オオムラサキと木曾漆器・友

 中学二年の夏祭りの日、女神様をお迎えしようと鎮守の森への山道を登ってゆくと、同級生の須藤栄三郎君、通称ザブ君が坂を下ってくるのに出会った。
 ザブ君は「里彦」という屋号の旧い漆器製造元の息子で、絵が上手なのと、相撲がめっぽう強いということで、仲間から一目置かれていた。腰が据わっているのは、代々どっかりと坐って漆の芸にうちこんできた血筋のせいなのかどうか。色白のはにかみ屋で普段はでしゃばらなかったが、相撲を取るとなるとごうも容赦なく、したたかに相手を投げとばした。しばしば土俵際で得意技のウッチャリをかけられ、地面と顔とがまともに御対面ということになり、しばらく立ち上がれないことも私にはあった。
 ザブ君は胸の前の何かに気をとられながらゆっくりと下ってくる。声をかけると、おどろいたように顔を上げ、はずかしげに薄く笑い、親指と人差し指で摘まんでいるものの上にもう一方の手を被せて、それを私から守ろうとするような仕草をした。なにも隠すことはないだろうと腕に手をかけて覗き込んでみると、それは一匹の蝶であった。
 まず受けた印象は、蝶々というものはこんなに毛深い生き物だったかということである。ことに太めな胴回りから翅の根元のあたりにかけて、銀色の光沢をはなっている無数の毛でびっしりと覆われていた。ルビー色がかってつぶつぶした眼には、痛いとも苦しいとも表情が見えなかった。そのとき発条のように巻き込まれている口吻がするすると伸ばされ、しばらく小刻みに震えたかと思うと、再びするするとたたみこまれた。
「生きてるじゃないかよ」
「うん・・・」
 そのままでザブ君は指先に力をこめたから、胴体がつぶれる小さな音がして、口から緑色に濁った汁が溢れ出てきた。
「これ、スミナガシってやつなんだ。あんまり珍しいもんじゃないけど、捕まえるのは難しいんだよ」

スミナガシ キベリタテハ クジャクチョウ テングチョウ

 水の上に一滴の墨汁を落とすと、さっと表面に拡散して微妙に入り乱れた黒と白のだんだらを作る。その上に和紙をかぶせると、その模様をそっくり写しとることができる。この遊びを私たちは「墨流し」と言っていた。紺の光沢のある墨があり、それを点状に流すことができたなら、この蝶の羽根に似たような模様を得ることができるだろう。この瞬間まで私は、この世に蝶といえば、モンシロチョウとカラスアゲハだけしかないと思っていた。

 ザブ君の家は良い漆器を造った。重厚な家具に「知事賞」などという金色の折り紙を張られて、物産展などの中央の舞台に展示されているのを何度も見たことがある。
 漆器の製造工程は複雑だ。極上の材木をえらんで何年間も露天で乾燥させ、箸やお椀、酒器、菓子鉢、膳、盆、広蓋、重箱、文机、戸棚・・・。どんな素材よりも、木をあつかう細工がつまりはいちばん難しいと聞いている。そのうえに塗りをほどこしてゆく。白木に砥粉を塗り、何回か下塗りをし、紙やすりを掛け、物によっては渋や麻布を被せ、それに重ねてさまざまな色を乗せてゆく。
 それでただ黒いだけの塗りにも深みがあり、光の具合で金色をおびて見えたり、緑色に輝いたりする。例えば「カラスアゲハ」の後翅の緑がかった黒に、ぽってりと浮き出ている三つか四つの真紅の点。あんな模様も塗りだすことができる。下地のしかるべき所に赤い漆を盛り、その上に黒漆をかけ、乾燥してから慎重に磨きをいれてゆくと、下地に置いた赤が目玉のように浮き出てくる。
 鉄錆色をした縮緬皺のなかに打ち抜かれている、黄色の帯で縁取られた黒の蛇の目。こんな塗りは「ジャノメチョウ」の翅の裏の紋にそっくりである。
 下塗りの間に貝をちりばめ、そのうえに幾重か上塗りをしてから研きを入れると、たとえば「クジャクチョウ」や「タテハモドキ」の翅に見られるような、真珠の光沢をつらねた斑紋を得ることができる。さまざまな秘伝の技法があったらしい。いろいろの色合いの漆を塗り重ねてかなりの厚さになったものに彫刻を施し、ちょうどイタリアのカメオの細工を渋くしたような風味のものを作ることもした。

