小林一茶 光と影


思い出の学芸会

 〽信州信濃の雪解けてぇ…

 或る春の日曜日。目を覚ますと、妻が朝食の支度をしながら鼻歌を歌っているらしいのです。珍しいことでした。
 私は信州は木曽谷の生まれ、つまり木曽の山猿。一方、妻の故郷は伊豆。
 その妻が「シンシュウシナノ」とはどういうこと?・・・パジャマのままで台所に行って訊ねてみました。
「信州信濃がどうしたって?」
「あれ、聞こえてたんだぁ」
 妻ははにかみました。
小学校2年生の終わりの学芸会で「一茶と子供」という出し物があり、その主役「一茶」を務めたことがあるということでした・・・

 こんなふうに書き始めると、なんだか新婚間もない夫婦のほほえましくも平和な朝のひとときといった風に感じられるかも知れませんが、どっこい、私たちは共に80歳を超えている古手も古手の夫婦。
けれど、〽信州信濃の雪解けてぇ…という歌のことは本当です。

一茶と子供

 私は妻が口ずさんでいた「一茶と子供」という童謡の歌詞を知ろうとしました。ネットが張り巡らされている現在、このようなことはイチコロのはずです。
 ところが、いかにも古びたSP盤レコードの写真は見付かったのですが、肝心の歌詞が出てきません。
 御覧のように、盤の中央に貼られてたラベルに「一茶と子供」とあり、作詞:加藤省吾、作曲:八州秀章、歌:伊藤久雄と川田孝子が掛け合いで歌っているものと知れるものの、昭和26年(1951)にコロムビアレコードから出された盤は、今やレア物になっているということでした。


 書き出された形の歌詞にはお目に掛れなかったものの、幸い、レコードに入っている音声を直接に聞くことが出来ました。歌い手の声は相当にくすんでしまっていますが、一茶を演じている伊藤久雄は流石にどっしりとして渋く、村の女童を歌っている川田孝子は愛らしく、何度も聞き返すことで、まずまず歌詞を聞き取ることが可能でした。最後に数節を加えているコロンビアゆりかご会によるコーラス部分だけに、わずかに、これでいいのかなぁというような個所があるだけです。

      一茶と子供

     (村の女童)
   〽信州信濃の雪解けて お山はとろり春霞
    桜花咲く日暮れどき とぼとぼひとりお爺さん
    もしもし どちらに行きまする
     (一茶)
    はいはい わしかな わしならのう 
    旅から旅の歌詠みじゃ 祭りばやしのあの村へ 
    これから ぶらり行ことてのう
    (女童)
    いえいえ 怖いで止めなされ

    (一茶)
    さてさて怖いということを 少しもわしは知らなんだ
    なんとキツネが出なさると なるほど それは ぜひ見たい
    (女童)
    そしたら お話きかせてね
    (コーラス)
    信州信濃は夕暮れて 一茶のおじさん何処へ行く
    おぼろおぼろな春の夜や もみじ色なす秋の夜に
    詠んでは伝える歌の数

 これを書き写しながら自然に浮かんでいたのは、一茶の代表作とも言えそうな

    雪とけて村いっぱいの子供かな

という長閑な春の楽しさ一杯の句でした。

 一茶と言えば、大正から昭和にかけての国定教科書に

    雀の子そこのけそこのけお馬が通る
    やれ打つな蠅が手をすり足をする
    やせ蛙負けるな一茶これにあり

 という3句が長年にわたって取り上げられたことから、日本中の人々の子供時代から親しまれるものとなりました。松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ三大俳人と位置付けされながら、前の二人とは全く違って、土と生活の匂いを無造作げに読んだ人だというわけです。その通りです。とりわけ小さい者への思い入れを独特なユーモアを道連れのようにした作風であり、それでいて、不思議な孤独感を漂わせている作品が少なくありません。

    是がまあついの栖か雪五尺
    目出度さも中ぐらいなりおらが春
    我ときて遊べや親の無い雀

 私の育った木曽谷は長野県のうちでも南にあり、島崎藤村が「木曽路は全て山の中である」と書いているように、山が迫った暗っぽい風土と言わざるを得ないのですが、一茶の故郷である北信に位置する上水内郡信濃町は、妙高高原、黒姫山高原、斑尾高原といった広がりに取り囲まれるようにしてあり、今でこそ、名だたる豪雪地帯ということを逆手にとって、それぞれの高原には雪質を誇るスキー場が開設されていてウインタースポーツのメッカになっています。
 あたりのもう一つの看板と言っても良いような野尻湖も、標高650mにありながら深さたっぷりに水をたたえているために水温の変動が少なく、冬季にも諏訪湖のように氷結することがないために、四季を通してヨットやカヌーが楽しめます。湖畔には大正時代から外国人宣教師によって開かれた落ち着いた別荘が集まっているスポットも点在します。
 つまりこのあたりは、今でこそ開発され尽くした魅力あるリゾートですが、一茶が各地を流転した末に故郷に帰ったころ、つまり江戸時代の末期には
     是がまあついの栖か雪五尺
とするほどに、冬場は雪ただ雪の重い景色であったに違いありません。ユーモラスなうちにも孤独感が漂うのは、こうした風土の作用によるもの・・・。

