民族の未来はこの10年にあり 具体的に何をするか
1 若者の目線で キャンペーンの展開 関心を盛り上げる
2 成功した実践と成果を顕揚する
3 報道に押し流されない 実態を判断する姿勢を育む
4 「公民教育」を充実させ 地域の運営にに若者枠を設ける
5 総まとめ
1 若者の目線 キャンペーンの展開 関心を盛り上げる
平成27年(2015)10月からようやく「内閣府特命地方創生担当大臣」というものが置かれており、各省庁にまたがる施策を統合して地方創生を推進するとされ、そのもとにさまざまな企画が提示されているけれども、国民一般に、ことに若年層に、広く浸透しているとは言い難い。
大規模なキャンペーンが必要である。都市に集中して地域疲弊におちいるか、地方にも分散して共存か。これからの10年をどのように振る舞うかは、国民一人一人に問うに値する覚悟の選択となる。
「アニメ」や「動画」などの手法も使い、「AIによるシミュレーション」を含め、さまざまなシナリオを繰り返し広報し、検討や議論を盛り上げる。
東日本大震災では「絆」という一文字で、あれだけに人々の思いは高まり、復興税という形にも具体化された。「幸せとはなにか」「列島のこれからを考える」など・・・一人一人の権利と責任において未来を選択できることを浸透させる。
2 成功した実践と成果を顕揚する
地域の農・林・漁業、特色あるものづくり、エネルギー自給、地方への移住、子育て、介護、などを包括的に結び合わせてプラスに転じることに成功している実践事例を称揚し、優先的に助成する。
その内容をテレビなどのマスメディアを使って全国に広報する。広報は同時に、地域と都市を連携させる新しいシステム、画期的なイノベーションなどのさらなる振興を呼びかける。
「国民栄誉賞」というのはスポーツや芸能の分野で卓抜の卓抜な業績に対して与えられていることが多いが、これを凌駕するほどの栄誉が「日本の存続にかかわる業績」に与えられて何の不自然があるだろう。
屋外で輝いている若者たちにスポットライトを当てる。高性能で使い勝手の良い作業機械、安価で頑丈な中型トラックの開発、通念をくつがえすようにデザインされた作業服など・・・○○展示会や○○ショーなどを開催して、他の分野を超えるほどの完成度を目指して競い合う。
3 報道に押し流されない 実態を判断する姿勢を育む
生真面目な特性からか、日本人は自分たちの社会を実態よりも悲観的に捉えてしまっている。
テレビや新聞などのマスメディアに向き合っていると、日本中、火事だらけ、殺人だらけ、虐待やいじめだらけ、嘘だらけ、と錯覚させられてしまう。
犯罪全体についての実態をみると、この国は世界でもトップクラスに治安の良い国である。にもかかわらず、治安に不安を感じている国民の率が、これまたトップクラスに高いという奇妙な乖離が生じてしまっている。
マスメディアには、不安を煽るような負の報道ばかりにとどまらず、世情を正のベクトルに向けるような切り口も見せてほしい。そこにメディアの本来の存在価値があるはずである。
正の報道についても、たとえばスポーツについて上へ上への記録と煽りあげるばかりでは、アスリートはますますヒトというものの生理的な能力の限界を超えるような無理を自分に強いることになり、わずか1シーズンで致命的な故障を起こしてしまって選手生命をあやうくするというようなことになる。スポーツは奇形的にアクロバット化しつつあり、ショー化している。トップアスリートの演技にはローマの奴隷剣闘士に見るような切迫さがあって、気の毒に映ることさえある。
4 公民教育を充実させ 地域の運営に若者枠を設ける
実社会参画の苗床となるべき、中・高校の「生徒会」というものが衰退している。欧米諸国では「生徒会」は重要な組織とされ、その代表は、教員、保護者、地域関係者と同列な資格で学校の「最高意思決定機関」に参画している。生徒会同士がつながって大きい規模の活動をすることも普通で、アメリカでは「全国生徒会協会」、ヨーロッパでは「生徒組合協会」という連合組織があり、各種の財団や政府から支援を受けている。北欧の生徒会の充実ぶりは、先の記事にまとめた通りである。
日本の学生生徒は、ケイタイで繋がった中小のグループのいずれかに属して浮遊していることが多く、生徒会には義務感で参加しており、活動も受け身で、慣行行事を形式的に開催したり、娯楽に留まることが多く、顧問教師に依存的であるという。
そもそも、生徒の意識を培うべき「公民教育」が軽視されている。中学の社会科は地理・歴史・公民に分かれているが、公民の学習は高校受験の迫ったころにあたふたと流される実情があるらしい。日本国憲法の理念をはじめ、民主主義の基本を学ぶことを軽んじられて義務教育を終えてしまうことになる。
大学入試に際しても、ほとんどの大学で受験科目として選択できる社会科の科目は、日本史・世界史・地理であり、「公民」を不可としている。こうしたことからも公民教育は軽視されていることが分かる。公民の問題には答えが幾つも有ることがあり、作製も採点も難しいというのが言い分のようであるが、そういうものだからこそ重視して・・・という思いがする。
昭和44年(1969)に文部科学省が通達を発し、高校での政治的活動を禁止し、生徒会の交流活動を許可制にした。ごくごく一部の学生が極左テロ化した事件に怯えて、日本の若者を信じられなくなったのであろう。