 蝶は一頭ずつ規格どおりに翅を進展され、採取した日時、場所、学名などが記入された。が、最後に標本箱に収納する段階になってザブ君の本領が生かされた。標本箱は自分のところの職人に作らせた特別なもので、箱の蓋と底の両面がともにガラス張りになっていた。その重心を二本の支柱で支えてあり、裏表、裏表と、自由に回るように工夫してあった。こうすることで蝶たちの翅の模様や光沢を、好きな側から好きな角度で透かし見ることができる。本人自身は気付いていただろうか、蝶の光沢と家業の漆器とが結びついており、ザブ君は蝶を、どちらかといえば静物として観ていた証拠だった。
 私はなんであれ、資料が集まってくるのを根気良く待ったり、それを分類したりするのは苦手である。蝶についても、この生き物が飛翔中にかもしだす雰囲気といったものを追うだけで満足してしまうことが多かった。

 「ミヤマカラスアゲハ」というのは、名前の通りカラスの濡羽色のような黒色のうちに、金緑のかがやきを含んだ翅を持つ巨大な蝶である。ある風景の中に、たった一頭のミヤマカラスアゲハが逍遥していても、あたりにはなにか謎めいた感じが漂った。森の中。淵にかかる幾筋もの流れ。濡れた岩。苔。五つ葉のアケビ。淵の奥まったところの一箇所にわらわらと群がっているミヤマカラスアゲハたち。砂の中に埋まっている彼らを陶酔させずにはおかない何物か。さかんに翅をあおりあって場所を競い合い、三度、四度と、滝壺を巡ってはまた謎の一点に戻ってくる奇妙な飛跡。木漏れ日を受けて輝く金緑色の翅。そのなかから、ぽってりとこちらを伺っている真紅の斑紋。血走った目。

 タテハチョウ科のなかに「キベリタテハ」という高山蝶がある。「黄縁タテハ」と書くのだろう。翅の基調は光沢のある黒褐色であるが、外側にゆくにつれてしだいに強く紫色をおび、いちばん外側を五ミリメートルほど、あざやかな金色の帯で縁取られている。誰しもが一見、坊さんの袈裟衣を連想するにちがいない。いつも一頭でいる。数回はばたいては、つと水平に翅を固定し、静かに斜面をなぞって滑空する。「なむあみだぶ」とはばたいて、「つー」と舞う。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。袈裟は流れながら、虫の音でさわがしい夏の高原に一筋の静けさを撒いてゆくようだった。

 おなじタテハチョウ科のなかに、「シー・タテハ」と「エル・タテハ」という種類がある。シー・タテハの翅の裏は水石に水を打ったばかりのように硬質に光る瑠璃色をしており、そこにローマ字の「C」の形をした銀色の紋章が小さく打たれている。エル・タテハのほうはより褐色がかった模様を背景に、ローマ字の「L」の紋章がやはり銀色に浮き上がっている。