そんな簡単なことではありません。 

小林一茶

  実際の一茶の生涯は苦難の連続でした。
中農の長男として生まれたものの、3歳の時に実母を亡くし、迎えられた継母      と折り合いが悪く、15歳で江戸へ奉公に出される。
     椋鳥と人に呼ばるる寒さかな
 当時の江戸では、北国から流入してくる下層の働き手たちを椋鳥と呼んで蔑んで いた。
故郷の遺産相続がこじれて13年間も争う。
     故郷は蠅まで人を刺しにけり
     故郷やよるもさわるも茨(ばら)の花
     心からしなのの雪に降られけり
 農作業を第一とする土着の人々の共感と同情は継母と異母弟(実際によく働いて田畑を大きく広げていた)の方に寄せられがちで、相続争いは「真面目な百姓がむしり取られる」とすら評判されたよう。そんな空気の中で一茶は苦しみながらもあくまで執着する。

 ようやく争いは決着し、故郷に生活の基盤を得て52歳で28歳の妻をめとる。若い妻は農作業に精を出し、義母にも尽くし、近所との付き合いも円滑で、ようやく一家して落ち着いた日々を送れるようになったかに見えた。こうした余裕が、一茶の天分を開花させることとなり、蓄積されていた不信感や孤独感をカエル、スズメ、虫、子供などという小さく弱いものに投影あるいは同一化して、分かり易く、親しみ易い「一茶調」となって溢れ出させることになる。

     やれ打つな蠅が手をすり足をする
     雪とけて村いっぱいの子供かな
     折々に腰たたきつつ摘む茶かな
     木曽山へ流れ込みけり天の川
     美しや障子の穴の天の川  
     名月を取ってくれろと泣く子かな
     大根引き大根で道を教えけり
     ほろほろとむかご落ちけり秋の雨
     ざぶりざぶりざぶり雨降る枯野かな
     うまそうな雪がふはりふはりかな    
     わが菊は形(なり)にもふりにもかまはずに

ところが大きな不幸が雪崩のように襲い掛かる。
     千太郎(長男):生後28日で死亡
     さと(長女) :1歳で窒息死
     石太郎(次男):生後数か月で死亡
     金三郎(三男):生後まもなく死亡
     きく(妻)  :相次ぐ出産のためもあって衰弱。37歳で死亡
 一茶自身も58歳で軽い脳卒中を経ており、若い妻を失った時はすでに62歳であった。
 
     露の世は露の世ながらさりながら
     陽炎や目につきまとふわらい顔
     もともとの一人前ぞ雑煮膳

 子供を救えなかった無力と孤独に打ちのめされ、世の無常を呪うかのようであるが、一茶の凄さはそれからの最晩年にありそう。
 これほどの悲劇に見舞われながらも、なお自分の子孫を残すことに執着し、妻きくの死後、2度の再婚(1人は直ぐに離婚)を試みる。
 代々が浄土真宗の熱心な信徒であったせいもあってか、執着や我欲の強い泥まみれの自分を肯定し、生と性に縋り付く。親鸞の有名な悪人正機説「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」に通ずるところを思わせる。

     ともかくもあなた任せの年の暮れ

 阿弥陀のことを「あなた」と言っており、他力本願や仏を語るにユーモアをもってするというまでに昇華している。
  
64歳時、追い打ちを掛けるように柏原村の8割がたを焼き尽くした大火が発生。
家はほぼ全焼。家財、蔵書、原稿の多くを失ってしまい、からくも焼け残った土蔵で暮らさなければならなくなる。やがて二度目の脳卒中に見舞われて身体にさらに不自由を生じるが、なお気力に衰えるところは無く、10年間以上を書き続けてきた俳文「おらが春」を完成させた時に急死。65歳。

火災に焼け出された後の最晩年の作でもユーモアへの昇華を失っていない。

     やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ(騒ぐ)
     盥から盥にうつるちんぷんかん
 
 一茶が息を引き取った時、なんと、再再婚の妻の腹には9か月になる子どもが宿っていた。一茶の死後に生まれた女の子はすくすくと成長して小林家を存続させることになる。一茶の執念はかなえられることとなった。

初婚の妻・菊のこと

 一茶は多くの天才にしばしば見られるように、沢山の癖や欠点を併せ持った人でした。けれど後の世の人々は、その作品から醸し出されるユーモアと独特な哀愁を高く評価するという優しさで接しています。この稿の冒頭の「一茶と子供」に見るように、一茶はとぼけた味のある「旅の歌詠みお爺さん」として描かれるのが定番です・・・優れた作品は一人歩きするものでしょうから、それで良いのだろうと私も思います。
 ただ、一茶の初婚の妻である菊(きく)のことが脳裏を離れません。本来のかいがいしい農家の働き手が、10年も満たないうちに4回も懐妊して4人を出産し、そのことごとくを早期に失い、自身もおそらく衰弱のために若くして命を終わっています。
 思うに、こうした不幸が無ければ一茶の大成はあり得なかったわけで、菊の短い生涯は、北信濃の俳諧の師匠であった夫を日本を代表する俳人に押し上げるためにあったのだと言えそうです。菊は満足しているでしょうか。悔やんでいるでしょうか。

〔日本医史学会というものがあり、それらの研究者の見解には、菊とその子供たちの短命は一義的に一茶が責任を負うべき(梅毒を感染させた)とするものがあり、それは一茶が残している克明な手記などから強く推測できるとしています〕

 

 

 

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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