見る能力・積極性などという「動」の特性を多く備え、その一方で、「貿易立国」を支えていることから知られるように、勤勉・緻密・控え目・集団志向・などという「静」の特性にも豊かな人々。相反した特性を際立たせて組み合わせている人々が、人口密度高く生活していること。
ずばり、人。これが北欧よりも日本に多くあるものです。
自信を持って言えます。今の私たちは、大筋、間違ってはいません。私たちだからこそ、列島を維持してさらに発展できるのです!特性を認識しつつ、唯一のやり方は次のようになります。
  ・・・壮大に発想し、ゆっくりと緻密に実行する・・・

 

ロウボウ

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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