L-タテハ C-タテハ

 蝶々の多くは、胴体に比べてたっぷりと大きく、いかにもあおぎ甲斐のありそうな翅を持っているものだが、シー・タテハとエル・タテハはとりわけ切り込みの鋭い、細身で小さめの翅をあつらえている。前翅と後翅をそれぞれ飛行機の主翼と尾翼になぞらえて良いように、飛行体として無駄がなく、実際、まるで戦闘機のように軽快に上昇し、子気味よく旋回し、さかしまに急降下をしてみせる。
 ひがな山道を行ったり来たりしてようやく暮れなずむころ、にわかに彼らが活気を呼んで群れ飛ぶのに出会うことがあった。横倒しになった朽木などに何頭も集まって、わっと沸き立ち、しばらく組んずほぐれつの空中戦をやってから、ふたたび一斉に翅を休めていた。そうしながらもとりわけ威勢の良いのが数頭、磁石の針が北を求めるように、私の移動する方向にくるりくるりと頭を向けて警戒している。私には聞き取ることのできない波長のファンファーレの合図で、トーナメントをやっているようにみえた。子気味のよい群舞であったが、これを見、ヒグラシの合唱を聞いたら、すぐにでも家路につかなければいけない時刻なのである。彼らのトーナメントに割って入って好い気に捕虫網を振り回していると、とっぷりと暮れた山路に独りきりで残されるはめになった。
 華やかなタテハチョウは他にもたくさんある。「ヒオドシチョウ」というのは文字どおり緋縅の鎧をまとった絢爛な若武者ぶりである。「コヒオドシ」といえば、前髪を落としたばかりのお小姓が「いざ初陣の手柄たてむ」と駆け回っている風情である。「クジャクチョウ」「ルリタテハ」「アカタテハ」「テングチョウ」などというお歴々も、まさしくその名前のとおりである。

 蝶々はひらひら舞うと言われ、蜻蛉はすいすい飛ぶと表現される。たしかに蝶の大部分は、面積の大きい翅を上下させて飛ぶので、飛翔の軌跡はアーチをいくつも連ねたような波形になる。「ヒカゲチョウ」は特にひらひらする。名前のとおり日陰を好んで、地味な褐色の翅をはたつかせながら、横よりも縦の方向に舞うことが多い。橅林の根元ちかく、二、三頭のヒカゲチョウがバーテンダーに振られるシェイカーのように、上になり下になり、互いに八の字を描きながらたわむれているのは見慣れた日陰の風景だった。
 蝶のうちにも、すいすいと飛ぶ仲間がいる。さっと目に浮かぶのは、タテハチョウ科の「オオイチモンジ」「オオミスジ」などミスジチョウ一族の姿である。一文字とか三筋とかと呼ばれるのは、茶色の前翅後翅を貫いて、それぞれ、一列、三列の白い斑紋が打ち抜かれているからである。彼らは翅を水平に保ったまま、これをぴっぴっと素早くふるわせて滑空する。アカシヤの木の枝の占める空間を輪切りにするように、なんどもなんども旋回しているのに出会うのも、山道ではありふれたことだった。
 ぶんぶんと飛ぶ蝶々もいる。セセリチョウ科に属するものたちの多くは、アブのように大きな頭と太い胴体を持っているのに、翅が小型である。とりわけ毛深い翅をせわしなく動かしていないと、空中に浮いていられない。「アオバセセリ」の飛び方を例にあげれば青緑色をした弾丸というべきで、この蝶にちょっかいをだして驚かすと、ものすごいスピードでまわりを五、六回も旋回され、こちらの目がまわってしまって立っていられなくなる。
 あるものは無理と思われるほどに大きい翅をゆっくりと動かし、あるものは小さな翅を高速で運動させ、あのように蝶たちが空中を舞うのは、ひとつの奇跡を見る思いがする。すばらしいエネルギーはどこに蓄えられているものだろう。傍目からは優雅に映るけれども、彼らは一時も休めずに花から花を泳いでエネルギーを補給していなければならないのだと思う。めまいによる失速と秒を競う必死の仕事なのだと想像することがあった。

 勇壮豪華、一頭群を抜いて他を圧しているのは、なんといっても「国蝶オオムラサキ」。あの年、七月の水無様の祭りがすぎて二週間ほどしたころ、ザブ君が私の家を訪れ
「今日な、小丸山のエノキの林でな。オオムラサキを見た。こんにでっかい!」
 と言った。こんなにでっかい、と示してくれるのを見れば、カレーライスを食べる皿ぐらいはありそうな手つきだった。「抜け駆けはいけない、二人そろって捕まえに行こう」ともちかけると、ザブ君も賛成してくれた。

