私考ヴァイキング船 運命の舟の興亡

海よ

初めてボートに乗り移った時のことを憶えています。おそるおそるでした。
足のすくみがそのまま伝わってしまうように敏感に揺れるので、すぐに座席にへたり込んでしまったのですが、山奥の小さなダムの水面から見上げる景色は普段とは全く違ったものでした。遠い少年の日の不安と憧れ。そうです。揺さぶられるようだったのを憶えています。

私は山国で育って長く過ごし、大学を終えてから上京しました。汽車がひどく混んでいて、客車と客車の連結部分に立ちどおしだったので、トンネルに入るたびに、まだ熱の残った石炭臭い煙にたっぷりと燻しあげられたものでした。
数か月経っての夏、新人歓迎旅行というのがあって、伊豆の海を見ることができました。夜の宴会で挨拶の順番が回ってきたときに、「私は山国で育ったので、海が懐かしくてなりません」と切り出したところ、座がどっと沸いて、先輩の一人が「それを言うなら・・・海が珍しくてなりませんというのだ!」と大声を上げたものです。
けれど、今でも思うのです。間違っているのは先輩たちなのです。いくら山国で育ったとはいえ、私はすでに知っていました。かつて海は、今よりも圧倒的な主役であった時があり、生命はさまざまに生まれて溢れ、その一部が陸に上がって私たちの祖先になったのです。海を懐かしんではいけないわけがありません。

ある時、溺れそうになった人が、偶然、そこに浮いていた木片にしがみついて助かった、というのが始まりだったのでしょう。人のなした最も重大な発明の一つに、舟があります。
長い時をかけてじりじりと、時に天才的な着想によって飛躍的に進化し、丸木舟という形になったのは1万年ほど前のこととされています。
それからの人の歴史は時々の舟のありようと密接な関係があります。文化が船を作り、舟が文化を造る。この壮大なサイクルは複雑で、どちらが頭でどちらが尻尾なのか、分からなくなってしまうほどです。
私は思います。海を渡りたくて船を作ったのではなく、それだけの船があるから、海に出たいと願えるようになったのです。舟が先なのです。ことの始まりは、溺れそうになった人の目の前に木が待っていたのですから・・・。

物を運搬する効率がずば抜けて良いというのが、舟の一番の凄さです。抜け目のないヒトが放っておくわけがありません。
漕ぎ手1人で5トンの荷物を積んだ舟を進めることができ、帆を使えばさらに多くのものを運ぶことができます。現在、航空機(ジェット貨物機)の運搬効率を1として比較してみると、トラックがおよそ8〜10倍、コンテナ船およそ100倍、石油タンカーおよそ800倍という計算があります。今でも私たちの生活の基盤を支え続けており、うっかりすると命運に係わっているのだと分かっていただけると思います。

ダブルカヌーとヴァイキング船 南太平洋と北大西洋

今からおよそ1000年前といえば、日本では平安時代に相当していて「古今和歌集」「源氏物語」といったふうに比較的穏やかに印象されますが、北大西洋と南太平洋では同じ時期に、大きな海の活動がなされていました。
北のそれは「ヴァイキング時代」と呼ばれる世界史の一時代を画したきらびやかなものであったのに対し、南のそれは「ホティマツア」と伝承されている男が率いた、たった一度の、ポリネシアの島から東方に向った航海でした。
ホティマツアの航海はたった一度でしたが、私の心の中の天秤では北と南の二つは同じ重さなのです。ブログで別に記事にしたように、彼が祖になって残したイースター島の巨石像たちは、絶海の孤島という一点に封じ込められていたにもかかわらず、ものの興廃を超えた何かを見据え続けているように思えるからです。
それぞれの主役であった、ダブルカヌーとヴァイキング船を取り上げてみたいと思います。

