馬に噛まれて・・・川また川を渡る

 私は、馬に二度噛まれ、一度振り落とされ、一度蹴り上げられたことがある。
 一歳半ころ、ネエヤに背負われて街道に出ると、ちょうど一頭の運送馬が大きな荷車につながれたまま飼葉を食べていた。「ほら、おうまちゃんよう」とネエヤが背中をねじると、カボチャのような私の頭が運送馬のほうに振りだされた。馬は機嫌が悪かったらしい。前歯が私の額の真ん中に当てられ、四角く皮膚がめくれてずいぶん血が出たそうだ。これはいくらなんでも憶えていない。
 八歳のとき、仲間と木曽馬の馬市に遊びに行って、度胸試しのつもりをやった。仮の囲いと囲いのあいだを駆け抜けるのである。馬たちが両方からずらりと首をだして、丸太をカヌーのようにくりぬいた桶からボクリボクリと飼葉を食んでいた。    何回かは無事だったが、五回目だったかに途中で頭に衝撃を受け、はじき返されるように後ろに倒れた。一歳のときとまったく同じところ、つまり額の真ん中に歯の形をした傷が残った。残りの二回。振り落とされたのと、蹴り上げられたことについては、ちょっといきさつが混んでいる。

 日本が戦争に負けたのは、私が小学校にあがる前の年の夏の日だった。二週間ばかりたったある宵のこと
「ほーい!」
 往来から間の抜けた声がかかった。私が立って窓を開けると、われらが帝国陸軍大尉殿がゆったりと馬上にくつろいでいるではないか。大尉殿は軍服を着て長靴を光らせていたばかりか、腰には長大な軍刀も吊っていたと憶えている。
「や、いま還った」
 さながら凱旋の風情である。日本が戦に負けたというのは本当か知らん、と疑われたほどだった。長兄は軍医として出征し、一時は南方に送られたものの、戦局がぎりぎりに容易ならなくなってきたころ、本土決戦のために軍を再編成するということで内地に呼び戻され、米潜水艦の網の目を奇跡のようにくぐり抜けることができて、からくも命を全うした。
 兄は馬上にいる。すらりと脚の長い馬を、私はそのとき初めて見た。私の頭など、胴の下にも触れずに向こう側へ抜けられただろう。顔の造作は身体に比べてほっそりと小さめで、眉間から鼻先まで真っ白い縞が一筋に通り、全体は明るい栗毛だった。そのまま、兄は町の端から端まで軽く駈けて見せた。走る姿の美しさは、なんといっても馬が一等である。たてがみが柔らかく波打ち、胸の前と腰の筋肉がしなやかに伸縮して、そして蹄が軽快でいて迫力のある三拍子を打つ。町の人々が集まりはじめたからもっと続けるかと思っていると、兄はふいに駈足をやめ、片手で首を叩きながら言った。
「疲れきってる。俺がここで鞍から降りたら、倒れちまうかもしれん」
 兄はどういうことか、除隊にさいして手当金の代わりに馬を一頭もらい、それに乗って中仙道を家路に向い、塩尻からは北から木曽路に入ろうとしたのだそうだ。家まで残すところ三十数キロ。塩尻というところで馬がよろめいた。
 木陰に引き入れて休ませていると、一人の農家の娘さんが通りかかり、竹籠のなかから幾房かの早生のブドウを取って差し出してくれた。馬にである。
 すると馬は魔法にかかったように元気づき、また首を上げて進めるようになったという。騎士ランスロットと妖精といった話である。それから数年のちに、同じ木曾谷の馬籠出身の島崎藤村の詩を私は習った。「・・・真白き清き手を伸べて・・・」のところで、必ず乙女と馬と長兄のことが頭に浮かんできたものである。