オオムラサキ

 次の日、小丸山にのぼり、日照りの下でほとんど一日中、エノキの木ばかりをあおいで過ごした。あまりに明るい背景のために目が疲れ、首筋が凝り、鼻血が流れ出すしまつだったが、オオムラサキにお目にかかることはできずにおわった。次の日は雨。三日目も最初の日とおなじことの繰り返しで、ぼくらが得たのは日射病だけ。第四日目は私は農作業のためにさぼり。ザブ君だけが行くと、この日にふたたび姿を見せたという。そして五日目の正午ごろ、ついに私もオオムラサキと対面することができた。
 ふと気が付くと、手の平ほどもある雄大な飛翔体がエノキの梢の近くを輪切るように旋回していた。これまでどうして見えなかったものかといぶかしく思われるほどに落ち着き払い、悠揚として空中にあった。重なり合う枝の間に分け入ると、この蝶が巻き起こす大気の乱流のために木の葉が擦れあい、さわさわと音をたてて行方を教えるようであった。ふたたび姿をあらわし、私たちの真上に飛来したので、さすがに一瞬、圧倒的な陽光に飲み込まれて影がかすんでしまった。日光をまともに射込まれて私の虹彩は針の穴ほどにつぼまり、すると大いなる蝶がゆるやかに翅をひろげている様が漆黒のシルエットになって浮き出してきた。つづいて滑らかな反転。傾けられた翅から反射する紫の輝きの豪華さ! あまりに高くを滑空するので捕らえられるわけがなかったが、私はしたたかに満ち足りた気分だった。

 古い暖簾「里彦」の跡取り息子であるザブ君は、私と一緒に谷の高等学校に進学した。学校は二人でオオムラサキを見たことのあるエノキ林の丘のすぐ脇にあった。その二年目のころからザブ君は仲間を避けるようになり、得意の相撲をとらなくなった。蝶の採集すら止めてしまったようだった。山岳部にさそっても、頬を染めながらも断られるしまつで、心気臭いやつだと、私もだんだんと彼から離れた。
 高校も卒業間際になって、漆器製造業の老舗「里彦」が倒産し、近いうちに家財が競売に付されるという噂が駆けめぐり、狭い町の人々をおののかせた。それこそ長い間、里彦のような漆器加工業こそ、木曾ではもっとも安定した生業だと信じられていたのである。里彦の倒産は、あたらしい消費の形が木曾谷にまで影を落としてきたことの警告だった。ザブ君が高校に進学したころから家業がじりじりと傾きはじめ、およそ三年間、活路を見出そうとしてあがいたあげくに里彦は倒れた。
 そのころから急激に発展した石油化学工業の巨大なプラントから量産されたプラスチック製の日用品は、まともに木曾の漆器業も叩いた。ザブ君のお父さんは前から身体が弱かったのだが、日毎に侵してくる強敵にたちむかった数年間の疲れが重なって急死し、当主を失った老舗はそれから数ヵ月後に行き詰まったのである。
 家運の傾きとザブ君の孤立とは、正確に並行していたことにそのときようやく気が付いた。歴史のある工房の息子らしく、静かではあるが誇りもある彼にとって、家業の不振ということは非常な恥に思えたに違いない。あの年頃のこころで、彼はどんなふうにプラスチックを怨んだことだろう。「里彦」はとりこわされ、その一家は東京に移っていった。跡地には、〇〇信用金庫というのが建てられた。