ダブルカヌー

5000年ほど前に台湾を経て南に向かい、ポリネシアなどの島々に拡散した種族によって、以前からのカヌーは図のように発展してダブルカヌーとなりました。
幸か不幸か、彼らは鉄器文化を知りませんでした。
木材と木材を繋ぐのに鉄釘ではなく木を使うのは、木は鉄よりも塩水で腐食しにくいので、理に適ったところがあります。けれど、薄く削られた船縁に大きめの穴をあけるのはともかく、たとえば木の棒に細い下穴を穿つのは、石の道具では大変に難しいことになるはずです。尖らした木片をキリのように使って摩擦熱で焼いてゆく、天然の節穴を利用する、木喰い虫を巧妙に使う、幼木を縦に裂いて異物を噛ませ、再び密着させて辛抱強く育てる・・・私には分かりません。
捩った紐(ロープ)を使って縛り付けるより仕方なかったとすれば、図のようになりましょう。

ダブルカヌーは「安定していて積載量も多いけれども、重く、取り回しが難しい」というのが特性となります。
カヌーとカヌーの間に渡してある甲板は、綱で縛り付けたとすれば取り付けに多少のゆるみがあるので、波の形に応じて、全体はかなり大きく歪んだり撓んだりしたはずで、これがさらに安定度を上げることになります。
水面に張り付くように安定しているということは、転覆しても同じようにぺたりと安定してしまうということです。復元することはまず望めません。
方向を変えるために櫂(オール)を使ったと思われますが、前進はもっぱら帆に依りました。

ポリネシアの島々から4200㎞東、イースター島までの大航海。
私たちはそこに目指すべきものがあることを知っていますが、ホティマツアたちは風と潮と星を頼りに、来る日も来る日も、ただ東へ向かいました。島であれ陸であれ、大海の中でそれを見つけるには、どのくらいの近くを通らなければならなかったでしょう。10mを超す大波に押し上げられた頂上からであれば20㎞ほど先が見通せ、静かな海面からは5㎞ほどが見えたはずです。そこまで近づく幸運に恵まれなければ、しかも見通しがきく天候と時刻でなければ、みすみす、その一点を素通りしてしまうことになったのです。

富、交易、あわよくば略奪といった投機的な要素を全く持たない航海でした。移住だけが目的の効率度外視、鈍重な船に託して風まかせ、潮まかせ、成り行きまかせで、帰るつもりもその計画も、まるで無い片道だけの決行でした。こういうのを東洋的というのでしょうか。とすれば、あまりに東洋的です。
そういう遠征をするように、南海の人々を誘ったのが「ダブルカヌー」という武骨な船だったのです。

ヴァイキング船

ダブルカヌーとの対照性が際立つのが、同じ頃に北の海で主役を張った「ヴァイキング船」です。
人の歴史を担ってきた多種多様な船の中から、出色のものをいくつか選ぶとすると、そのうちでも上位に入ると思います。

まず、ヨーロッパの陸と海を示した地図です。一部を加筆しました。
ヴァイキング(フィヨルドの人)と呼ばれた武装船団が、西暦800年〜1050年までの一時期、バルト海、北海、北大西洋、地中海、黒海、カスピ海を制覇した範囲と時期を表しています。ヨーロッパ全土の主な河をさかのぼって内陸にまで足跡を残しているどころか、黄緑で示したところでは定住や移民を図って、多くは成功しています。

この250年間は「ヴァイキング時代」と呼ばれますが、それを担ったヴァイキング船は、海に良し、川に良し、陸に良し、姿からも性能からも、奇跡の舟と呼べそうです。

ヴァイキング船のすごさ

ゲリラ的な強襲に向いた小型でスリムなもの。外洋を越えての兵員輸送や交易のための大型で幅の広いもの。さまざまなタイプが発掘されて復元されていますが、軽く、速く、美しく、安全。これらが見事に共通しております。

舟全体を薄い木の板を張り合わせて作っており、要所に厚いものを使ったり、木の梁を入れたりして補強しています。軽いのです。
大型のものでも1m以下という喫水の浅さから、着岸しやすく、川をさかのぼることもでき、いよいよとなったら舟を空にして、引いてのぼることもありました。船縁が低いだけに人の乗り降りも素早くでき、時には担いで陸上を運ばれました。
船首と船尾が同じ形をしていてどちらにも進めるという特徴は、旋回するという操作を省いてくれます。流氷原で行き詰まったときや、幅の狭まった川を征く場面などには、とりわけ有利でした。アングロサクソン諸王国やフランク王国に「ヴァイキングかペストか」と恐れられたのは、軽いという特性がもたらした、疫病のように何処にでも現れるという捉えどころのなさもあったと言えそうです。

