水無様 愛嬌たっぷりな女神様のお話

 信州木曽町の氏神は女神様で「水無様」と呼ばれております。
 木曾川に沿って並んでいる家々から急な坂を登って山に入り、さらに北に向かって開かれている山道を行くと、杉や檜の巨木がうっそうと繁った鎮守の森があります。二頭の狛犬と、落し水にいつも濡れながら爪の中に硬玉をかかげている竜を門番にして、女神様はここに住んでおられます。霊気に満ちた結構なお住まいを「水無神社」といいます。

 この女神様はいくらか変っておられます。
 乱暴で移り気のところはローマの狩の女神ダイアナと似たところがありますが、とても愛嬌があるので、土地の者のうちにこの人を嫌う人はまずいないと思います。
 それで毎年、七月二十二日と二十三日の二日間、せいいっぱいのお祭りをしておつきあいをするのです。お祭りの日、その年も新しく作られたばかりの匂うばかりの白木の神輿にゆられながら、彼女は専用道路を通って町まで降りて来ます。
 年毎に乗り物を新調していたのでは、これが何十何百とたまって、置き場所にも困ることだろうと思われるでしょうが、だいじょうぶ、女神様は余分の神輿を一台もお持ちではありません。
 それどころか、その年のお祭りが終わってから次の年の同じ日までの間は、まったく乗り物なしで過ごしておられます。たった二日間を乗っただけで、頑丈な乗り物を木片になるまでに壊してしまうから、こういうことになるのです。

 以下の話は、私が8歳のときに亡くなった祖母から聞かされたものですから、水無神社などに伝えられている正統の来歴とは違ったところがありましょう。けれど祖母は、木曾谷から一歩も踏み出したことがないことを誇りにしていた人で、腰が曲がってからも、味噌の仕込み、スグキの漬け込み、秋の獲り入れの時などには、陣羽織のようなものに切り取ったシノダケといったいでたちで、段取りを取り仕切っておりました。祖母が孫に語り継ごうとしたことも一つの伝承だろうと、私は思うのです。

 昔々、木曾谷には神様が居付いておらず、山や川に棲む化物たちが跋扈して人間どもを苦しめとった。谷の衆は困り果てたすえ、他国から神様をかどわかしてくることにした。惣助幸助という二人の若者を選び、ひそかに飛騨国に送り込んだわけじゃ。
 若者たちはあちらこちらをさまよい、いくつもの社を訪い、何十人もの神様に目を付けはしたが、これぞという人にはなかなか巡り合えない。ある方は大物すぎて話も持ち出せず、ある方は木曾谷と聞くとおぞけをふるったのよ。
 幾度目の夜だったろ。さして大きくもない社に忍び込んだところ、ちょうど神様たちの集いの日に当たっており、数え切れないほどに社殿にあふれて酒盛りの最中であった。
 そのうちでもいちばん神様らしくなく、目立って笑い声のはなやいだ女神様をねらい、座の乱れにまぎれていきなり小さな御輿にねじ入れてしまったのは、さすがに血気の若者どものことではあったよ。かんぱつ、神輿を担いで逃げ出した。
 騒ぎを聞きつけて飛騨国の衆がはせ参じ、すぐさまに追っ手をかけたが惣助と幸助は木曾へ木曾へ、やみくもに山を越えてしまおうとした。じゃが、荷は重い。国境である峠のてっぺんに達したころ、追っ手と揉みあいになるほどになってしまった。どうする。神輿をいきなり信濃の側に蹴転がしたのよ。
 御輿は女神様もろとも、あちこちに跳ね返りながら深い谷底にむかって落ちていった。
 一息ついてみれば女神様のことが心配になる。乱暴な扱いにいかばかりご立腹のことかと、おそるおそる御輿の扉を開けてみると、青白く顔色を変えているものの、女神様は大変な機嫌で
「ああ、面白う」
 ころころとお笑いになり
「壮助と功助とやら。これからもときどき頼みます」
 こうおっしゃったそうじゃ。
 さて、木曾に精一杯の社を建てて奉ったのじゃが、水無様はだだをこねる。
退屈。飛騨の向こうに帰りとうなった」
 そんなときは、山越えをした折につかった御輿よりもうんと大きなものをあつらえ、これに乗っていただき、手荒くもてなして御機嫌を伺わなければいけないのじゃ。なんの塗りも飾り物もない匂いのきつい白木でな。美しいといえばこのうえはない乗り物じゃろ。

 勇ましければ勇ましいほど、女神はお喜びです。八沢という木曾川の支流のひとつで禊を終えた若者たちが幾十人とむらがり
「惣助! 幸助!」 先輩の名前を掛け声に唱えて、御輿をまくります。ずーんと地面に落とし、まず何回か横に転がす。これを「横まくり」といいます。気合が乗ったところで「縦まくり」を加える。そうすけ!こうすけ! 群集のなかから、太い二本の棒がぐいぐいと頭をもたげてきます。敏捷な若者が上に飛び乗り、巧みに身体のバランスを保ちながら、扇子で煽りあげるように音頭をとる。心棒は二本の電柱さながらにそびえたち、どちらに転がったものかととまどうように見えはじめる。人々がどっと輪を広げる。そこへ御輿が沈んで地響きを立て、二度、三度と跳ねあがり、反り返るように造作された屋根の端や、庇の張りなどが八方に欠け散る。それを拾ってきて屋根に投げ上げておくと、それから一年の火除け厄除けになると信じられているから、また人々は渦をつくって群がり寄ります。
 女神様の頭の上に乗っていた若者は、わずかの呼吸で反対側に飛び降りて、からくも下敷きにならずに済み、白木に石が食い込み、ささくれ、若者たちの血糊が黒々とこびりついたりしてくると、いよいよまくりは白熱してきます。何百キロという重さが縁日の夜店の上に落下し、アセチレンガスの刺激臭ときんきらの売り物、垂れ幕など、なにもかも一緒くたにして吹き上げてしまうこともよくあることでした。 縦まくりをつづけて真夜中に近くなれば、さしも頑丈に作られた御輿も、二本の心棒とこれをつないでいる台座を残すだけになります。女神の乗っておられるはずの屋形はどこかへ消し飛んでしまっているのに、群がる人々にはいよいよ酒が効いてきて、物狂いじみてきます。そうなると、それからのことは人間どもにまかして、女神様はさっさと独り神社に帰ってしまうのです。
 年に一度だけの御機嫌うかがいで、よくこのお方が我慢していられるものだと心配するのは全く無用のことなのだそうです。水無神社の神主にそこのところを質問したことがいつかありましたが、人間の十年は悠久の神様にとっては一日にも相当しないのだということでした。この割合でゆくと、女神様は一日の間に十回を超えて馬鹿騒ぎをしていることになります。まず逃げられる心配はないとしてよいと思います。
 
 元旦の未明、父はおおぜいの子供たちを引き連れて「水無神社」に詣でるのを慣わしにしていました。社殿の板敷のまんなかに自分が坐り、うしろに子どもたちを歳の順にずらりとかしこまらせて、神主に長い御祓いをしてもらったものでした。それに応えて、女神様の前の日輪をかたどった垂れものが揺らぐのではないかと、子どもたちはみんな固唾を呑んで集中していました。そのあいだ、寒さをすっかり忘れていたものです。

 妻を神社まで案内したことはあります。娘も入れて三人で訪れたこともあります。やがて四人で、五人で・・・これは果たされていません。思えば、私は神様と、とりわけ「水無様」とは目に見えて、疎遠になりつつあります。もう手遅れでありましょう。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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