私がボールを投げられないわけ

 その頃、フィールド競技で使われる「ヤリ」は一本の木を削って作られたもので、上手に投げて、正しく飛んで、金属のキャップを被せられた先端から土に刺さらないと、ともすると折れてしまうということがあった。もちろん、材質や値段などで差はあったであろう。
 私は陸上部に属していたが、トラック競技はからきしダメ。といって、フィールド競技の投擲なども苦手。部活の時間を勝手な気晴らしと考えていた。
 その年にも「東日本医科学生陸上競技大会」というのが新潟市の「白山公園」のグラウンドで催されるという通知が私たちの陸上部にも届いたときに、「槍投げ」と「円盤投げ」参加する者として、主将(同級生)が勝手に私の名前を書き入れてしまった。日頃、「ヤリには絶対に手を触れるな!1日で折られちゃうからな」ときつく言っていたのに、どういうことだったのだろう・・・。この同級生は、皆から「あいつは出世するぜ」とよく噂されていた。案の定、やがて医学部長になり、さらに学長になって大きな勲章をもらった。私に使ったような手を繰り返したものに違いない。

「槍投げ」でやらかしたこと

 私が三・四歩の助走をして、振り被っていたヤリを投げ放つと、したたかな手応えがした。「ひょっとして、これは行ったかも・・・」と前方をうかがったが、ヤリの姿も影もどこにも見当たらなかった。、審判に当たっていた学生や計測のために来ていたアルバイトの女高生などが、いっせいに輪を広げて私から遠ざかろうとしているではないか。
 私も上を見た。なんと、私のヤリは、90度真上に上昇しており、勢いを失うと、尻を下にしたまま落下してきた。とんと地面に当たり、きれいに二つに折れて横たわった。じっと鎮まっていた。
 ヤリを真上に投げた選手というものを、周囲の人たちは初めて見たことだろう。笑ったり、ヤリを惜しんだりしていた。私は独りで右肩の痛みに耐えながらうつむいていた。

「円盤投げ」でやらかしたこと

 次の「円盤投げ」には出たくはなかった。主将は「あれは折れも割れもしない。木の周りを頑丈な鉄の輪で締め付けてある。名誉挽回だ」と言った。
 1投目をもちろん、身体の回転を加えずに腕の振りと胴の捻じりの反動だけを頼りにして投げた。力んでいなかったせいだったと思う。素直にするすると飛んだ。22メートルと少しだったと記憶している。これで上位6人のうちに入ったのは、当時のこの大会のレベルを示している。なんだかいとおしくてウルウルしてくるほどである。
 調子に乗りやすい自分を反省させられる羽目になった。次の1投に身体の回転を加えたところ、目が回ってしまった。円盤の方は、もっと目が回ってしまったらしい。
 ファールの方向に跳ね飛んで行き、折からグラウンドの脇の雑草取りをしていた老婦人たちの間を縫うようにバウンドしながら抜け、芝をかなり滑走してから止まった。こんどは一部始終が見られた。円盤は2㎏ある。鉄の縁に当てられたら、直撃でなくても頭蓋骨は陥没するであろう。私は震えあがった。
 右肩の痛みが、ぐんと増し、腕というものはこんなに重いものかと感じられた。

小・中学の頃から

 思えば、小・中学の頃から失笑されてばかりいた。
 中学校のとき、野球でゴロの捕球は人並みにできるのだが、たとえばサードのポジションからファーストまで、気の利いた送球ができなかった。私の投げたボールはゆったりと山を描いて届き、しかも方向もずれがちだった。私のおかげで内野安打を記録できた人がいっぱい居る。
 軟式庭球に誘ってくれる友達がいたが、ストロークの打ち合いを続けても続けても、私の打球の方向がいっこうに定まらないので、愛想を尽かして相手にしてくれなくなった。
 いつも右肩が痛かったわけではない。治まっているときもあって、たとえば入浴中に背中を洗おうとすると、下から回した右腕が、左腕よりも、目立って上まで届かないといった症状で続いていた。そのように静まっている時でも、人並みの送球はできなかった。