「兄ちゃん、すごいね。名前は?」
「カツレンという」
 多分、「勝連号」と書いたのだろう。
「木曽馬とはだいぶ違うね」
「カツレンはサラブレッドだ。人を乗せる。木曽馬は荷を運ぶ」
「これ、家で飼うの?」
「おう」
「ふーん」
 そのとき、私は大喜びだった。
 食糧難のおりから乳を補給しようと、父はすでに私たち兄弟にヤギを飼わせていた。それに長兄の言うところのサラブレッドが加わった。「年齢に応じて、子どもにはそれなりの作業を分担させる」というのが父の考え方であったし、「堆肥を得て農作物の出来高を増やす」という目的にもかなっていた。それで小学校に入るか入らないかの子どもが、それなりの小さな籠を背にして、兄たちのあとを小走りで付いて歩くというはめになった。
 「馬ほど食う」という言葉があるが、あれは本当のことで、やはり誰か、私たちのように身体を通して実感した人がそのままに表現したものだろうと思う。草を刈ってきても背負ってきても、片端からばりばりと処分してしまう。私が汗びっしょりになって運んできた量などは、このサラブレッドにとっては煎餅一枚にも相当しないようだった。けっこう選り好んで食べ、粗雑な糞にして出してしまうようである。
 馬を一頭飼うのと同じ量の草で、牛なら一頭半ぐらい、ヤギなら優に十頭も飼えるかもしれない。牛やヤギの小屋をのぞいて見ればすぐに気付くことだが、彼らはいつも上下の顎をゆっくりと擦り合わせている。あれを反芻というのだそうで、いちど胃の中に入れて充分ふやかした草をもういっぺん口に戻し、臼のような形をした奥歯で実に丁寧に噛みなおしてくれる。当然、糞が違ってくる。馬糞は草の繊維がそのままの形で残っているように見えるところがあり、ぱさぱさしている。一方、ヤギは黒豆のようなものをころころと落とすが、一つ一つが輝くばかりに良くこなれていて、糸を通せば首飾りの代わりに掛けてもおかしくないほどに見事な代物である。牛の糞も、形こそつぶれた大福餅のようであるが、粘りのあるきめの細かい黒褐色をしている。このように食べてくれてこそ、緑色の草から奇跡のように、白くておいしい乳が豊かにとれるというものである。馬が、あのマージャンの牌のような前歯で掻きこんでも、せいぜい子馬の一頭も養えるほどの乳を出すことができれば上々とすべきだろう。

 私はこの美しい馬に乗ってみたいとは思って、ながいあいだ待ち焦がれていた。とうとう機会が巡ってきた。「鍛冶屋にいって、蹄鉄を打ちかえてもらってこい」と次兄から命じられたのである。
 抱き上げられて、私は馬上の人となった。いくら鐙を短くつめても脚が届こうはずはなく、まるで象か鯨のそれのように広大に思える背の上で、カンカンに張った鞍皮の上にかろうじてとどまって、まことに不安定なのは仕方がない。けれど、にわかに視界は広く、この高さは爽快であった。手綱をたよりにゆらりゆらりとまいると、なんともいえず豊かな気分になれる。
 相手はそうは思ってなかった。小学校二年生ほどの洟垂れ小僧に御されるのは不満らしく、勝手に道端の草を食み、ついでに片目でこちらを窺い、こころなしか頬を歪めたようであった。ひょいと一跳ね、いきなり尻を浮かせたからたまらない。私は鞍を飛び出し、カツレン号の首の上をなぞるように転がって道の高さに戻ってしまった。天と地とがめまぐるしく入れ替わったので、痛いというよりも呆然としている私の顔に、カツレンは汗まじりの荒い鼻息さえ吹きかけてきた。・・・
 馬に蹴られたことがあるというのも、その日のことだった。夜、なかなおりをしようとして馬小屋に入り、首を叩いてやろうとしたら左の後ろ脚が前を払いのけるように伸ばされてきて、私の背中に当たった。馬の蹴りは後方に向かうばかりではないのである。深刻な当たりではなかったが、五、六日、息をするたびに痛みを感じた。
 思ってみれば、落馬をのぞいてはどの場合も、相手は食事中であった。こうしたときは餌を盗られまいとして気を張っているから、ふいに近づくというようなことは、利口な人はまずやらないことなのだそうである。

