チチバナ

 照準を通して十五メートルほど先に、小さな標的が見える。そのはるか向こうは木曾川の対岸の石垣で、チチバナが満開に垂れ下がって豪華な緞帳をつくっている。あざやかな黄一色を背景に、白い的がくっきりと浮かび上がっている。
 私は窓枠に空気銃を乗せて標的を狙っている。まず、きっちりと中心をとらえ、息をつめ、それからわずかに左下に照準をずらせた。この銃にはしたたかな癖があったからである。

 中折れ式の小さな空気銃。台尻からすこし上のところに、月と狩のローマの女神ダイアナの像が彫りこんであった。長いローブのようなものをまとった女神は左腕を下ろして、おそらく何万年も愛用してきた弓と矢を惜しげもなく足元に投げ捨て、右手に高々と銃をかかげている。このポーズから察するところ、ダイアナは移り気な女神様のように思われる。
 この銃は次兄が買ってもらったものだそうだ。はじめのうちは狙ったとおりに弾丸が飛んだが、いつのころからか微妙に的を外れるようになった。欠陥に気付いた次兄は、むんずと銃身をひっつかんで逆手に振り上げ、そのへんの立木に叩きつけた。銃身が曲がっているなどということは、持ち前の潔癖性がとてもゆるさなかったのである。まるで西部劇映画の一場面のようであったろうが、台尻に大きなひびが走り、弾丸の通り道は決定的に曲がってしまった。
 空気銃の使用権は三番目の兄に譲られることになった。飛び道具というものにとってははなはだ困った癖のために、兄たちは使用権にあまり固執しなかったので、銃は三番手、四番手、とだいたい一年半ぐらいで通過し、しだいに私の手に近づいて来つつはあった。

 その日、一番早く学校から帰り、父も往診にでかけて留守であるのを良い機会に、まだ私が使うにはほど遠い空気銃を持ち出し、ひとり射撃の練習ときめこんだ。銃に欠陥があるにしても、兄たちは標的に注射薬の空アンプルを使うほどに練達していた。私は、なにに使うかを言わずに母から縁の欠けた湯のみ茶碗をひとつ分けてもらってきて、尻のほうをきっちりとこちらに向けて置いた。
 まず白い標的の中心をとらえ、息を詰め、それからわずかに左下に照準をずらした。命中する予感がした。発射の軽い衝撃に続いて、標的が飛び散るさまが目に見えるようである。そしたら銃身から漂う独特の匂いをかいでやろう。火薬が一気に燃え尽きたあとの、あの香には及ばないけれど、空気銃の場合でもやはり甘酸っぱく焼けた機会油の匂いがたつ。

     引き金に軽く力を加えた。
「ブスン!」と発射の衝撃があったとほとんど同時に、私の顔のすぐ左で、「バシン!」とガラス窓が音をたて、つづいて、「チン!」という甲高い音が重なって聞こえた。あろうことか、左耳からほんの数センチばかり外にずれて、窓ガラスに小指が通るほどの穴が開き、まわりにさざ波のような同心のひびが生じていた。たった今、非常な高速で私の左目の脇をかすめた物体があったのである。
「狙われた!」
 仰天して窓から頭を引っ込め、空気銃をそっと畳の上に降ろして這いつくばった。撃たれてみて、自分の持っているものがあなどりがたい力を秘めていることが分かってどきどきした。予告なしの狙撃である。空気銃弾であったにしても、まともに当たれば目玉ぐらいは破裂するだろうし、鼻の穴にでも入ったなら柔らかい頭蓋底をつきやぶって脳味噌の中にまで達することもあるだろう。一巻の終わりである。なんという乱暴者!
 けれどすこし落ち着いてくると、このあたりで空気銃を持っているのは私たち兄弟の他にはないはずだという事情に思い至ってきた。「チン」という音についてこそ考えなければならない。一番目の「ブスン」というのは私の空気銃から弾丸が発射された音。「バシン」は私の顔の横のガラスが撃ち抜かれた音。間違いはない。この二つは、私自身が衝撃とともに間近で聞いている。とすると、「チン」というのが相手の銃なりが発射されたときの音ということになる。これはおかしい。こんな音で撃ちだされる飛び道具があるものだろうか。・・・

