次のような順序で考えたいと思う。
1 土地を占有するという着想がもたらした一大転換
2 津波のような「情報のビックバン」
3 一緒に日常を体験するという命綱
4 難しく考えずにやることをやる
5 まとめ
1 土地を占有するという着想がもたらした一大転換
現生人類は15万年ほど前にあらわれた。なお長く、木の実などを採集し、動物を狩り、魚貝を集めながら小さな集団を成して移動しており、たとえば、「土地を所有する」などという概念は存在しなかった。 1万年ほど前に、ついに「植物を栽培する」ことを覚え、「家畜」ということを考え付いた。これで「村落定住」というふうに生活が一変し、どこそこに古代文明が生まれ、人類の社会は幸か不幸か、加速度的に複雑化することになる。「定住」がなされれば「土地の所有」が始まり、「分業」「役割」「交易」が始まり、「格差」が生じ、「権力」が生まれる。ために、人々はこれまでの何倍ものストレスを背負うことになった。集団の規模が民族となりさらには国家となるにつれ、義務や服従、階層、見返りとしての利得といったものの関係が錯綜し、戦争という惨禍を幾度も招き寄せるまでになってしまった。それもやがては、国家総力戦という規模になるまでに大掛かりになった。
2 津波のような「情報のビックバン」
ところが、ほんのここ数十年に至って、かつての「農耕と牧畜の発明」がもたらしたものにも匹敵するような、巨大な変化が加速して生じつつある。
「情報のビッグバン」とも言うべき情報の大氾濫がそれで、私たちの日常は日に日に目まぐるしさを増すばかり。自分の立ち位置をよほど踏み固めていないと、情報の洪水に飲み込まれてしまいそうである。しまいそうどころではない。溺れてしまっている自分に気付いて愕然とすることが再々ある。「あの山の向こうには何があるのだろう」というような、ゆったりした幼年期を持てることができなくなってしまった。
少し前までは、川の流れの脇に立って、たとえば親と子が、同じ場所の川砂をザルにすくい上げることができた。そのザルをすすぎ合えば、底には同じものが残っていたはずである。
洪水の場合はそうはゆかない。同じ場所の川砂をすくうことは極めて難しいから、いちばん底に沈殿するものが違ってしまうであろう。一方には砂金が、一方には鉛が沈殿するといった致命的な「ゆきちがい」も生じかねない。
例えば母親が、自分が得た情報からの「判断」を良しとし、子どもからの「信号」を無視して、本来、個々である発育の段階をそっちのけで、まなじり決して厳しいシツケを始めたり、離乳を強行したりしたとする。赤子のために良かれと思ってのことであったにしても、子供のためではなく、自分のための子育てとなってしまう。一方的な押し付けは虐待ともなり得る。
子どもは子どもで、首も据わらないうちからテレビの前に置かれて、たとえば「バラエティ番組」にさらされ続けたとする。タレントたちのはしゃぎぶりや反応の速さを当たり前として慣れてしまったら、自分の父と母の言動がひどくスローに映ってくるであろう。こんなことからも、親と子という最も近しい間ですら、互いの心のストライクゾーンが分からなくなり、フィーリングのズレが拡大していってしまうことにもなりかねない。
3 一緒に日常を体験しあうという命綱
今、このように張り巡らされたシステムに囲まれてしまっては、親も子も洪水を避ける場を見付けることはできないであろう。洪水は困るが、水は必要なのである。何が大切で、何がそうではないものか。情報との付き合い方を学び合い、鍛え合って備えを丈夫にするより仕方はない。
できるだけ一緒に日常を体験し合う時間を持てることで、成功と達成の歓び、称え合い、失敗の口惜しさと反省、次からの対応の工夫などを、絶えずキャッチボールで交換している必要がある。
一つ屋根の下で支え合ってこその生活、みんなが幸不幸にコミットしているという実感、依存と応分の責任の分担。「心のキャッチボール」から発展した「パス廻し」ができるような家庭の環境が、つまり「安全基地」となる。
勉強や塾通いだけに気を取られていると、奇妙なことになり得る。子供を学校や塾まかせにするというのは一種の情報負けの結果であり、不安をまぎらわせるために責任を先送りしているといった部分もあるであろう。
4 むずかしく考えずにやることをやる
ある母親が筆者に、「息子をどう扱ったらいいか分かりません」と訴えた。小学6年生になる男の子がゲームをやりながらテレビを付けっぱなしにしているのが常であるので、「どちらかを消しなさい」と何度も注意するのだが、「おれはゲームをしながらテレビを見てるんだ」と頑と言い張ってゆうことを聞かないのだという。父親は子育てを母親まかせにしている。
この男の子への対応は次のようであろう。まず親が腹をくくる。父親から簡潔に、悪い習慣は即刻止めるように言い渡してもらう。息子がそのとおりにしたら、褒める。止めなかったら、無言でテレビの電源ソケットを引き抜く。取っ組み合いになったら、夫婦タッグして、全力で受けて立つ。気迫で絶対に勝つ。
家庭にこそルールの根っ子というものがあることを教える。男の子自身もおそらく、そのようにしてくれることを望んでいる。難しく考えることではないと思う。
もう1例。やはり同年配の母親が悩んでいた。中学1年生になる息子にスマートフォンを買ってやったら、翌月から4万円を超える課金が請求されるようになったのでたしなめると、「幾らだろうと、そんなのおれに関係ねえよ!」といらだつのだという。訊ねてみると、前の例と似たような家庭環境にあり、例えばスーパーなどへ連れ立って行って、上手な家計のやり繰りを一緒に体験して考えるというようなことをほとんどしてこなかった。つまり、一つ屋根の下に居ながら、子どもは一家の生活に、飢えや雨を防ぐというような基本のところからコミットしていないのである。このような子どもが、やがて親の介護をしてくれるように成人するであろうか。
5 まとめ
最近の新聞記事によると、ちかごろは0歳児の20%が「ほぼ毎日スマートホン」を見ており、4年前の6倍に増えているという。「親の外出先での待ち時間」「子どもが騒ぐとき」「自動車、電車などの移動時」に多いという。0歳児の赤子が、何をどのように取り入れているのであろう・・・。何年か後に、思いがけない親や実生活とのずれとなって現れないことを祈るばかりである。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。