共感と信頼感はどのようにして芽吹いてくるか

現在の赤ん坊は、人類が何万年もかかって発展させてきた「言語の習得」ということを、ほんの数年のうちに凝縮してやってのけるという驚くべき能力を備えている。

生理的な欲求をめぐる共同作業

まず赤子は、空腹、不快、苦痛などを感じると泣く。泣くという「信号」を発すると、乳がもらえ、あるいはオムツが替えられ、苦痛や不快が取り除かれる。こういうことを繰り返しているうちに、「泣けば・・・してくれるだろう」という「予測」が生まれ、親の方は「この泣き方は・・・したのだろう」という「判断」をなし、対応した結果は赤ん坊にとっても親にとっても、当たったり外れたりする。 このような体験を繰り返しているうちに「信号」は次第に一定の指向を持つようになり、「パイパイ」「オブウ」「マンマ」「チッチ」などの初歩的な言語ともなり、じきにそれを超えてゆく。
予測」「判断」「結果」「修正」と、いっしょに小ぶりなレンガを積み上げてゆくように、作業はどんどんとスムースでリズミカルに、そして巧緻になってゆく。

共同の作業からもたらされる位置付け

ここを少し詳しく考える。共通の場で、繰り返し予測し、判断し、行動し、結果を積み上げているうちに、ある物事を自分の心のどこに位置付けたらやりやすいかが次第に定まってくる。一緒に案配しながら積み上げるということこそが必須である。キャッチボールのように、互いのリズムが協調していることが大切である。
いま目の前にしている事象の「位置や序列」に、互いに「一致」するところが多くなれば快感と安心感が増し、そこに「共感と信頼感」が生まれてくる。
これらを心に一定量溜めることができれば、ちょうどダムが沢から水を取り入れながら一方で放水しつつ常に一定の水を蓄えているように、共感と信頼感つまり「愛着」が安定した形で生涯続く。親と子ばかりではなく、周囲の人とも安定した関係を持つために必要な、こうした能力を身に着けられる期間は、先にも触れたが、わずか生後1歳半までとされている。

沈殿の中に醗酵するもの

さらには、親と子の手渡しのような作業の積み上げの中から、「これは大切なものだ、これは取るに足らないものだ」という厚みの中から、ちょうど同じ川の砂を振るった底に砂金が得られたように、動物にはない高次の「感情(情感)」つまり、いつくしみ、思いやり、あわれみ、あこがれ、畏敬、誇り、侮蔑、恥などが醸されてくる。このようにして、人類の子供たちはほぼ同じような道(経過)を通って成長してきた。
野生動物に育てられた少年が、恐怖や怒りといった低い感情のレベルから、ついに発展し得なかったという事例が報告されている。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です