冬の半魚人

 中学二年の晩秋の夕暮。私たちは一列縦隊になって山道を走っていた。まず足腰を鍛えようという野球クラブの訓練で、学校から出て「黒川渡ダム」をひとまわりして帰ってくるというのが定番のコースだった。なるほど、木の根や石ころをうまく避けて走ることは野球のためにもわるくないトレーニングだったろう。急な坂をのぼりつめると、こんどは木の間越しに黒い水面を透かしながらの下り坂が続いた。私たちは勢いづいて駆け下りにかかった。
 「なんだ!」
 先頭を引き受けていた先生がいきなり立ちすくんだので、全員がたたらを踏んで追突をくりかえし、斜面から落ちかかった者もいるほどの混乱となった。

 見ると、岸から百メートルほど離れた黒い深みの部分があやしくさわいでおり、波紋がつぎつぎと周囲に繰り出されていた。そしてその中心に、黒っぽいものがうごめいている。しばらく頭とおもわれる部分だけを見せていたが、やがて奇怪な半身をのっそりとあらわした。
 「ひとだ!」
 誰かが叫んだ。 木曾山中にあるダムの水は冷たく、かつて人が何代も生活を営んでいたいわくのある上に水を溜めてあるわけだから、その上をふわふわしているかと思えば気味悪くもあり、夏の盛りでも水浴をたくらむ人はまず居るものではない。取水口に近づき過ぎたら、それっきりでもある。まして、もうすぐ初雪が舞うかという十一月も末のいま、・・・誰かが溺れているのだと私は考えたが、溺れているどころか、その怪人物の様子はいかにも落ち着いて見えるうえ、なお湖の中心を目指して移動してゆく。
 「狂っている」
 私は断定した。皆が賛同し、どっと岸辺まで駆け寄った。あのようにきわどい人がこのあたりに居たかしらんといぶかしみながら、私も走った。が、途中、いきなり強力なブレーキに抑えられてそれなり前へ進めなくなってしまった。相当の確信をともなった恐ろしい考えが湧き上がったからであった。
 自分の父親! 日ごろの行状を思い浮かべれば、充分ありうることである。目の前で奇怪な行為をしている人物が、たとえどこの何様であっても、たった今、ダムの底に沈んで永遠に浮かび上がってこなければ良いと願ったほどである。むなしく、怪人は方向を変えてゆっくりと岸に近づいてくる。私は刑の宣告を待つ囚人のような数分間を経験した。
 「や、あれはケンジの親父じゃねえか!」
 下駄屋の息子の俊夫という目の速いのが、雪男の正体を見とどけたといわんばかりに興奮して火ぶたを切り、みなが口々に
 「そうだ、そうだ」
 「ケンの親父だ!」
 手を打ち合って、あたりを跳ね回りはじめた。逆立ちをして砂利の上にひっくり返って見せたのもいた。
そのころから何十年か育ってあのような場面に遭遇したなら、「泳ぐ阿呆に見る阿呆・・・」などと自分もざぶざぶと水の中に入って見せて煙に巻くぐらいの知恵が働いたかもしれない。当時、中学生であった私は竹の子のように青臭かった。
 父が岸に近づき、雫をたらしてよろめき上がってくると、先生をふくめて皆が数歩ずつあとずさりをした。そんなものは目にも入らんととぼけきって、父は悠々と服を着はじめた。このあたりが父に特有の芝居気である。そうして、後始末を私にそっくり遺して、往診かばんを付けた自転車にまたがり、ふらりと姿を消してしまった。
 その日はダム一周を省略して、そのまま学校に戻ることになった。私は列の一番うしろにくっついて足元ばかりを見て走った。これだけで済むはずはなかった。
 「ケンの親父は、気が狂っとるのかや」
 誰かの第一声に、待ってましたとばかりに一同がどっと沸きたった。
 「間違いないずらあ。息子が自分で言ったんだもの。なあ、ケン」
 「おまえの親父は毛むくじゃらだなあ」
 かわるがわる、矢を射かけてくるのだが、ひたすらうつむいて走り続けているより仕方がなかった。人を気が狂っているなどと軽々しく決め付けると、こういう目に会うことになる。大人であれば、男が毛深いのは必ずしも不自然なものではないと思えもするだろうが、子どもにとっては、「おまえはゴリラの子だろう」と言われたのと同じことである。

