こんなことがあってから60年以上が経ってしまっている。
大学1年の夏休み、私は木曾谷に帰っていたが、かつての同級生に学生などと付き合っている暇があるわけもなく、ひとりで夏の時間をもてあまし気味になっていた。
ある午後、土蔵のひとつにもぐり込んであたりを掻き回していると、戦時中に配給されたものか買わされたものか、「〇〇年式防毒面」というのが出てきた。防毒面というのはガスマスクの古い呼び方である。
帆布に厚く生ゴムがかけられ、前面に円形の厚いガラスがメガネほどの間隔ではめ込まれており、その下に鼻のための小さな隆起があり、さらにその下はカッパの口のように尖っていた。尖った先が捻じ込み式になっていて、半リットルほどの缶を装着するようになっていた。缶の中身は活性炭が主成分であるらしい。おそるおそる面を頭から被ってみると、顔が締め付けられるように張り付いてきた。次いで、缶の底にはめ込まれているゴム栓を抜いてみると、相当の抵抗があったがカビ臭い空気を吸い込めた。ゴム栓を元どおりにはめ込むと、ぴたりと呼吸ができなくなる。製作されてから二十年ちかくを経ているはずでいながら、なお気密性というか密着性は保たれていた・・・。
戦争も押しつまってくると、「いよいよダムが爆撃される」と言われだした。軍需産業の少なくない部分が水力発電によって支えられるようになっていると聞けば、なるほどとうなづけることで、国家総力戦というものの怖ろしさというべきか、山と川ばかりの谷に戦争が這い登ってきたわけである。
私は6歳だった。小さな幼稚園で繰り返されることは、「伏せ!」の号令一下、両の拇指でそれぞれの側の耳の穴をふさぎ、人差し指と中指で眼球を押さえ、小指で鼻の穴をふさいで、地面に顔を打ち当てるような勢いで倒れるという訓練ばかりになった。爆風のために目の玉が飛び出してしまうか、鼓膜が破れてしまうか、あるいはその両方が起こるのを防ぐのだと教えられた。
「空襲警戒警報」のサイレンが鳴るようになった。強く弱く、波のように反復するあのやり方である。谷は深く、山々は重なっているから、木霊は木霊を呼んで殷殷とひびき、山と川の全体がうめいているように感じられた。当時、谷でただ一人の医者であった父のところへ、防毒面がやって来たのはそのころのことだろうと思われる。
幾箇所かのダムが爆撃のために決壊したとき、合流して盛り上がった濁流は崖のようになって下流に向かうであろう。そんなものに直撃されるよりも、できるだけ上流に居るほうがむしろ安全だろうと父は考え、とりあえず祖母と私とすぐ上の兄の三人を、祖母の実家にあずかってもらった。祖母の家は町からさらに奥まったところ、木曾御嶽の二合目とされている神社の脇の高台にあり、縁側から大きなダムの一つを見下ろすことができた。
満月の夜、桑の木の枝をくっきりと映している障子戸のスクリーンを、非常に低く、しかし音もなく、大きな四発の飛行機の影がゆっくりと斜めに切り取って行ったことがあるのを憶えている。
祖母は、毎晩のように低い声で同じような話をした。
・・・手ぬぐいをあおってはいけんというに。そのパチリという音はの、罪人の首に刀がはじける音にそっくりなそうじゃ。はやくここへ来て横になれ。・・・聞いとるかや。おまえの先祖は坂東平氏の・・・
勢い良く樋を伝っては地面にあたる水音が、頻繁に祖母の話を途切らせた。そのたびに、祖母は私の手を布団のなかで強く握り締めてくれた。
届出も許可もなにもなかったであろう。父は、祖母の家の離れを今でいう伝染病棟として使っていた。患者はダムの建設や保全のために使われている労働者たちだった。何人も集められた赤痢患者の下痢便が、にわか作りの木の樋を走りぬけ、深く掘られた穴につぎからつぎへと落下していた。