 妻にしか話したことがなかった。そもそも間の抜けた話ばかりである。けれど、髭を剃るごとに額の傷はいやでも目に入る。毎朝のように、それも長いあいだ、馬から受けた借りはいつかはきちんと清算しなければ収まらないところがある、と感じ続けてはいたものだろう。
 ある初夏の日、上司とやりあったまま昼食にとびだした帰り道、ビルの底から青い空のカケラを見上げた瞬間、「乗馬」という言葉がひらめいた。そのまま休暇願いを書きなぐり、調べ、行動した。日が傾きはじめるころ、奥多摩の一本の深い澤にかかった吊り橋の向こう側、自動車が入れないところにある小さな馬場にたどり着いた。そこに思いもかけず、テンポのゆっくりした世界を発見することになった。
 世を避けた法律家とおもわれる先生に乗馬を習いはじめ、はじめに言われたとおり、十鞍ほどで独りで乗れるようになり、並足、速足、軽速足、駈足、障害飛越というふうにだんだん上達した。ヘルメット、長靴、拍車、はみ、手綱、むながい、腹帯、鐙、鞭、そして鞍などを、ネズミが引いてくるように揃えた。

 初冬の晴れた午後のことである。柵に沿って、可能なだけ速さを絞った駈足の練習をしていると、馬場の一方に迫っている雑木林の中から、かなりの大きさの枝がふわりという感じで横滑りに落ちかかってきた。山の持ち主が枝下ろしの作業をしていたのである。枯れ残った葉が多量に付いていることから、それがブナの木であることは直ぐに知られた。
 こんなことに、馬というものは度をはずして驚くことがある。いきなり爆発した。立ち上がり、横に跳ね、逆立ちをし、空中で身をよじった。 それよりわずか前に馬をいったん止め、腹帯の尾錠を一穴ずつ締め上げていたのが幸いした。中古の腹帯そのものも、妻の夜なべ仕事で丹念に縫いなおしてもらってあったのが幸いした。顎紐が外れてヘルメットが吹き飛んだが、ついに私は落馬しなかった。時間はかかったけれど、なんとか馬の興奮を鎮めることができた。
 いつの間にか近くにまで来ていた先生が、砂地に転がっているヘルメットに手を伸ばしながら、「ちょっと馬場の外へ出てきましょう」と普通の調子で言った。
 自分の馬を引き出してすばやく鞍を載せ、軽い駈足で円を描きながら帯の張り具合を調節しつつ、先生は必要最小限の注意を与えようとしていた。まだ荒い息の通っている馬の首を平手で叩いてやりながら、私は自分の左脚のようすをいぶかしんだ。どこに当てた憶えもないのに足首と膝が鈍いようで、踏ん張った感じが心もとない。なんどか腰を浮かしたり沈めたりしてみたが、左側の脚に力が入りにくかった。鐙を吊っているベルトはしっかりしているうえ、高さにも差は見えなかった。
「外へ出ると馬はずっと勇むからね。手綱を短く持って充分ひかえる。傾斜を登るときは上体を前傾させて、後肢だけに加重がかかり過ぎないようにしてやる。下るときはその反対。ぴったり三馬身を離して私のあとを追うこと。じゃあ行きましょう」
 すこし待ってほしいと言おうとしたが、馬場の入口の間口一間半ほどの横木が引き落とされてしまった。先生の馬は場外に向かった。手綱で誘導するまでもなく、私の馬は一声いなないてから後に従った。樽のような胸がびりびり響くのを感じた瞬間、左脚の奇妙な萎えは嘘のように消え去った。
 馬場を出ると、まずカイズカイブキと栗林のトンネルだった。黒のベルベットを張ったヘルメットの庇を深く引いて顔をかばい、張り出している枝に身体をびしびしと叩かれてゆく。馬上の人というものの醍醐味であろう。紅葉のおわりの木々の枝を右に左に縫って、私たちは多摩川の支流のひとつである秋川にむかって下って行った。枝をよけながら乗り手が通り抜けてゆける空間と、その下の荒れた小道の曲がり具合はぴったりとは一致しないから、馬にしてみれば不可解な蛇行を強いられることになる。小鹿のように慎重に、浮いた石や木の根を避け、足場を探ってゆく。
 ずるりと蹄のひとつを滑らせて、鞍が深々と沈んだことが一度だけあった。そのまま、微妙なバランスを保ってこらえている。体重をわずか前に移してやると、ゆっくりと後肢が伸ばされて鞍は元の高さに戻された。駒をとめていた先生が、右手に突き出ている小枝に白っぽいものを挟みこんだ。チューインガムの一片だった。うしろを行く私の喉はからからに干上がっているだろうという気遣いであった。
 秋川の堤防に達すると、速足と軽速足とを交互にして流れを左にしながら下った。さらに足場が良くなったところで、駈足に変わった。駈足に変えるに拍車は要らなかった。じんわりと手綱をため気味にしておいて、ふとゆるめると、前肢がこれまでとは違った調子で地面を叩き、ぐいぐいと首が前にのしてゆく。馬場の柵のなかとはまるで違った手応えであったから、手綱をさらに指三本の巾ほど絞った。タ・タ・タン、タ・タ・タン。子気味よい三拍子の反動。しなやかに私の身体は上下し、腰が鞍の同じ部分をくりかえし後ろから前に滑っている。鞍の前部両脇のふくらみに軽く伝えられる両膝の抵抗がある。その刺激が巡って、馬を駆り続けることになる。声をあげたくなった。前をゆく先生が振り返って私の顔色を観察した。笑っている。私は左手だけに手綱をまとめ、右手をあげて振って見せた。
 川幅が広がっているとおもわれる所で先生は自分の駒を止め、二頭の蹄鉄の具合をざっと点検した。
「渡りましょう。気を許すとそのまま寝ちまうことがあるから注意する。手綱をさらに控えて、拍車を強めにあてがう。いいですか」
 先をゆく人馬は、おおきく身を巡らして浅瀬に乗り入れた。私も怯んではいられない。股を引き締めて続こうとすると、駒は水際で手綱に強く抵抗して首を下げ、水を嗅ぐような仕草をした。寝ようとしたのでも怖気づいたのでもなかった。川をよく見たのである。瀬を前に、ふたたび持ち上げられた瞳が余計にぬめって見えた。
 蹄鉄が石を叩く音がにわかに低くなった。ぼくんぼくんという鈍い響きが水の底から浮き上がってくる。馬の胸が流れを押し分けなければならない深みにたちまち達した。馬身は斜め上流を向き、下流にはいくつもの渦が生まれた。懸命に突き上げる四肢が前を沸き立たせ、無数の飛沫を散らした。駒の首は短く力強くふられている。長靴のくるぶしの上ほどまでが浸ることがあったが、内側まで濡れてくることはなかった。
 向こう岸に躍り上がると、私たちはふたたび秋川にそって堤防の上を走り、いちはやく群がってきた四、五匹の犬を蹴散らしながら馬の筋肉を暖めなおした。吼えまわる小さな四足のものを、馬たちはどうしたわけか少しも意に介さなかった。こんどは、ひろびろと水が均されている箇所を軽く渡り戻した。駆け上がったところに平坦な砂地が開けており、その入り口で先生は右の腕を帽子の横にかざした。停止の合図である。

