神戸連続児童殺傷事件 Ⅹ 「社会で」

1 逆風の中での贖罪

 神戸連続児童殺傷事件の犯人である元少年は、6年半の施設内処遇を経て医療少年院を仮退院した。少年事件については少年法の理念から出院の情報などは本来は守秘されるところ、被害者遺族などの要望に応えての特例にするとの法務省の判断で、出院の日時が開示された。
 仮退院が報道された直後から、インターネットを介して情報が飛び交い、掲示板には特定のコーナーが出現し、その日の夕方までに投稿は数千件に達した。投稿では、元少年の氏名や事件発生当時の写真と称するものを載せたり、新しい居住地を臆測して自治体名や地域の名前を挙げたりしていた。これに対し法務省は、「プライバシーを侵害し、社会に不安を広げ、平穏で円滑な社会復帰を阻害する人権侵害行為である」として掲示板開設者に削除を依頼した。
 一方、「本人が更生できるかどうかは、自分のペースで生きられる条件がどれだけ整うかにかかっている。周囲はできるだけそっとしておく方がよい」といった静穏な捉え方もあり、つまるところ、元少年がどのように受け入れられてゆくのかについては、社会全体のありようにゆだねられることになった。 “神戸連続児童殺傷事件 Ⅹ 「社会で」” の続きを読む

神戸連続児童殺傷事件 Ⅺ-Ⅰ 少年犯罪の俯瞰〔戦後編〕

 「神戸連続児童殺傷事件」を理解するために、戦前と戦後とを分けて、少年犯罪を俯瞰してみる。

1 戦後の少年犯罪の要約

 戦後、この国の非行現象は、3つの大きな波を経てから鎮静化した。第一の波のピークは敗戦直後の昭和26年(1951)、第二の波のピークは昭和39年(1964)、第三の波のピークは昭和58年(1983)であった。

 第一の波と医療少年院という現場
 第一の波を構成する非行は、「警察白書」などによって次のように特色付けられている。
「生活のための基本的な物品の窮乏、とりわけ極度にひっ迫した食糧事情、社会的荒廃と混乱のもと、年長少年(18・⒚歳)の窃盗、強盗、詐欺などの財産犯が目立つ」。これらをまとめて「貧困型非行」とも呼ばれた。

 この時期を受けて、医療少年院は「結核の時代」とまとめられる。
「戦災孤児」「浮浪児狩り」といった言葉がなお生々しく、国中が飢えていた中で彼らの栄養状態が良いものであったわけがない。非常な過剰収容のうち、その50%近くが結核におかされており、有効な抗結核剤が出回るのを待てずに、不幸な転帰をたどるものも少なくなかった。院の過去帳にはかなりの数の記帳があるが、ほとんどがこの時代の結核による病死である。 “神戸連続児童殺傷事件 Ⅺ-Ⅰ 少年犯罪の俯瞰〔戦後編〕” の続きを読む

神戸連続児童殺傷事件 Ⅺ-Ⅱ 少年犯罪の俯瞰[戦前編]

 同じカテゴリーのⅪ-Ⅰ少年犯罪の俯瞰[戦後編]で、経済成長率と関連付けて、「少年犯罪は社会の動きが激しい時に増加する」とした。戦後の少年犯罪は3つの波を経たが、「バブル景気」の頃に迎えた「第3の波」は、犯罪検挙数からいうと戦後最大であったものの「学校型非行」と特徴づけられたように、内容的には「万引き」と「放置自転車の乗り逃げ」が80%近くを占めていたものであり、それからというもの「バブル崩壊」後の「失われた20年」という社会の沈滞をなぞるようにして、少年犯罪は減少の一途をたどっている。けれども、戦後どの時期においても、時々の非行群の特徴とされたものからは突出した異質の犯罪が散発していることについても要約した。

1 戦前の社会の特徴

 先ずは、戦前の経済活動というものはどのようであったかをいくらかでも知ろうとした。太平洋戦争の開戦時に、日本のGNPは米国の10分の1ほどであったということはおぼろげに承知していたが、大日本帝国の経済成長率というものはどのように推移していたのかを気にしたことはなかった。 “神戸連続児童殺傷事件 Ⅺ-Ⅱ 少年犯罪の俯瞰[戦前編]” の続きを読む

神戸連続児童殺傷事件 Ⅻ-Ⅰ 少年は変わり得る 処遇事例から

関東医療少年院の役割

 「・・・非行の重大性等により、少年の持つ問題性が極めて複雑・深刻であるためその矯正と社会復帰を図る上で特別の処遇を長期に必要とし、医療の介入が一義的に重要と判断される事案・・・」
 関東医療少年院はそのような特殊な事案にかかわり続けてきた。平成10年(神戸事件後)から同16年(筆者退官直前)までの7年間に限っても、そのうちでも際立って特異な対象のおよそ20例を他の少年たちに混じえて治療教育した。この期間を中心にして(この期間を外れている例もある)、筆者の印象に刻まれている事例のいくつかを挙げてみる。比較的スムースに社会復帰を果たせたものがほとんどで、この7年間の事案に限れば、今のところ、前回と近しい犯罪を再発させたという情報を得ていない。
 事例をまとめるにあったっては、プライバシーの保護のために、氏名、年齢、日時、場所などを伏せ、内容についても要点が保たれるぎりぎりのところまで改変した。そうしたからといって、本人の同意を得ることが不要となるわけでは原則ないが、それぞれに保護処分を終了した身分には、矯正側から連絡を取ろうとするのは不可であり、ついで、ここに事例として挙げるのは、少年たちが「自他への信頼の回復」ということに如何に苦しんで努力したかという実際を、敬意をもって報告したいからである。少年たちは変化し得るということを、少しでも多くの人に知ってほしいからである。本人が目を通すことがあったにしても、私どもの間に不信が生まれることはないと信じている。
  近く成人年齢が引き下げられることにともなって、18・19歳の年長非行少年たちは原則として保護的な処遇を受ける機会が得られないことになる。保護的な対応が第一義とであると判断された事案については、そのような処遇の選択ができるようにしてもらいたいと筆者は強く願っている。
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神戸連続児童殺傷事件 ⅩⅢ 何が台無しにしてしまったか

 

目次
Ⅰ 事件から21年後の報道
Ⅱ 何が台無しにしてしまったか
  1 SOSを見落としたこと
  2 審判決定書全文を開示したこと
3   検事調書を開示したこと
4 マスメディアが過熱しすぎたこと
5 手記出版前後の危機と錯覚
Ⅲ まとめ

Ⅰ 事件から21年後の報道

 平成30(2018)年5月下旬、事件後21年。当時11歳で命を奪われた男児の父親である土岐守氏が、新聞とNHKの取材に応じていた。氏の談話を要約すると次のようである。 “神戸連続児童殺傷事件 ⅩⅢ 何が台無しにしてしまったか” の続きを読む