爆撃のためではなく、幾日も降り続いた雨のために、目の下のダムがあふれたことがある。戦争は山々をなめるように乱伐させ、水を保っておく能力が殺がれていたのであろう。早朝いきなり雨がやみ、あたりが静かになってみると、ダムが唸りをあげているのが霧の幕を抜けて聞こえてきた。ようやく見通せるようになった景色は、いつもとはまったく違ったものだった。堰堤は赤茶けた水に乗り越えられ、おびただしい飛沫がつぎつぎに高く吹き上がっていて、ほんとうに爆撃を受けたのではないかと疑われるようだった。地鳴りが加わってきた。盛り上がった水面がいくつかの渦になってぶつかり合っており、流木や家の屋根、なにやら工事現場の構造物の一部であるらしいものを浮き沈みさせている。水際をたどってゆくと、いま水の中に引き込まれようとしている五、六戸の集落が小さな山襞のあいだに身を寄せ合っているのが見えた。板を重ねた上を石で押さえてある屋根がじわじわと捻られてゆくのがわかると、胸がどきどきした。
御影石の鳥居の前の石段に、布団だけをうずたかく背負った男と、鍋や釜を肩にくくりつけたうえ幼い女の子を胸に抱いた女が、ならんで腰をかけて大きな息をしていた。二人の吐き出す息が、真夏でありながら、調子をあわせて白く横に流れていた。そして、どこからか集められて来ていたらしい労働者の群れが、緊急な事態ということで解放されたのであろう、あちらにひとかたまり、こちらに一団。痩せ細った脚をひどく軽々と動かしながらたむろしており、自由にされたばかりの大きな鳥のように、ふいに真上に跳び上がることを繰り返していた。「家の中に入ってじっとしておれ」と祖母が言った。その肩越しに太く細く、樋を流れ落ちる水音が続いていた。
それから数日して、「無条件降伏」というかたちで戦争は終わった。「防毒面」は行方不明になった。そしておよそ十二年後に、大学一年生になった私の手の上によみがえったというわけである。
ダムで、それも一人で泳ぐことには勇気が要るものである。発電用の取水口があり、そのトンネルの先で街ひとつをまかなうほどの電力を生み出すべく、研ぎ澄まされた巨大なスクリューが唸りをあげている。一方、発電用の取水口とは別なところにある、水位を調節するための水門を越えてゆく流れにうっかり巻き込まれるようなことがあれば、高いコンクリートの壁をまっさかさまである。もやい綱が解けて漂いだしたボートが、こうした目にあってほとんど垂直に落下し、微塵に砕け散っているのを見たことがあった。
ダムという人造湖の水の性質というか、雰囲気というか、いくら用心していてもどうにもならないことがある。岸に並んだ木々の下枝で隠された暗い深み。表面のわずかばかりが暖められていて、立ち泳ぎなどをすると、心臓から下をぞくりと引き締めてくる重い水。指のあいだに入り込んでくる泥の感触。はるか下に水没している家々の土台、石垣、代々の墓所、立ち枯れた社の木々、忘れられた地蔵、道祖神、化け物のような大岩魚。
ふいに得体の知れない恐怖にとりつかれて、岸からはなれたところで身体がこわばってしまい、パニック寸前になってしまうことがあった。
そんなにもかかわらず、「防毒面」をためつすがめつしているうちに、すばらしいと思える退屈しのぎが閃いた。気密は十分に保たれているから、活性炭の入った缶の代わりに長い管を取り付け、その一方の端を水面に出しておけば、水の中で呼吸ができるはずである! それを実験して水の中を体験するには、どうにも鬼門筋であったダムの世話になるよりほかはないと覚悟を決めることにした。 小遣いをはたいて、そのころから出回りはじめた透明のビニールホースを六メートル買って来、一方の端をマスクの口に固定しようとした。これには広口の薬ビンに使われていたコルクの栓をていねいに削ったりくり貫いたりし、その穴にホースをねじ込み、絶縁テープで補強してどうにか数メートルの水圧に耐えるだろうというまでにした。ホースの他の一方は、しかるべき巾と厚みのある板の真ん中に開けた穴に通し、板を水面に浮かべた場合、ホースの先が常に三十センチは空中に突き立っているようにした。一昼夜がかりの工作となった。