速くて美しく、それでいて嵐にも耐える安定性も備えています。
板を張り合わせて作るので、舟の幅を加減することで、用途に応じて様々なタイプのものを準備することができます。
船首から船尾まで一本に通された頑丈な木の竜骨(キール)が船底をロート状にして水中に食い込ませており、横滑りを防ぎ、全体の強度を上げると同時に安定性を増す役割をしていました。
本来、板張りで笹舟のような構造ですから、波を受けると全体が大きく捻じれたり戻ったりしました。そのしなやかさが安定を保つのに役立ったと思われます。

戦う時にはオールを使って小回りを利かせ、外洋を行くときには帆を選ぶという使い分けができたうえ、外洋での帆走性能そのものに優れていました。復元されたヴァイキング船での実験航海によると平均時速20㎞近くで走行するという性能を示し、これは500年ほど後のコロンブスの3本マストのキャラック船「サンタ・マリア号」を復元した船の1.5倍に当たるということです。
帆の張り方にも工夫があり、「開き走り(風上に向っての走行)」の際に帆の風上側がバタつくのを防ぐための、独特な引き絞り方が考えられていました。

「まさか、こんな所に、こんな時に」という神出鬼没ぶりをほしいままにしましたが、そうした時、美しく反り上がった船首に据えられた龍の彫り物が威圧と恐怖を噴き上げるような効果を上げたはずです。

奇跡の舟は、どのようして生まれ、どのように作られたのでしょう。

ヴァイキング船の発祥

1万年ほど前に氷河期が終わり、地球が暖かくなって陸地が現在とほとんど同じようになると、マンモスやトナカイなどの大型の動物が北方に移動し、それを追って、人類も北上します。
北ヨーロッパでも例外ではなく、北方ゲルマン系とされる人たちがスカンジナビア半島などに定住を始めて、石器を使っての狩猟と採集をするようになりました。

現在のデンマーク、フィンランド、スウェーデン、ポーランドなどで囲まれているバルト海は有数の多島海であり、そこで生活するにはとりわけ舟が有用であったろうと思われます。


北ヨーロッパでも、ギリシャやローマ、インド、中国などと並んで、特有な風土のもとで、独自の舟が発達しました。
古くは、トナカイの角や木の枝などを結び合わせた骨組みに、動物の皮を張り付けたカヤックのようなものであったところ、8000年前ごろから温暖化に伴って森林も北上したことから、木材が手に入り易くなり、次第に革舟から丸木舟に替わってゆきます。

北の海で舟に求められるものは、無数に点在する島々の浅瀬であれ、フィヨルドの切り立った断崖の中腹であれ、何処にも接岸できる取り回しの良さと喫水の浅さ、荒波に耐えられる丈夫さでした。
北欧の自然は温暖化が進んだ現在でさえ、夏も朝夕は涼しく、冬の厳しさを想わせる地景が多いのは周知のとおりです。耕地は狭く、作物や果実も小さめのものが目立ち、それだけ、海に求めるところが多いはずです。狩猟にも、漁労にも、交易にも、舟は生命線でした。


革舟の軽さと丸木舟の頑丈さを組み合わせることで、良いとこ取りができないものかと考えた人が現われます。

これがとんでもない正解だったことを証明することになります。
人々は、丸木舟の船首と船尾とを残して、その間の舷側を木の薄板で置き換えていきます。
下の図のように進化して次第に大型になり、発掘された紀元前300年頃に作られたとする軍船らしきものは、ヴァイキング船の特徴をほぼ備えたものになっています。
薄い木の板を張り合わせて胴体を作り、それだけだとペコペコするので、ところどころに木の肋骨(フレーム)で補強してあります。
胴体の薄板どうしは鎧のように重ねて張り合わせてあり(鎧張り構造)、張り合わさった部分を木釘や鉄釘(リベット)で止めてあります。北欧に鉄の文化が伝播したのは紀元前500年頃だとされていますから、すでに一部で鉄の釘が使われていたというのも肯けます。

