1 「騎馬戦型社会」から「肩車型社会」への移行
2 「孤独死」と「一人死」と
3 常態への軟着陸
自分たちの山と土と海。これらとまともに付き合うことを、次第に私たちはないがしろにしてきた。
「百坪(330m2)の畑があればヒトは飢え死にしない」と、私たちの祖先はいみじくも言い切っている。そのへその緒を切るようにしてふわついていると、必ず不安がはびこって来る。それは次のように極端な課題になって私たちを追い詰めてきている。
1 「騎馬戦型社会」から「肩車型社会」への移行
少子高齢化の勢いはすさまじい。昭和40年(1965)には10.8人の現役世代が1人の高齢者を支えている「神輿型社会」であった。平成27年(2015)には2.3人の現役世代が1人の高齢者を支える「騎馬戦型社会」になった。これが2065年ともなると、1.3人で1人を支えなければならない「肩車型社会」に移行すると予想されている。
現役の1人が、自分を含めて2人の生存に必要なものを産み出さなければならないことになるが、そのとき、現役の自分は肩の上の人を「介護する」ための第三次産業に関連しなければならない率が非常に高くなっているはずである。すると、誰が第一次・二次の製造を担うのであろう。これらの事情を案配して、そろって飢え死にしないために、新しい平衡と循環のありようを、たった今からまさぐり始める必要があることは自明である。
2 「孤独死」と「一人死」と
主に中山間部にある小規模な集落が高齢化し、労働や生活の維持管理能力を失いつつあることで、共同体としての機能が限界に達している状態の集落を「限界集落」と呼ぶことがある。平成22年(2010)の調査によると全国に10091集落とされた。調査のたびに増えており、65歳以上の高齢者だけで構成されているものも575集落に及ぶ。
そうした流れに沿うように、「孤独死」という言葉をよく聞くようになった。大都市における孤独な死については、その後始末を請け負う仕事が特化してすでに存在しており、そうした仕事に就いている自らを、「カプセル考古学者」と自嘲する若い女性の話を聞いたことがある。
・・・遺体だけが運び出された直後の部屋は、厚いゴミがマット状に堆積していることが多く、下着やちり紙や排泄物が蒸れあって強烈な臭いがする。ごみを一層一層はぎ取ってゆくと個人の生活が見え始める。レトルト食品やソウザイなどが入っていた容器、コンビニやスーパーのレシート、ファストフード店のメニュウやチラシなど。そして、日付にチェックやメモが残されたカレンダー。時間がだんだんとさかのぼってゆく。やがて、家族であった人たちのものと思われる写真や趣味のための小物などが現われてくる。どのような人であったかが次第に分かってくるにつれ、こちらの気持ちも揺らいでくる・・・。
一方、限界集落においても、身体機能の廃絶による「一人死」はあり得る。が、限界集落に長く携わった医療関係者などのレポートによると、そこに住む老人たちは遠出(ことに通院のための)の難儀を筆頭にして日常生活の不便を訴えるけれども、精神面では比較的良好な状態にあり、残っている人たちと助け合って土地の風習を守り、家々には仏壇や神棚があって、先祖たちとも繋がっていることが多い。なによりも、ご先祖様から受け継いだものを守るという意地があるという。
都会での孤独死も限界集落における一人死も、誰にとっても急速に身近なものになりつつある。前の稿にも記したが、男性の3人に1人は生涯を結婚せずに過ごすことになるのであるから・・・。
3 常態への軟着陸
現在の「小産高死社会」はいずれ頂点に達し、やがて「小産少死社会」となって一定の常態に落ち着くことになる。
そうしたとき、この国の社会は充分な体力を持ち得ているか、どのような価値観によりどころを見い出しているか、それらを支える社会構造はどのようなものであるべきだろうか。いまから姿勢を徐々に引き起こして、ソフトランディングできるようにしておきたい。
先進国として認められている国々においては、農林漁業にたずさわる人が人口のわずか数%にとどまるというのは、むしろ普通なことである。しかしながら、カナダ、スイス、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、ドイツ、フランス、英国、米国といった国々で、食料、木材、エネルギーなどの自給率、加えて人口構成の推移・・・といったことごとくが危機的レベルにあるという国は我が国をおいて存在しない。
それを日本がどのように克服してみせるかを、現生人類の先行きを占うように、多くの国々が注目している。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。