戻ってきた失せ物 Ⅴ きわめつけ

朝まだきの多摩川で

 10月初旬の日の出は5時40分前後である。
 その日も、私は朝まだきに家を出て5時少し前には多摩川中流の右岸に立っていた。頭の上には星々が見え、とりわけ「明けの明星」がまたたいており、それらを望遠レンズのターゲットに捉える練習をすることができた。時にはシャッターボタンを押したが、かすかな光を写真にするのに必要な2秒間ほども手持ちの望遠レンズを固定しておけるはずはなく、星はどれも無惨に流れて映った。けれど画像モニターの上では、青い星、赤い星の色合いはむしろ強調されていて、違いを楽しむことができた。
 そうこうしていて東天を振り返ると、少しの間におどろくほどに輝きを増しており、あたりは白んで数匹のコウモリが乱舞をやめようとしている。サギとカワウが下流から上流に移動を始めるのは、5時20分ほどからである。 “戻ってきた失せ物 Ⅴ きわめつけ” の続きを読む

ダイアナ神とドブネズミと私

 兄の1人がち中耳炎をこじらせてしまって、難聴を残してしまった。大戦前のことである。不憫であるとして、父が空気銃を買ってやった。
根元に狩りの女神「ダイアナ」の刻印が打たれていて、その中で、ダイアナは右腕で銃を高々と掲げ、左腕をおろして弓と矢を投げ捨てていた。乱暴な女神なのだろうか。
“ダイアナ神とドブネズミと私” の続きを読む

フラップ・ダック鎮魂

 〇〇〇社製、腕時計、100メーター・ウオーターレジスト、クオーツ、Y101・6040型、ナンバー345443号。
 求めたのは四十数年前である。〇〇〇社というのも、クオーツというのも、当時は耳新しいものだった。
 社名〇〇〇は「白」を意味し、クオーツというのは純粋な石英の結晶体、つまり「水晶」のことであるぐらいは分かった。さらに説明を聞いてみると、発振させると大変に安定した振動が得られるという水晶の特性を応用したものだという。白、水晶、発振、などという語は互いに相乗しあって、「正確」という響きを強める効果を私に及ぼしたものだろう。 “フラップ・ダック鎮魂” の続きを読む

 選り抜きのカシの厚板で作られた、大きな樽がありました。人の胸の高さほどもあり、胴の周りは二人の大人が手をつないで、ようやく届くかというほどでした。
 ブランデーで満たされて、仲間たちと何年も地下の蔵の中に並べられているうちに、木の香りがゆっくりとゆっくりと移って、ブランデーの風味はいよいよまろやかになるのです。 “樽” の続きを読む

わたる風

次郎の父は鳶職だった。おそれず、油断せず、確実で、静かだった。「トビのために生まれてきたような男だ」と仲間うちでも評判が高かった。
 東京新宿の超高層ビル、瀬戸内海の大きな渦をまたいだ吊り橋、アルプスの裏のダムのアーチ状の堤防工事などを手がけて全国を股にかけて働き、巨大なそれぞれの建造物のもっとも高いところに吹く突風を経験していた。それでいて何年ものあいだ、怪我ひとつしたことがなかった。
 三十五歳のとき、次郎が小学校に入学したのをしおに、東京の近郊に家を買った。ひとつの区切りが出来上がったと気を抜くどころか、いよいよ仕事に身を入れて精進を続けていた。が、信じられないようなことが起こったのは、その三年後のことである。 “わたる風” の続きを読む

職人

 ガラス屋に電話を入れた。おばあちゃんが、あやまって、テレビ台のガラスの片方を割ってしまったからである。
さいわい厚さのちょうど良い、いくらか大き目のガラス板を地下に入れてあった。まえに食器戸棚かなにかに使われていたものらしい。

 「日の出ガラス店ですか。そちらでガラスを切ってくれますか。テレビ台のガラスです」 “職人” の続きを読む

良太とゴンドラ

 良太のお父さんは、おおきな街の清掃課というところに勤めている。ゴミを処分するセンターの工場がうまく運転されるように、手入れをしたり直したりする仕事をしているのだそうだ。
 毎日、スチームで沸かした風呂に入ってから、背広に着替えて帰ってくる。けれど、身体に浸み込んでいる生臭さが抜けきれていないように、良太には感じられた。ごつごつした手でビールを飲んで、ほとんど話をしない。しらけてしまう。

 中学一年生のとき、街のゴミの処理場に見学に行くことになった。
「えらいことになった」
良太は思った。仲間のうちには良太のお父さんの顔を知っているのがいる。なかでも茂夫はしつこいから、まず二週間はひやかされ続けるだろう。見学の当日、良太は列のいちばんうしろに回って、うつむきながら歩いた。

“良太とゴンドラ” の続きを読む