勇躍、これらを自転車に積んで「黒川度ダム」に出かけ、できるだけ上流の明るげなところまでさかのぼった。人の目がないことを確かめてからパンツ一枚になり、実験にとりかかった。かなりの錘が必要であることがすぐに知れたので、漬物石ほどの大きさの火成岩を抱えることにした。防毒面を被って点検し、思い切って顔を伏せ、身を沈めた。
成功したのである! 水の中で静かに息をすることができた! いちど散ってしまったウグイやヤマメが岩の陰の渦の下にふたたび集まりだし、いっせいに上流を向いて群遊するありさまを横からあざやかに見ることができた。彼らは或る一点で、それぞれが金属の板のように光った。魚というものはなんと蜜に棲息しているのだろう。岩の水面下には苔が繁茂している。これが驚くほど豊かであるらしい別の世界を支えている畑なのであろう。
耳の奥が痛くなると、列車がトンネルに入ったときのように、私は喉をごくりごくりと動かして内と外との圧力の平衡を取った。ずっと後になって知ったことだが、この操作を「耳抜き」といって、ダイビングをやろうとするときにはまずマスターしなければならないことであった。
十三、四分ばかり夢中になっていた。魚の群れにゆっくりと近づいたり、片手をひらつかせて散らしてみたり、無数の鏡がひしめきあって流れていくような頭上のきらめきに驚いたりしていると、にわかにするどい頭痛を感じるようになり、たちまち我慢できないほどの吐き気が加わった。
水からあがってマスクを剥ぎ取ると、頭痛はほとんど瞬時に消えてしまったが、代わりに、おさえることのできない胴震いが始まった。頭を強く締め付けるゴムバンドと、六メートルのホースが原因だと推測した。ホースに含まれる空気はなんどもなんども吸ったり吐いたりされるばかりで換気されることがない。マスクの内側に溜まる量と一緒に、しだいに酸素の薄いものになるだろう。いわゆるデッドスペースが大きすぎるのだろうと考えた。
次の日に思い切ってホースを半分に切り、いくらかの改善を得たが、マスクとコルク栓の接合部が完全に水密でなく、これが抜け離れたら、冷たい水が肺に押し入ってくるだろうという不安がしだいに高まってきていた。
私は頭を、流れ込んでくる沢の上流に向かうように保ち続けていた。しばらくしたところでふいに、ダムの本体の方角の暗い深みから、一対の静かな目がじっと背後をうかがっているのが感じられた。「図に乗ってはいけない。これ以上は命にかかわる!」という強い勘が吹き上がってきた。つき動かされて私はごたごたしたものを掻き集め、逃げるようにして、しかし無事に帰ってきた。
父にこの快挙(?)を報告しようとしたが、我慢しなければならなかった。
それより前、私が高校の二年の夏に、父は一度目の軽い脳卒中におそわれ、麻痺症状をおどろくほどの短期間で克服したものの、さすがに全体の活力が目に見えて落ちていた。
大学進学をあきらめて模型飛行機ばかりいじくっていた私に、「不公平になってはいかんから、おまえにもチャンスをやろう。ただし、一回だけだ。わしには時間がない」と生意気盛りの高校生が息を呑むような剛毅なことを言ってくれた。それで一冬と一夏を、私は気が触れたように勉強することになった・・・。
ダムから無事に帰った日、幼い頃から似たようなことをやっては、「馬鹿!」と決めつけられていたことが、一面で楽しみを含んだ遣り取りでもあったことに私はようやく思い当たった。
それから数年後に二度目の発作を起こして、父は死んだ。「防毒面」は今度こそは行方不明となり、ダムは今も私にとって鬼門筋であり続けている。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。