時代とともにヴァイキング船は洗練されてゆき、ノルウェーの首都オスロ近郊ゴックスタッドで発掘された船は、ヴァイキング時代(西暦800年〜1050年頃)の初期に作られたものでありながら、その姿も技法も大きさも、ヴァイキング船の最高傑作とされるばかりか、世界船史上もっとも美しい船といわれることがあります。全長23.3m、最大幅5.3m、排水量20.5t。帆を使うことは勿論、櫂を使うこともできました。
復元図に漕ぎ手の様子を入れてみると、20m級の船の大きさの見当を付けることができます。このように、漕ぎ手だけで両弦30人を超え、合わせて100人を超す兵員を運ぶことができるものも珍しくありませんでした。
復元図から算出すると、オールの長さは5.5mほどで腕の太さを優に超えており、それを舷側に開けた穴に通し、1.5mほどのところを支点にして漕いでいます。オールの重さは20㎏近くあったと思われ、場面によっては、アメンボウのように突き出したオールで、転覆を防ぐような操作が必要だったろうと想像するにつけ、それらを操ったヴァイキングたちの体力と気力、持久力の高さが想われてなりません。

ヴァイキング船はどのようにして造られたか

ヴァイキング時代の盛期には、何百隻ものヴァイキング船が作られました。量産に近いような数を、どのようにして能率よく作ったかを図にしてあります。

まず、同じ形をした船首材と船尾材を向かい合わせに置いて、一本の竜骨で繋ぎます。
次いで、薄い板(大型の舟でも2.5㎝ほどの厚さ)を重ねて船の形に張り上げてゆきます。板の端は船首と船尾に打ち付け、板どうしは鎧のように重ねて鉄のリベットで止めます。カーブの強い部分の板は、自然に曲がった素材から削り出したようです。
要所要所に肋財を横に入れて形を整えて補強し、船縁にも頑丈な木を通します。
帆柱を立て、板の間に隙間があればタールや髪や羊毛を詰め、帆とロープで艤装して完成です。

先に、北欧での船の発達の過程を見たように、船首と船尾は前もって、部品として用意されたと思われます。例として、7枚の板を打ち付けるように彫り上げられた出土品の写真を挙げます。
外板7枚用の船首と船尾、外板10枚用の船首と船尾、15枚用の・・・20枚用の・・・、とあらかじめ多くを型として作り置いておけば、どれを選ぶかによって、おおよそ船体の長さや幅が決まってきます。沢山の造船を準備するのに有利だったと思われます。


ヴァイキング船がなしたこと

イングランドと西ヨーロッパへ
西暦793年に北部イングランドの修道院を襲撃蹂躙して略奪したのが、ヴァイキングが名を轟かすに至る最初の事件だったとされています。修道院襲撃は繰り返され、それで、ヴァイキングの攻撃はキリスト教の広がりに対する反撃であるとする説があります。
初期には航海に適さない季節になると故郷に引き上げていたところ、次第に大掛かりに北海沿岸を襲撃するようになり、9世紀半ばからは西ヨーロッパのロワール川やセーヌ川の河口などに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦の基地とするようになりました。これらの越冬地は永続的な定住地となって肥大し、やがては大群を集結して内陸の諸都市を襲撃するようになり、10世紀にはパリを包囲して陥落させたこともあります。この時、北フランスを襲撃しないことを条件にして、ヴァイキングの首領がセーヌ川流域に領土を封じられました。別の流れがイングランドを征服して新しい王朝を築いたこともあります。
このころからヴァイキングは、襲撃略奪集団から一地域の、ついには一国の経営集団に変わってゆくわけです。

南に向って地中海へ
一方、武装船団は沿岸づたいに南に向かい、850年代にはジブラルタル海峡を経て地中海に入り、シチリア島、イタリア半島、フランスの南海岸などを襲撃するようになりました。
にわかに引き上げずに、地中海に長くとどまるようになり、そのころ入り組んでいた南イタリアで次第に勢力を拡大してゆきます。11世紀には南イタリアを統一して、ノルマン王朝(ヴァイキング王朝)を作り上げるまでになります。