憤然として家に帰り、「父ちゃんのおかげでとんだ恥をかいた」と抗議におよんだ。
「往診の帰りに酔いを醒まそうとしただけのことだ。なにか。水のあるところで水泳をしちゃいかんか」 
 「そんなら、そういうふうに皆に話をすればいいじゃない」
 「このあいだ身体検査に学校へ行った。なんと、おまえの習字が張り出してあった。わしは先生たちの前で大恥をかいた。そのことでお前はわしに謝ったことがあるか」
 「父ちゃんのこと、気が狂ってるんだってよ」
 「ああ、結構である!ついでだから、今夜は続きをして見せてやろうと思っとる。おまえ、墨を擦れやい」
 習字でもやらせようというつもりだったらとんだお門違いだぞと反抗の気配を見せると、父は黙って杯を二、三度口に運び、いきなり怒号した。
 「擦れといったら擦れ!」
 こうなれば従うより手はない。さもないと次に何が起こるか知れたものではない。硯にいっぱい墨を擦りあげて持ってゆくと
 「おう、これへ」
 ころりと殺気をおさめ、杯を置き、先のささくれた太い筆を手にし、あやしい手元でどっぷりと墨を含ませた。ゆらりと立ち上がって敷居のところまでさがり、振り返って身構えた。
 なにをたくらんでいるのかがようやく知れた。父の目の前には、十畳の座敷を仕切るように、張り替えたばかりの無地のフスマが四枚立っていた。筆を馬手にたかだかと掲げ、じゅうぶんな間合いを取ってからつと動き出し、いちばん右手の一枚のところにいたって、その最上部にどんと筆を降ろした。袈裟懸けに四枚のフスマをぶち通して、右上から左下へ、くねくねした線を一本。墨をひたしなおして、ほぼ平行な二本目。一気に引きおろした。そこで敷居の端までさがって背を半身に反らし、筆の穂先をなめながら、さかんに目を細めてフスマをうかがった。
 「できるぞ」
 私をぎろりと睨みすえた。舌も唇も、口のまわりを真っ黒にしたうえ、目つきが普通でないから、父は本当に大丈夫なのかと私は思った。
 「これ、蛇?」
 「馬鹿!」
 どすんと地団太を踏んでから父は唐紙に突進し、二本の線のあいだに不整形の斑紋をいくつも書き入れて戻ってきた。
 「分かったか」
 「やっぱり、蛇」
 「このう!」
 ふたたびどっぷりと筆に墨を含ませ、次には蛇の胴体から上向きに、何本も何本も、たがいに絡み合ったような脚を書き入れ始めた。こうなるとただの蛇ではなくなる。ふと思い当たることがあった。夕方、独りで寒中水泳をしているときに、父は「ダムの主」を見たにちがいない。今生、第一等の思いを子どもたちに残そうとしているのに違いない。
 「ダムの主が上向きになって泳いでいるとこ」
 「なんだあ!」
 父はしげしげと私を見据え
 「気が狂ったか」
 こう言った。つづいて猛烈ないきおいで濃淡を入れにかかった。墨を薄くするときには、筆を口の中に突っ込んだ。鼻や頬までが黒くなって、ますます形相ものすごくなりはしたが、水を取りに台所へ走らされる手間から逃れられるから、私にとってはありがたいやり方ではある。
 ちまちまと針のようなものを何本も跳ね上げる段取りになったところで、ようやく合点がいった。父はさきほどから、ふとぶとしく横に張り出している一本の松の枝を描こうとしていたのであった。
 「なんだ」
 「なんだとはなんだ! そのへらず口、叩き切ってくれるぞ」
 筆を正眼にかまえて迫ってきた。
 「診察室へいって、アカチンを持って来い!」
 口の中も外も真っ黒になったのを中和するためにマーキュロクロムをなめてみせるつもりかなと思って急いで用をたしてやると、私がささげている薬瓶の広口にやにわに筆の先を突っ込むという挙にでて、意表をついた。こんなものを傷口に塗られた人はいったいどうなるのだろう。あやうんでいると、父はわりあい細心に、ところどころに淡い朱色をおびた点を置いた。これは松葉の新芽の色合いを映しているわけである。
 全体のできあがりは案外と結構なものに思われた。おおきく張り出している枝の一本は、構図には入れていない古木の幹の猛々しさを良く暗示していた。私をダシに使い、逆上して一息に書き上げたからだろうと思われる。
 父は絵が好きだった。入谷仁兵衛を名乗った代々が伝えてきた刀剣を、母が懸命にいさめるのも聞かず、婿の分際で片端から絵と変えてしまった。長男が出征するときには、最後から二番目に残った、刀身ばかりがひどく長いけれども全くなまくらなのを軍刀に仕立てて持たしてやったのだそうである。「軍刀なんてものは、なまじ切れないほうがいい」とやや意味のはっきりしないことを言ったという。
 