 日は薄く、風は途絶えており、犬の吠え声がなくなったせいか、ひどく静かに感じられた。二頭の馬はしばらくのあいだ横に並んだまま佇んでいた。このように夕方を迎えようとしていることに私は満ち足りていた。
 先生は前方に目をやったままだった。ススキの根がほどよく砂地を固めている広がりではなく、砂地の尽きるところ、遠い丘陵、そのさらに向こうの空にあるものを見ているようだった。やがて先生の馬は、臀をおおきく揺すりながらあとずさりを始めた。
 目覚めたような一声。
「ここにいろ!」
 私をそのままに留め置いて、先生は二連の猟銃のように拍車を使った。たちまち弾丸さながらの勢いで人と馬は広場を犯しにかかった。左回りにおおきく弧を描きながら、ススキの穂をすれすれに掃いてゆく栗毛の一騎。襲歩である。
 駒を右手前、左手前に抑えながら、私は馬の襲歩するさまを眺めていた。手綱を控えに控えているものの、乗り手の気がむらむらと昂ぶってきている。私の駒もさかんにダクを踏み、音を立ててハミを噛んだ。左右に身をよじるようにして、離れてゆく仲間のあとを追いたがった。
 小指をほんの少し動かしたのが伝わってしまった。引き金を引いたようなものである。もう止められない。駒はどっと駆け出し、みるみる歩度を伸ばしていった。目の前がふくらんで胸の下に繰り込まれる。群棲したススキの株が灰色の帯になって流れる。鞍がきしむ。鐙にかかった草の穂がつぎつぎに千切れ飛んだ。そして全身にしたたかなリズムである。臍の前に両の拳を向かい合わせにして静止させ、身体を立てておくことを私はからくも忘れないでいた。
 駈足から、やがて襲歩へ! 身体の上下の動きは却って静まった。こうなると、一面に白く変わってしまった視野のなかをやみくもに突き進み、跳り超えてゆくより仕方がなくなった。長い時がたったように思われる。

