木曾の実家に「ミソ蔵」というのがあった。自家製の味噌を入れた大きな樽ばかりでなく、穀類をはじめ、ジャガイモ、サツマイモ、ショウガなどが貯蔵されていた。蔵というからには、扉は結構に頑丈なものだったが、ネズミが入り込む。人が出たり入ったりする時の隙を狙うらしい。
祖母が、アオダイショウの見込みのありそうなのをひとつがい、お百姓に吟味してもらって、ミソ蔵のなかに放したのを知って、五歳だった私はわなないた。・・・
じっくり選ばれたアオダイショウが太ったネズミをたくさん食べたなら、二・三年のうちにオロチほどに大きくなるかも分からない・・・。
「なんてことを!」
化け物は化け物を呼び合うそうだから、これは大変なことである。
怖ろしかったのは、土蔵の中や蛇ばかりではなかった。
暮れ方、わずかに明るみの残った空にくりひろげられるコウモリの乱舞。いきなり鼻をかすめるほどに近づいたり遠ざかったり、枝が密集した暗い林を苦もなく通り抜けたり・・・この世離れした飛翔ぶり。隙があれば部屋のなかに侵入しようと、秋の夜に窓ガラスを叩きつづける大きな水色の蛾。檜の森の中からひびいてくるブッポウソウの声。なにものか、家の物干し台の柱の一本を占領して、ほとんど夜どおし、奇妙な儀式をくりかえしていた大きな黒い影。ここを先途と響きわたるヒグラシの声もただならない。ずっと後、黒澤明監督が「羅生門」の中でヒグラシの響きを見事に使っているのに鳥肌立つたものだった。火の霊、人魂、変死人、白骨・・・。 見たことがなく、想像するより仕方のないものは、十倍も百倍も恐ろしかった。
三番目の兄につかまって、つぎのような話を聞かされたことがある。日頃からちょいちょい嘘をついている五歳の子どもを脅かすのに、おそらく、この兄が期待していたよりもめざましい効果をあげることになった。
・・・夜、眠り込んだとき、人の魂は頭から抜け出て先へ先へとさまよい続け、明け方までに地球を一巡りして、今度は足から入り込んで心臓のところに落ち着くのである。こうして人は目覚めるのだ。お前は知らないだろうが、地球は大きなボールのように丸いのだから理屈に合っている。
夢というものは何だと思う。魂が地球一周の旅の途中で出会ったことの思い出なのだ。
人が死ぬということはどういうことだとお前は思う。ひとたび身体を離れた魂が永久に元に戻れなくなってしまうのだ。なぜ? ばちあたりの魂は地球一周の途中で地獄に迷い込んだり、魔物に食われてしまうからだ。では、おやすみ・・・。
私の魂も頭から抜け出して、ひょろひょろと進んで行かなければならない。地球は途方もなく大きいというし、それこそたくさんの人が死んでいっては土の中に埋められているはずだから、私の魂が山を抜け、川を越え、土手をつらぬいて行くうちには、まず間違いなくそういうものに出くわすだろう。カラカラに乾いてしまっている白骨ならまだしも、いま肉が崩れつつある屍体だったり、万が一、間違えられて生き埋めにされた人にぶつかって「わしと一緒に地獄までつきあってくれ」などと持ち掛けられたら大変なことだ。
「魂が抜ける。魂が抜ける!」
どんなに頑張っても眠気はおそってくる。寝付くときからうなされているありさまであったから、毎晩のように、それは恐ろしい夢を見た・・・。
ひとりで我慢していられる限界がきたと思われたので、父に悩みを打ち明けることにした。ひとわたり話を聞いた後、父は杯を止めて私を眺めまわし、
「馬鹿!」
と言ってくれただけだった。
けれど、ついに解放される時が来た。その夜、寝床の中であがいているうちに、素晴らしいことがひらめいたのである。多くの大発明がそうであるように、この場合も原理はとても簡単なことであった。
エビのように丸まって寝る!こうすれば、私の魂は頭から抜け出すだろうが、小さな円を描いて再び私の脚に戻ってくるはずである。死人なんぞには一人も会わずに、せいぜい部屋のなかを巡り続けるだけにちがいない。
朝、自分の英知でものにした勝利を意気揚々として父に報告すると、父は箸をはたりと止め、また私をしげしげと見たあげくに、
「馬鹿!」
とだけ言った。
父が観た通り、私はそう利口にならずに大きくなった。それで、私が身体を伸ばして寝ることができるようになったのは十代の終わりころのことで、そうした父はそれから数年後に死んでしまった。
私は、父の逝ったときの年齢をはるかに超えて生き続けている。あまり利口でない方が長生きできるのであろう。申し訳ないような気がすることがある。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。