成長するものを信じて子育てをしよう

「自分は大切にされ愛される価値がある」と信じて人生を始めるのと、「どうせ自分はとりえのない嫌われ者だ」として船出するのとでは、生涯の軌跡に大きな違いが生ずるであろう。

基本的信頼感と愛着

自分を肯定するとともに他人を信頼することができるという感覚を「基本的信頼感」といい、これをベースにして他人と暖かい絆を結べる情緒的な基礎を「愛着」という。それらは安定したものか、不安定か。

これまでの研究では、信頼感や愛着のパターンは生後1.5歳ほどで決定され、「第二の遺伝子」と呼ばれることがあるほどに生涯影響するとされている。本来の遺伝子に描かれた設計図のままに機能が現われることにとどまらず、設計図が修飾されて異なるものが芽吹いてくることも頻繁にあり、乳幼児期の育てられ方でも、そのオンオフが調整されるという。
こんなふうに言われるといくらか構えてしまいがちであるが、そんな杓子定規なものではない。

春が万物を育むように

自然は、他の哺乳動物とおなじように、分娩時に「愛情ホルモン」とも呼ばれることのある「オキシトシン」というホルモンを脳下垂体から分泌させ、いわゆる母性を刺激して「我が子がいとしい」という気持ちをにわかに高めるという仕組みを準備している。
しかし勿論のこと、完璧な母親も完璧な赤ん坊もあり得ないのであって、要は子どもに自然な愛情を注いで、一緒にいる時間を「楽しむ」あるいは「充実していると感じる」ことができれば、双葉が育つように自然に愛着は醸される。

そして、かつて、まさにそのようになされ続けてきた。ほんの数千年年ほど前まで、何十万年何百万年という間、人類は日常的に野獣を怖れ、暗みを怖れ、天候の急変を怖れ、飢えを怖れ、他の群との出会いに緊張した。そのころのヒトはおそろしく短命であったであろう。
ことに子どもは、素速く逃げることができるまでは親の近くにまとわりついていたであろうし、乳幼児ともなれば寝るときも移動するときも、親たちが戦うときも、常に親(母親)の胸に抱かれ続けている必要があった。
一生はただ生き延びるためにあり、単純で、選択することも疑うこともできず、誰もが同じように生き、行動し、体験し、そして死んでいった。充実していたともいえそうである。そのように在りのままを繰り返しながらも、現生人類は発展を続ける逞しさを備えていた。

普通でほどの良い母親

人類を繁栄させたのは、特別な育児能力を持った母親ではなく、「普通でほどよい母親」であった。ほどよい母親は、小さな失敗も繰り返したであろう。自然な小さな失敗は、赤ん坊に自分の思い通りにはならないことがあることを少しずつ理解させ、母親といえども自分とは違うのだということを学ばせてゆく。親を超えてゆくために、大切なことである。信頼しあっているけれども互いに違うのである。

心のキャッチボール

親と子が情報や思いを投げかけ合う。良いところへ投げることが出来れば、それを受けた相手から良い手応えが投げ返されてくる。両方がハッピーであるが、投げ手と受け手は交互に替り合う。「心のキャッチボールを繰り返すことで情緒や共感が育ってゆく」とは上手い表現だと思う。

全人類に共通する挨拶

心のキャッチボールが何万年にもわたって繰り返された結果、例えば次のような事実が行き渡ることになった。「ほとんど全人類に共通する挨拶は、まず目をみつめ、眉をすこし上げ、数秒間そのままで、それから頷くという動作であり、これは大人が赤ん坊を見てあやそうとする表情と同じである」。こうした温かみが形成されなかったら、人類はそこそこで途絶えたはずである。人と人との関係の基礎は、普通に育てば本来「信頼」であることを信じて、楽しみながら子育てをしたい。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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