アカタテハ

 それから丸七年の後の夏、超満員の東京・山手線のなかで須藤栄三郎君と鉢合わせたことがある。私が肘を使ってなんとか押しのけようとした男、たまらず私の方を振り向いた若い男が、なんと、長いあいだ音信も交わせないでいたザブ君だった。
 新宿の焼き鳥屋へ、彼は私を引っ張っていった。雑踏の中を分けてゆく身のこなし。暖簾をくぐる肩。酒を注文する声の調子などに、自分の力で数年間を重ねたものが感じられ、蝶を追いかけていた時代と同じように、まともに笑いかけてくる余裕を取り戻していた。闊達に話もした。
 逃げるような気分で高校を卒業してすぐに上京し、二、三の職を変わって今は看板屋に勤め、漆ならぬペンキを塗っているが、いずれアニメーションの仕事をしたいと思って勉強しているから毎日に張りがある、と言った。そのころアニメーションという分野は斬新に聞こえた。
「・・・あのとき親父が死んじまったんだからしょうがない。知ってのとおり、このごろじゃあ、プラスチックの椀や盆や重箱にそこそこの漆を塗って都会に戻してるんだよ。古いやり方を必死に守っている人も居るがね。石油、山に登るか。まいったな」
「ザブ、あの蝶々たちはどうした?」
「借金取りに家をおん出されたときに、木曾川に叩き込んじまった・・・。いまだから言うけど、俺はオオムラサキを二頭つかまえて持ってたんだ。ケンに見せれば一頭はとられると思って隠してた。おまえはああゆうものを大事にしないからな。同じことだったが・・・全部を川へ流しちまった」
「オオムラサキ! すごかった」
「あの翅の色を漆で塗りだすことはできるよ。これはもうみんなが昔からやってた。ペンキや絵の具じゃ無理だろうね。だから、絵を動かしてみようと思うのさ」
 最後に、良い技術屋になれと私は言われた。それから肩を叩きあって別れた。

 ザブ君にも私にも、もっとも実らせなければならない時が巡った。いろいろのことがあったけれども、無論、容赦があるものでない。あ、という間に二十年ちかくが経ってしまった。そんな一夜のことである。
 ぎっしりと違法駐車しながら、深い塗りをネオンに光らせている車の列の横を足早に通り過ぎようとしているとき、その一台のフロントグリルの片側が、ふと、異様な光り方をしているのに気付いて、引き戻されるように立ち止まらされたことがある。六本木の交差点をわずかに南に下ったところだった。
 ガードレールをまたいで身をこごめると、「神戸」ナンバーの大型乗用車の銀色に輝くフロントグリルの格子に、一頭の大型の蝶が形も崩されずに張り付いていた。けなげにも広げられたままの両の翅、それに頭部と胸部で、腹部は無残に引きちぎられてしまっているのが分かった。ちぎられたところから流れ出た体液が糊の役割をしたわけである。自動車の前にしゃがんだまま見入っていると、声をかけられた。
「なにしてんのや」
「これ、取って見ていいですか」
「なんや蛾かいな。中央高速道を飛ばしてきたからに、途中でひっかかったんのやな。それがどうかしたんかいな」
「いや、オオムラサキです。国蝶です」
「はあ・・・どうぞ、どうぞ」
 オオムラサキは雌であった。なまなましい翅の色としなやかさから、羽化したばかりのものと知れた。それだけに、さまざまな人工の照明に反射する深みは物凄いばかりである。
 多分、八ヶ岳の裾野、中央高速道の標高が最も高いあたりのことであったろう。成虫に達したばかりのこの固体は、ほんの数センチ上を飛翔していれば、ボンネットから屋根を越える気流にそって大きく逃れることができただろうにと私は思った。滅んでゆく美しい蝶たち・・・友の不運、その父親の死・・・私の姉と父の死・・・生き残りが難しくなってゆく木曾の漆器業・・・やがては同じ道を追ってゆくもの・・・そして再生してゆくもの・・・。それらが、かつてめくるめくほどの感動を引き起こしてくれたオオムラサキのシルエットの印象と乱れあうと、郷愁と悔恨とが交じり合ったような気持ちの揺れをおぼえ、二本の指でつまんだものを眺めながら、ガードレールの脇でしばらくたたずみ続けていた。
 水平に伸ばされたまま硬直してしまった翅は、複雑に渦を巻くビルの間の風と光の動きを受けてさまざまな方向に生々しく輝いて傾いた。もっと飛びたかった、もっと飛びたかったと訴えていた。

アサギマダラ

ロウボウ

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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