何年も何年も前の話です。木曾谷に残っている中学時代のの同級生のひとりが、ある秋、平らな竹かごに詰めたマツタケを送ってくれたことがあります。放射線などで処理されていないから、ことに幹の太ったところに、なかば透きとおった小さな虫が湧きはじめていました。幼い頃、蜂の子なんかを食べたことのある私から見ればなんでもないことで、ざっと洗い流し、色の変わったところをちょんちょんとくりぬいてしまえばそれで済みます。東京育ちの妻はそうはゆかず、悲鳴を上げ、両手を握りしめて胸の前でわななかせ、あ、という間に、マツタケも香りも、それを包んでいたシダの葉も、ディスポーザーのなかに投げ入れてしまいました。
お礼の遠い電話を入れましたが、後ろめたさが声に出たとみえて、すぐに見破られました。
「捨てちまったな」
「食べたさ」
「そうじゃねえだろ。奥さんが捨てちまったろ。え」
歯がゆがっている友の表情が電話の向こうに見えるようでした。ちぢれた髪が耳の周囲から白くなりはじめているはずでした。
「マツタケが気に入らんならよ。ツグミをやるわ。すぐ時期のもんだ。あれには文句いわせんに」
「密猟か」
「そうよ、カスミ網だあな」
「まずいね」
「やっぱりお前はおかしくなっとる。ツグミを食えば正気にもどるに。ま、待ってろ」
二ヶ月ばかり経ちました。真夜中を過ぎて帰ると、食卓の半分に新聞紙が敷いてあり、そのうえに縦横二十センチほどのダンボールの小包がきちんと置いてあります。コートを脱ぐ前に荷札をかえして見るなり、「やってくれたな」と思いました。
ツグミたちとの懐かしく悲しい再会
鍵の束についている小さなナイフの刃を出して荷造テープをなぞると、蓋を両側に弾くようにして中身が盛り上がってきました。一羽また一羽と取りだして並べてゆくと、ちょう五羽ずつの列が二本になりました。
腹の下に指をまわし、一羽を丁寧に取り上げてみました。小ぶりのハトほどの大きさがあります。クチバシ、頭、背中、翼、尾、これらはおおまかに言って濃い茶色です。目の上に、長い眉ともまがう白い線が一文字に引かれています。下の皮膚を出さないように指を添えながら腹を返してみます。喉元から肩にかけて、白いマフラーを粋に巻いているのにまず目が引かれます。それから下の胸には、黒い斑紋がそれぞれの個性にしたがって白い下地に打たれています。アサリ貝のうちにときに似たような神秘な模様が見られることがあります。 “悔恨の「ツグミ」” の続きを読む
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。
それから何年も何年も経てこの春の終わり、私たちボランティアのフィールドの「百草分園」とでもいうべき区画の一つに居ると、一方に続いているクヌギの林の奥から、少年のころに馴染んだことのあるキツツキのドラミングが聞こえてきました。そっと踏み込んでみると、林のほぼ真ん中にクヌギと思われる一本の巨木が枯れたままそびえていましたから、さてこそと仰いで目を凝らしてみましたが、動くものはありません。くびすを返そうとしたとき、なんと、太い幹のほとんど目の高さのあたりに、見事な「アオゲラ」が取り付いているのに気が付きました。これが互いにお近づきの挨拶といった写真です。
お立ち台の上でというような、モズの風格は写真でご覧の通りです。宮本武蔵は「枯木鳴鵙図」という、モズをモチーフにした水墨画を残していますが、これは「重要文化財」に指定されているほどの出来栄えとされています。
日光の話に戻ります。観光客が買い与える餌や残し物でうるおったためらしく、まずハトが増え、そのハトのヒナやタマゴを満足に食べることができたためもあって、やがて日光の周辺にカラスが目立って増えたのだそうです。
スズメといえば、私には強烈な思い出があります。小学校5年生の夏休みに、ようやく兄たちを通りすぎて私のところに順番が回って来ていた「講談全集・猿飛佐助」というのを読んでいると、屋根に並んではしゃいでいるスズメの一団がいつになく気に障りました。読めない字が多くてイライラしていたのでしょう。
茶色のチョッキをカメラのファインダーに入れるたびに、幼かったころの木曾谷の夏祭りを思い出します。先の大戦後も数年間、「木曽馬」の馬市はサーカスの小屋が立つほどににぎわったのですが、農耕機械などの発達とともに馬市は次第に先細りとなって、ついに消滅してしまいました。おとなしくて働き者だった木曽馬は必要でなくなったのです。それから谷は過疎化に向かうのですが、女神さまを祭ってある「水無神社」の祭りだけは輝きを失わないように、谷の人々は踏ん張り続けました。

