Z旗と私のX旗

 最近、かつてヨットに親しんだという一人の老人がエッセイに書いていた。大型台風が近づくと、自作の「Z旗」を自作のポールに掲げ、家を点検し、そこかしこを固縛して回るという。Z(後がない)にあやかって、もうひとつ踏ん張ろうというのであろう。
 あの東郷平八郎提督の檄は、いまもなお、広く人々にやる気を吹き込んでいるのだなと思った。そういえば「ふうてんの寅さん」も「・・・いつかお前も喜ぶような 偉い兄貴になりたくて 奮励努力の甲斐もなく…」と歌っている。

英語の先生

 そうしたことで、はるかに昔のことを思い出した。私が初めて「Z旗」というものの話を聞いたのは中学校3年生の時である。ある日の英語の授業で先生が、「日本海海戦」とそれより100年前になされた「トラファルガー海戦」のよく似た背景や状況をざっと聞かしてくれてから、「日本海海戦においては東郷提督が、トラファルガー海戦では英国のネルソン提督が、戦闘に突入する直前に兵員を奮い立たせるための信号を掲げた」と言って、黒板に次のような2行を並べて書いた。

 皇国ノ興廃、コノ一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ
 England expects everyone completes one’s duty.

 「努力セヨ」と「expects」の下に線を引き、「片や強い命令調、片や期待の表明。日本と英国との違いが凝縮して現れているものかも知れない」と述べたものだった。
 印象に残る授業であったので、私は先生が黒板に書いた文章をそのまま記憶して、長い間そのままだった。

東郷のZ旗は1回の揚げ降ろし ネルソンの旗旒信号は12回

 老人のエッセイがきっかけで、Z旗というのはどんなものか知りたくなった。
Z旗は国際的には「われ曳舟を必要とせり」という意味であるという。4色でデザインされている。
 1905年、東郷艦隊はこの旗に独自の意味を付けて使った。艦隊参謀があらかじめ文章を作成し、旗艦三笠にZ旗が掲揚された時に全乗組員に託された文章を知らしめよとして、各艦の通信長に通達してあったという。計画どおり、1本の旗の上げ下げが船列の順に次々にリレーされ、各艦の伝声管から文語調の命令が響き、それを聞いた兵員たちは奮い立った。

 日本海海戦より丁度100年前、英国のネルソン艦隊の旗艦ビクトリアは、戦闘突入の直前に、12回にわたって各種の旗を上下させた。それを後続艦が次々と申し送った。
 複雑に旗を上げ下げしたのはどうしてであろう。船は帆で動き、無線の無い時代だったとはいえ、東郷艦隊のように工夫すれば、1旈の旗を挙げて降ろすだけで足るはずである。
 思うに、イギリスの英雄ホレイショ・ネルソン提督は、旗旒信号を使ってものを言うのが好きだったのではあるまいか。ネルソン提督は豪胆である一方、たいそう計画的で慎重な人であったらしい。約束事や会合の場所には決まって15分前に到着して相手を待っていたというし、じっくり考えたであろういくつかの名言を残している。
 強大な敵艦隊と遭遇して急接近する中、刻々と凝縮してゆく時間を彼流のやり方で活用したように思われる。最大船速で帆走する全船のマストで、次から次へと旗がはためいては入れ替わる。「この期に、我らがネルソンは何を言うか」と乗組員たちは固唾を飲んで待つ。信号終了となったところで、どっと湧き立つ。

 ところで、図に見るように、ネルソン提督の旗旈信号は正確には次のように綴られたものであった。
 England expects that every man will do his duty.
 England expects everyone completes one’s duty.
私が中学時代に教えられたものを下の行にならべたが、二つは同じではない。これはどうしてであろう。
 私は英語に堪能ではないけれども、二つを読み比べているうちに、上段の方が柔らかく、さりげなく、しかし当然のように、期待するという気配りが働いているように思えてくる。上段はより英語(?)らしく、下段はズバリとして米語(?)らしいとするのは、粗雑な言い方であろうか。
 はるか前に逝かれた英語の先生が、中学生にも分かり易いように変えてくれたのだとしか考えられないが、それを確かめる術も今は無い。

 我らの勝利と分かったときに、ホーレイショ・ネルソンは銃弾を胸に受けて倒れる。Thank god. I have done my duty. と言って息絶えた。数刻前に自分が出した信号と、見事にをなしている。このdutyも、義務というよりも本分と訳した方が似合っているような気がする。

私のX旗

 あと少しはあるだろうと踏んでいるわけで、台風が来るからといってZ旗を掲げる気には、私はなれない。
 強い台風や地震の際には、私はX旗を掲げて自分を励まそうと思う。Y旗でも良いわけだが、なんだかスズメバチの胴体のようで落ち着かない。X旗であれば自分で作れそうでもあるという読みもある。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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