原因が確認できるようになった仕組み PET-CTの威力

 身体には、ブドウ糖(グルコース)を激しく代謝する場所と、そうでもないところがある。たとえば脳神経細胞は体重の5%ほどの重さしかないにもかかわらず、摂取したグルコースと酸素の20%を消費している。通常の器官の4倍ということになる。酸欠のときに、脳の機能だけがレベル違いの後遺症を残すことがあるのも頷ける。
 ガン細胞も代謝は激しく、一般組織よりも3〜20倍ものグルコースを取り込むとされている。
 いま、グルコースの分子の一部を微細な放射能を発する分子に置き換えた18F-FOGという薬液を体内に注入すると、グルコースの代謝分布を明らかに写し出すことができ、ガンや炎症などの異常な集積があればそれと知られるわけである。全身を短時間でスキャンできるように工夫されたのがPET-CTである。

 去年の秋口、妻に乳癌らしいシコリが見つかった。PET-CTを撮ると、右乳腺内に、碁石を少し厚くしたような感じの映像がクッキリと浮かび上がっていた。私はこの装置の威力に改めて驚かされた。説明してもらうも何もない。まるでオレンジ色に輝く空飛ぶ円盤であった。
 形がすっきりとしていたことから、性質は悪くはないだろうと予想されたが、同時に進められた細胞診や近辺のリンパ腺の検査などの結果も良いもので、全体の診断は「ステージ1」、その後の治療経過も順調であった。

 私もPET-CTを受けてみることにした。健康診断が目的であるから保健は利かない。けれどありがたいことに、グルコースはしかるべきところでしかるべく代謝されており、ガン組織が示すような異常な堆積は認められなかった。
 けれど、完全な健康というものは本来あり得ないところ、私のように長く身体を使っていれば、いくつかの不具合はどうしても出てくる。前立腺肥大、慢性気管支炎、右腎臓結石2個、などが認められた。
私にとって特記すべきことは、右肩関節周辺に、輪郭がぼんやりしているものの、明らかに普通でないグルコースの集積像が得られたことである。「慢性右肩関節周囲炎」というのが診断名だった。
 それまで長いあいだ右肩の不調につきまとわれたが、はっきりした異常所見を示されたことは無かった。いわゆる「五十肩」を病む年頃には、私の右肩の痛みはロケット状に上昇したが、何枚ものX-線写真で得られた情報は、骨の位置関係に大きなずれが無いこと、石灰沈着などもないといったことだけに限られたものであった。それがPET-CTでは、なお当該部で炎症が続いているのが一目瞭然なのであった。

ことの始まり 

 私が小学校に上がる少し前の秋口の日曜日。あいにく雨に降りこまれたので、兄たちは家の中をどろどろと走り回っては、ときどきレスリングのような取っ組み合いを繰り返していた。兄たちにとって私はネコのようなもので、「巴投げや」「抑え込み」の練習台として引っ張りだこだった。
 「こっちへ来い」「今度は俺の番だ」と、腕をつかまれて「綱引き」をされているうちに、ボクンというような鈍い音が響いて、背中が強烈に痛くなった。
「どうしたというんだ」「せっかく遊んでやっているのに、こやつは何で泣く」というのが、育ち盛りの少年たちの捉え方なのである。
 完全に脱臼したわけではなかったから徐々に痛みは引いて、動きも回復してきた。だが、完全には修復しなかった。筋や腱、あるいは神経も含めて、わずかに歪んで固定してしまったのであろう。その後にどのような不都合をもたらしたかは、これまでに書いたとおりである。

浮草に根が生えたように 納得

 右肩に不具合があるのは確かなのに、その正体がはっきりと目に見えないということは、長いあいだ私の気がかりであり続けていた。工具や農具、ことに刃物は左手を使った方が安定した。文字も左手で書くようにした方が良かったかも知れない。右手で書く私の文字は、筆圧も形も、ミミズさながらに不安定である。
 何の異常も証明されないのに痛みを感じるのは、そもそも生まれつき運動神経が劣っているのを、私の脳が、痛みという症状に形を変えて誤魔化しているのではないかとも勘ぐったりすることさえあった。

 今、脳神経細胞やガン組織のようにオレンジ色に浮かび上がるというほどではないにしろ、右肩関節周辺に炎症による代謝の亢進がはっきりと認められたということは、思ったよりも大きな変化を私にもたらした。
 浮き草に根が生えたようにアンカーが利いて、これまでのさまざまなことが腑に落ちた。良く付き合ってきたものだと、自分を誉めてやりたい気分にさえなった。
 兄弟たちの遠い日のことも許してやる気になっている。もっとも、そのようなことを伝えたくても、おおかたの者はあの世に移ってしまっている。不公平になるから、誰にも何も言わないでいる。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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