 まぐれとはいえ、私の発射した小さな弾丸がちょうど湯呑茶碗の中央に命中し、これをこなごなにするどころかまっすぐに撥ね返り、通り抜けたばかりの空間をそのままたどり直して帰って来たとしか説明のしようがない。
 おずおずと顔を出してみると、標的の茶碗は「チチバナ」の黄色を背景に元のままくっきりと白く浮き上がっている。私は部屋を飛び出し、さらに廊下を走って物干し場に出、手摺のうえに置かれていた茶碗を手にとって調べてみた。あった! やはり尻のところ、水平に置くためにどれにも作られてある丸い盛り上がりの中央に、かすかに黒い跡が残されていた。ここに鉛の弾丸が命中して跳ね返った。
「ブスン、バシン、チン、か。ふーん」
 音の順序も正しかった。自分が撃ちだした弾であやうく片目になるところだったのである。すでに私は、自ら銃口をこめかみに当てて、自分の脳味噌を吹き飛ばしてしまった人たちがたくさんいることを知っていた。このときからさらに、そのつもりもなくうっかり発射した自分の弾丸に殺されてしまった人間も、ひょっとすると数え切れないほど居るのではないかしらんと考えるようになった。人はつぎつぎに生まれては死んでいったのだし、それぞれがそれなりに数奇な運命をたどるものだそうだから。
 それから三年ほどして、自分の発射した機銃弾に撃墜されてしまったというアメリカ海軍のジェット戦闘機の話を「リーダーズ・ダイジェスト」という雑誌で読んだことがある。パイロットは落下傘で脱出して無事だったという。「それ見たことか」と私はおおいに悦に入ったことだった。前上方に向かいながら機銃弾を発射し、ついで自分は降下姿勢に移って猛烈な加速度をつけたとする。放物線を描いてはるばる落ちてきた弾丸と、自分の乗っている飛行機とが空中で一致することはありうることである。

 あやうく目玉をパンクさせそうになったことから、私は物事の二つの面を学んだ。往復二十メートルを超える距離を、たった数センチばかりの誤差で小さな弾丸が行って帰ってきたという恐ろしい偶然性がひとつの面。そして、誰にも知られないようにとりはからったつもりの窓ガラスに開いた穴が、まったく当たり前に、父に見つかってしまったという蓋然性がもうひとつの面だった。
 犯人である私をつかまえ、一部始終を知るや
「普通ではない。ばか者! 空気銃は使ってはならん。お前ばかりじゃない。みんなにそう言っとけ!」
 父は怒号した。
 兄たちにひどく恨まれたが、残念がったり、口惜しがったりすることではなかったのかもしれない。放っておけば誰かが、跳ね返り弾を自分の目玉に命中させるどころか、他人様の鼻の中に射込んでしまうなどということが起こったかも分からない。
筋の通ったお触れにそむき、ほんの二ヶ月ほどの冷却期間を置いてから、兄弟は父に隠れてふたたび空気銃をいじくりだし、それぞれがそれなりに慎重に独特の付き合い方をしたつもりだったろうが、やがて当然の報いをうけるはめになった者が出ることになった。これはまた別の話になる。

 チチバナの輝くばかりの黄は、私にとって幸運と神秘の色であり続けている。やがて学校をでてしばらくしたころ、大きな手術で長く入院したが、無事に退院できた日に、病院の前庭にチチバナが咲き群れていた。再生の思いをつくづく味わった夕方だった。今でも、春先の石垣などを絨毯のように覆っているところにメジロやミツバチが集まって蜜を吸っているのを、陽だまりの中で眺め続けていることがある。
 不思議なことだが、いつからのことか、娘もイエローを自分のシンボルカラーのようにしている気配がうかがえる。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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