 次の日登校すると、父の寒中水泳のありさまを知らない生徒は一人としていないようだった。その人物を「気が違っている」と決め付けたのが当人の息子であるという巡り合わせが、面白さを何倍にもしてしまっていた。
 放課後、野球の練習に顔をだすと、仲間の一人が私を見るなり、まず鼻の下で指をもたつかせて髭が生えていることを示し、両手でぎこちなく水を掻くような仕草をし、股をひろげてグラウンドをよろぼってみせた。ガマが溺れるような格好で泳ぎ、ゴリラのように歩くのが私の父だというわけである。ひやかし笑いはいつまでたっても止まらない。ぷいと後ろをむいて、私はそのまま家に帰ってきてしまった。次の日も次の日も同じだった。私がおそらく異様に恥かしがるので、何人かはますます調子に乗ってきた。次の日も、その次の日も・・・。あまりにしつこいのがたまらず、かつて分身のようだった子犬と無理に別れさせられたときに学んだ手を使うことを決心した。こちらの方から先に、野球と野球クラブから遠ざかることをして、いくらかでも気持ちにゆとりを保ちたいというわけだった。

 調子に乗ったのは野球クラブの連中だけではない。ダムの独り寒中水泳に味をしめた父は、幾日か後の真夜中、こんどは木曾川の本流を徒渉してみせた。洋服の背に急流をはらんで、あっちによろけ、こっちに流され
 「鞭声粛々、夜河を渡るう!」
 いい気なものだったが、手口が見えてしまっているので、もうどうということはない。私でさえ、あまり驚きも感心もしなかった。
 普段はなにも口をださないでいる母が、川を夜に渡渉するという夫の行状をひどく気にしているのが分かった。母はいくらかためらったのち、次のような話をしてくれた。
 ・・・娘だったころ、おばあさんから聞いたことのひとつ。三代前の入谷仁兵衛は、悟助と呼ばれていた男を使っていた。わけあって越後上杉藩を脱藩した身ということは知れていたが、本名は仁兵衛にもあかされていなかった。静かな働き者で、二十年ちかくも入谷の家を盛り立てたという。髪がなかば白くなりかけたころ、悟助はいきなり山村代官家の者二人を切り、もどるとそのまま蔵の横の石段をつたって裏の河原に抜け、何も言わずに腹を十字にさばいて果てた。山村代官家は尾張徳川の臣であるから、取調べは厳しかった。けれどもどうしたことか私闘としてひそかに処理され、入谷仁兵衛にはとがめがなかった。・・・
 「その悟助の怨霊が取り付いとるといけんなあ」
 母は言い、気がかりそうな笑顔をつくって続けた。
 「父さんには内緒だよ。そんなことを聞いたら、きっと切腹の真似をやりだすからね」
 身体ばかりはおおきいけれど、子どものようにあやうげなところがある夫の扱い方をやはり心得ており、寺の和尚さんにたのんで、悟助のために御経をあげてもらった。お寺には私も付いていった。お堂に風の吹き抜ける寒い夕方のことだった。長い正座のあと悟助の墓標へまわるときは、ちぎれるかとおもわれるほどに両足がしびれて痛んだ。

 私は父の四十八歳のときの子であるから、父が独りで冬のダムを泳ぎ、夜の木曾川を徒渉したのは六十二歳のことであったわけである。木曾谷の医業の草分けという役割を果たしたが、なんとなく生き急いでいるふうを、子供心にも私は感じていたように思う。そのころに、擦り切れた黒革の手帳に鉛筆でつづられたいくつかの想いが残されているが、それにも静と動とが混じりあっている。
 
  春の雨しとどに降るよえんどうもごぼうも若芽育つ宵なり
  えんどうが蔓手ほしとて細き手をわれに延ばせし夢をみたりき
  患家にて茶飲み話にえんどうの出来栄えほこる老医なりけり
  渓谷を出でてひろけき伊豆の海に詩想をうたう君うらやまし

 そのとおり、それから三年後の六十五歳で父は脳卒中で倒れた。いま私は父が頓挫した歳を超えて日々を過ごしている。理屈からいえば、母の血で薄められて私は「四分の一魚人」であるわけだが、そのような迫力はとてもない。歳をふる毎に、父のありようがキラキラして思い出されるようになっている。いまどき野球というものを良く知らないというのは「濡れ落ち葉」にもなりきれずにいるのだろうか。それはそれなりに不器用な「化石」としてこの世に在りつづけている。

ロウボウ

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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