その判断は真逆である。そういう時こそ、生徒会の活動を助成し、話し合いの大切さや政治に参画する意義を、実社会に結び付いた形で定着させるべきであった。通達は、実に47年後の平成28年(2016)にようやく廃止された。カセが外れたように学生生徒が活発になったかというと・・・先に挙げた平成29年の衆議院選挙の投票率のとおりである。人は、つまりは期待されたとおりに育つと言われる。日本の高校生は負の方向にも従順なのである。
筆者の経験では、かつてはそんなではなかった。わたくし事であるが、昭和31年(1956)ごろ山国の小さな高校で生徒会長をしていたことがある。いくつかの部活動のうち、野球部が際立って多くの予算を要し、それでいて対外試合には負けてばかりいるというのを問題にした。生徒会総会で野球部を廃部に持ち込み、少人数でありながら元気いっぱいの相撲部に予算を増加して「まわし」の5本ほどを新調できるようにした。奮い立った相撲部が県の大会で優勝して凱旋してきた日、筆者は元野球部員たちに呼び出されてさんざんに殴られた。一方、強くなった相撲部のために「応援部」が生まれ、応援歌の練習時に1年生が暴力を振るわれるという事件が起こった。それを生徒会の役員会で調べて整理し、臨時の総会で討論し、ともに和解した。「いじめ」といった湿った事件にもならず、むしろ、運動会や文化活動、校外活動などで生徒会のプランや修正が活気づくことになった。
谷には三つの小さな高校があったから、生徒会レベルの交流ができるわけで、筆者もそういうことをプランに挙げていたのだけれど、一つは女子高であったから、谷の因習というか年頃の意識過剰というか、妙なブレーキが掛かって実行には踏み出せなかった。悔やまれるところである。三つの高校の生徒会の連携ができたとすれば、町村議会を訪れたり林業の代表者を学校に招いたりして、谷のこれからを考える機会を持てたであろう。
学校や地域の運営に若者枠を設けて、若者の参画を図るべきである。参画するに値する若者たちの母体として、充実した生徒会などが有ることが必要である。スポーツについて「スポーツ振興法」が定められていることに習って、まずは「生徒会」について注力し、全国を囲い込んでの行事が盛んに開催されることが望まれる。そうしたことを通して、地域や行政や選挙について能動的であるのは日常的にそうあるべきパターンであり、常に自分の権利と義務に、自分たちの将来に、直結しているのだという認識を育みたい。
そもそも、日本の基本的な弱点であるエネルギー・食料・木材などの低い自給率についてどう捉え、どのように対処すべきかは、生徒会活動のなかで若者たちが考えて連帯してゆくべき問題である。実践の参考にすべく、既存のそれぞれの政党と公開でデスカッションすることなどが定例となるべきなのである。
5 総まとめ
敗戦後、日本は輸入した資源に付加価値を付けて輸出するという「もの作り」一本で復興し、さらには奇跡といわれる20年近い高度成長を続け「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と評されたことがある。同時に、資源、殊にエネルギー資源の自給が異様に低いうえでの発展であったから「ひよわな花」と見られもした。この「ひよわな花」はなかなかしぶとく、2度のオイルショックをこうむって激しく揺さぶられたが、なお咲き続けた。
しかしながら、およそ、エネルギー自給率8%、食料の自給率40%、木材の自給率30%といった体質での「もの作り」は、続々と台頭する周辺アジア諸国の追い上げを受けて次第に行き詰まりをみせる。社会の底辺に不安が漂い出したのも無理はなかった。将来を担うことになる若者たちを悲観的で内向きにさせ、異様な少子高齢化社会に向かうことになり、ついに「エイジング・ニッポン」「沈みゆく船」などと報道されるまでになった。
意識を変えなければならない時期に至っている。特に若者に気付いてもらわなければならない。
私たちを取り巻いている資源は、高い知能と勤勉さを備えた人々を勘定に入れて、人的物的に貧弱なものではない。森林や放置されつつある農地や海と海底などは活用されることを待っている。エネルギーの自足、地産地消、地域循環型経済といったものに、如何に組み合わせて活用できるかが問題となる。
GDPがどうのこうのというよりも、こじんまりと自立できている生活圏のなかに、人々が安心と幸せを見い出せるかどうかが問題なのである。到達している現在の状況でも私たち日本人は、その製品・サービスの信頼性、健康的な食習慣や自然の美しさ、独得な文化などが、規模の大きな国際的な調査で高く評価され、世界一のブランド力と評価されることがある。「沈みゆく船」どころではない。もう一歩の気付きと実践なのである。若者たちに認識してほしい!
昔の人は「百坪(330㎡)の土地があれば飢えない」と言った。このいさぎよさと依って立つ原点を、私たちは噛みしめなければならないと思う。
列島と海とを大切に活用すれば、変動の激しい石油やガスを巡る国際情勢を怖れる必要はない。そして有機的に列島と海を活用する工夫は無限である。
私たちと私たちの子孫は、これからも平和に繁栄してゆけるのである。
農業や林業の再生や地域の包括的発展については、このカテゴリー「若者たちのこれから」の中で以前に考えたことがあります。「これからへの想い」「平和のための創造」「置いて行かれている国土を見る」「目の前の課題」に目を通していただければ幸いです。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。