あこがれ

 数年前、フランスの上空8千メートルほどのところを飛行していたジェット旅客機が、突然、左翼のエンジンに異常を発したことがある。パイロットは最寄りの飛行場に緊急着陸を敢行して、あやうく大惨事をまぬがれた。
 トラブルの原因は、一羽のヨーロッパ・コンドルであった。自分も、血と肉と羽毛で捏ね上げられた泥のようなものになってしまったが、ジェットエンジンのタービンの幾枚かを捻じ曲げて、回転をおおきく狂わせたのである。
 高度8千mといえば、酸素濃度は平地の3分の1ほどになり、ヒトにとってはデスゾーンで、脳神経細胞はどんどん死滅してゆく。鳥類は肺臓の前後に気嚢という器官を備えており、吸うときも吐くときも、肺の中の空気の流れを一定の方向に保つことができる。死腔というものが無い。呼吸システムは哺乳類よりも明らかに勝っている。
 それにしても、コンドルが何のために途方もない高空を飛翔していたのか、理由は誰にも分からない。

 ツルには、非常な高度を列を組んで渡る種類があるという。こともあろうにヒマラヤ山脈を越えて、南北に移動するのである。僥倖と冒険とを種族の命運としており、それを当たり前のように繰り返して種を保っている。
 夏の終わりにチベット平原の南、ヒマラヤの山塊のふもとに集合をはじめる。幾本もの隊列を作り、調子をそろえて徐々に高度を稼いでゆく。だが、山脈の稜線はなおはるかな高みにあるにもかかわらず、薄まってゆく空気のために、彼らの羽ばたきは空転しはじめ、列が乱れはじめる。ついに失速するように反転し、ふたたびチベット側に戻らざるを得ない。それから何日かを休息して英気を養う。
 挑戦の何回目か、ついに隊列は、舌状にインド側から稜線をまたいでチベット側に張り出している上昇気流の気配をつかまえる。
 先頭の一羽の様子の変化はただちに後続しているツルたちに伝わり、にわかに一羽一羽が奮い立ち、ここをせんどと激しく羽ばたきをして新しい流れに移ろうとする。見よ! エレベーターに乗ったように彼らは垂直に近く高度を上げ、そして一点で次々と方向を変え、牙の連なりのような尾根を越えて、南に広がるインドの空に突き込んで行く。溶け込んでゆく・・・。

 「いま 一歩を前へ そのときから夢は目標となる」
 このスローガンが掛けられているのは、ある少年少女のための矯正施設の実科教室である。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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