この国の行方 分岐点へのタイムリミット7~9年 Ⅶ 再生 「幸せな国」へ

1 日本と北欧の国々とはどこが違うのだろう

 日本と北欧の国々とはどこが違うかを端的に表している数字がある。

   選挙の投票率
  
 スウェーデン  2014年総選挙       全体 85.8%
                      18歳 83.0%
  
 日本    2017年衆議院選挙(小選挙区)  全体 53.68%
                      10代 40.49%
                      20代 33.85%

 スウェーデンをはじめ北欧の国々の投票率の高さは国民投票と言えるほどで、選挙のたびに国の現在や方向が全国民によって判断されているといえそうである。
スウェーデンでは総選挙に立候補する際の供託金はゼロであり、18歳から被選挙権もあるので、10代の国会議員20代の大臣も誕生している。政府が補助金を出して後押ししている「学校選挙」という伝統があり、若者が中心になって、全国の中学と高校で総選挙と全く同じ形式で実施(2014年には1800校・50万人が参加)され、生徒同士の討論会や各政党の青年部から人を招いての公開討論会なども行われる。
投票日には、ちょっとおしゃれをして、一家総出で投票場にでかけ、「投票日には何時も幸せになる。この国がどういう国になるか、そのプロセスに関わられて嬉しい」というのが普通の感想のようである。
 10代の国会議員や20代の大臣が生まれるというのも頷けるし、日本のタレントやアイドルのように、彼らは憧れと関心の対象となるであろう。若者たちと政治とが密着していることが、充実した福祉国家をなお若々しく前進させる最大の要因であると思われる。

 日本人は、「自分がどんな社会で生きるかは、地盤看板を持つ世襲のプロが決めることである」と思い込んでいると疑われるほど、政治に参画していない。選挙の投票率がそれを示している。
そういうところから「なんだ政治家なんて・・・」というような自分の責任の棚上げする捻じれが生まれ、親がそのような認識で子育てをするから子供もそのように成長して不参画が続き、はては「エイジング・ニッポン」をもたらすことになっている。特に若者の投票率の低下傾向は、この国の民主主義にとって危機的である。最近の国政選挙の投票率を比べると、世界193ヶ国中、なんと日本は150番目である。

2 完全主義の功罪を知る

 自然と個々の資質に恵まれていながら、今の私たちは妙に及び腰である。わずかに完全主義にシフトしすぎるところと、そこから生じがちな寛容の不足ということを反芻する必要がある。

 完全を狙う人は、ほどほどとか、まずまずということを嫌うので、たとえばテストで80点を取っても喜ばない。満点を目指して頑張るのだが、何時も満点を取れるはずがないので、気難しく、疲れる。ともすると、満点を取れそうもないテストを避けるようになる。直ぐに良い結果が得られることだけに手を付ける傾向がある。
 完全を願う人は、他人というに自分がどのように映っているかを常に気にする。礼儀正しく、気配りをし、親切に振る舞う。それでも鏡に映った自分に自信を得られないと、鏡に映らないように工夫するようになる。つまり、本音を捻じ曲げても周囲と等質になって目立たないように努力する。日本人には本音と建て前があると観察される所以である。そうしたことを恥じる人は、引きこもって自分だけの世界に沈殿する。
 先に挙げた日本人の特性は、こうした傾向に支えられているところが少なくない。

 そもそも、この世に完全というものは存在しない。自然も宇宙も不完全である。その大きな営みの中に置かれたヒトというものが完全なはずがない。不完全なヒトが考えたものであるから宗教だって、したがって神も不完全であると言い切れるかもしれない。
 互いに不完全なのであるから、失敗は許し合うべきである。外国はよく見ている。「幸せな国ランキング」で日本が大きく順位を下げているのは、「寛容に不足する」という特性からであるようだ。
 いくら頑張っても、ほどほどでまずまず、であることを肝に銘じなければならない。自分の好きなことをしながら、自分を許し他人を許し、ほどほどを撒き散らしながら、のびのびと、たった一度の人生を生きるやりかたが正解である。

3 幸せな国の基本 太陽と土と海

 東方に小さな島国がある。どの方向にも開かれていて、特異な産物と文化と技術とを発信し、良いものは柔軟に取り入れる。おごらず、ひるまず、静かに自立している。平和と地球の環境を守るためには果敢で、国際連合には欠かせないメンバーである。人々は、勤勉で明るく、平等をモットウとし、慎重に計画した上で行動的である。安心して子育てができ、安心して死ねる社会を実現することができている・・・GDPが世界何位などというのは、どうでもいいことである。

 これを実現するためには「エネルギーと食料の自給自足」をほぼ達成していることが必須の要件であり、大量の化石燃料や食料を外国に依存しているようでは、いくら輸入先の分散を図っても平穏ではいられない。
 太陽と土と海。私たちを育む母なるものを、この頃の私たちは避けているのではないか。たとえば海水浴場は年々閉鎖に追い込まれており、1980年代に年間2600万人を数えた海水浴客は、2015年には760万人に減少している。若者たちは日焼けを嫌うようになった。ナイトプールというのを好み、脱毛がはやり、このごろは電車の中で入念に化粧する高校生を見るようになった。膨れ上がった化粧袋は見るからに清潔な感じではない。

 みんながケイタイで、いつでもリアルタイムで世界中の情報と繋がっている。手にするのは溢れかえる情報だけであるが、ともすると人と繋がっているように錯覚してしまう。SNSで知り合った(知り合ったという錯覚)ヒトに会いに行って殺されてしまうというようなことが起こる。
 本来の快感を取り戻さなければならない。
 かなり前の話になるが「エデンの東」という映画があり、出来損ないと見られていた息子を「ジェームス・ディーン」が演じていた。必死になって父親に認めてもらおうとする息子は、事業に失敗した父親の損失を取り戻してやろうとして大豆の栽培に懸ける。借り切った広大な畑に大豆が芽を出し始めたとき、息子は一本一本の芽を愛でては踊る。踊っては腹這いになり、愛でては踊る。ジェームス・ディーンの演技のすばらしさを、筆者は今も忘れないでいる。
 陽と土と海の香りのする人を格好いいとしなければならない。スポーツクラブで筋肉を鍛えている人よりも、チエンソーや延縄(はえなわ)と格闘している若者を格好いいとしなければならない。
 そうした感覚で地域に暮らす人々が増えれば、第三次産業も移動してくる。都市と地域とのバランスの取れた発展を必ず手にすることができる。
 ちょっと、行動のパターンを変えればいいのである。あれこれ悩ましく考えても、にわかに解決が得られることは少ない。不安にうずくまっているよりも、目の前のできることをすること。少しずつでもそれを繰り返していれば、必ず見えてくるものがある。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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