 伸びた影が左うしろからおそろしい速さで近づいてくる気配がわかった。二騎はしばらくのあいださらに勢いを増し、平行して襲歩した。駒は自然に速さを競い合う。徐々に私を追い抜いた相手が、機をつかんで急な角度で斜めに割り入って来た。
 どどっと人と馬がもつれ、馬具の鉄がそこかしこで激しく鳴った。栗毛と鹿毛の肩が触れ合い、反撥し、また絡み合った。砂塵の中で駒の目が血走り、口が唾液を飛ばしている。二頭は右にゆるく円を描きつつ速度を落とし、ようやく並足になった。私が落馬しなかったのは、その日二度目の奇跡であった。
「首を折りたいか、馬鹿者!」
「馬が本気になって走り出したら、もろとも崖に向かって突っ込む覚悟が要るぞ。あんたなんかに止められるか」
 大喝された。崖と聞いて私は正気を取り戻し、前を見、なんどか目をしばたたいた。崖どころではなく、砂利を採取した穴が、すぐ近くに巨大な口を開けていた。・・・
 左脚からふたたび力が抜けているのが分かった。緊急となると、私は左側に傾いて踏ん張る癖があるらしい。わずかでも早く地面に戻りたいとする臆病のあらわれであるにちがいなかった。
外れてしまった鐙をうつむいて探し、からんからん音をたてて履きなおすのは乗り手にとってみっともないことと、そのころの私は思っていた。余裕を装って両の鐙を爪先でまさぐると、顔のほうはなんとなく仰向いた格好になった。
あたりが異様に賑やかであるのに、そのとき気が付いた。この冬、何番手になるのであろう。名前も知らないが、かなり大型の渡り鳥の渦である。蹄の音に負けないような、力強い羽音が轟きわたっていた。

電車の客はまばらで、星が揺れながら夜空にかかっているのが向かいの窓を越して眺められた。
   駒は鹿毛落葉の橋を踏み抜けり
   水鳥を沸き立たせたる一騎二騎
帰り着いて妻に見せると、くつくつ笑いだすというのが最初の反応だった。
「落葉の橋ってなあに」
「橋の上に落葉が積もってるんじゃないか」
「あ、そうか。落葉でできた橋かと思っちゃった。そんなんだったらネズミでも踏み抜けるものねえ」
 碗を持つ手元があやしくなるほどに、身をよじって面白がった。
「でも、なんか源平の時代のようじゃない。カッコいいわよ」
 その午後、夫がくぐりぬけてきた活劇のほどを知らないから仕方ないにしても、そんな態度は無礼である。けれど、私は満足していた。サラブレッドとの間のことは、このあたりでバランスが取れたと肌で感じていた。
 少量の最後の足し水がついにはコップをいっぱいにするものであるように、小さな平衡が全体におおきな影響を与えることがある。証拠がある。それからしばらくした朝、額の傷跡がそっくり無くなっているのに気が付いた。私が決心したのはそのときである。
 妻に赤ん坊を産んでもらう。私たちの赤ん坊だ。三人で馬に乗ろう。いつか場外騎乗に出て、そして川を渡ろう。

ロウボウ

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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