東に向かって東欧へ
ヴァイキング時代の初期から、主としてスウェーデン出身のヴァイキングたちはバルト海を経て、北方ドイツ、フィンランド、東スラブ地域に進出しました。
東欧の歴史は複雑ではっきりしないところがあるようですが、多くの民族が入り混じって特有な文化を作り上げ、それにヴァイキングが深くかかわったことには間違いはありません。
リガ湾やフィンランド湾に流れ込む川をさかのぼり、さかのぼれなくなったら舟を陸に挙げて引き、南に向かい、それらを繰り返してなかなかの苦労はあったものの、ドニエプル川の上流に達して、ついには黒海を経てコンスタンチノープル(イスタンブール)に至るというとんでもない交易路を開発して、それを支配しました。バルト海と地中海を陸路で結んだのです。東ローマ帝国の都コンスタンチノープルに姿を見せたのは西暦839年という初期のことでした。

西に向かって新大陸へ
北大西洋を西に向かったのは、地形の関係もあるのでしょうが、もっぱらノルウェーからのヴァイキングたちでした。
9世紀にフェロー諸島、次いでアイスランドを発見します。10世紀にアイスランドを、それから間もなく北アメリカ大陸に達しました。
ちなみに、ノルウェーとイングランドとの中間ほどにあるシェトランド諸島までの距離は290kmほどであり、これは東京・名古屋間ほどに相当します。しかも、シェトランド諸島と言われるだけに島々が広がっていますから到達し易いわけです。
そのシェトランド諸島を足掛かりに探検すると、およそ300㎞先にフェロー諸島があり、その先およそ400㎞のところ(東京・大阪間相当)にアイスランドがあります。
アイスランドの北からおよそ300㎞のところにグリーンランドがあり、そのグリーンランドの南端からアメリカ大陸のニューファウンドランドまでは直線距離で1000㎞ほど離れています。探索者たちが入江やフィヨルドを一つ一つ見極めながら先へ進むとすると、まだるこしいにしても沿岸づたいの航海となり、先々の不安や恐怖は軽減されたはずです。このようにして、ヴァイキングがカナダのニューファウンドランドに達したのは西暦1000年のことでした。
できるだけ沿岸にそって、じわじわと、未知の世界を切り開いていった様子がうかがえます。冒険はしますが、それはあらかじめ勝算あってのことで、片道特攻のようなことはしない、というのが北欧の人の特性の一つであるかもしれません。

9世紀の終わりに「アイスランド」が発見されると、北極圏にたたずむ寒々とした光景にふさわしく「氷の島」と命名されて、本国ノルウェーからの入植が始まりました。それからおよそ100年を経た10世紀の終わりに、さらに北方の「グリーンランド」を発見するのですが、発見者のヴァイキングはその時「入植地として人気がないアイスランドの二の舞をしてはなるまい」と考え、目の前の荒涼とした広がりとは真逆に「緑の島」と名付けたのだそうです。
「北の果てでなあ、やるもんだなあ」と笑えてきそうなのですが、余裕とか、計算高いとかのエピソードではなく、グリーンランドとニューファウンドランドへの入植は困難を極め、食糧事情や先住民との関係に問題を抱え、ヴァイキングがその意気を失うにつれて本国との連絡も先細り、15世紀半ばには植民地活動は終焉しました。グリーンランドは世界史の上から一時姿を消すことになります。

奇跡の舟と共に ヴァイキングの退場

ヴァイキングが一時代を画して世を揺るがせた範囲を見直してみると、あらためてその広大さを思わされます。
かつての「ローマ帝国」最盛期の版図をはるかに超え、地中海とその沿岸地域についてはほぼ一致するものの、それから北方へ、東方へ、西方へ、海で言えば、地中海、黒海、カスピ海、バルト海、北海、北大西洋を繋いでしまっています。

けれど、「すべての道はローマに通ずる」と言われたように、ローマ帝国が陸の広がりを統治するのを基本にしたのに対して、ヴァイキングたちは「すべての海はバルト海に通ずる」と、点と線と海とで世界を制覇しようとしました。
「トール神のように勇敢に戦えば、ヴァルハラ神殿にまつられる」と信じる屈強な武装集団と、それを何処にでも運べる高速な船。襲撃と略奪・・・。ヴァイキング時代というのは、点と線に強かった人と船の物語だともいえそうです。

さらに多くを略奪しようとして拠点に定住を図り、集団の員数が大きくなればなるほど、非戦闘時の普通の生活を送る時間が増え、略奪よりも交易に重点が移ってゆくのは当たり前のことです。
ヴァイキングは次第に略奪集団から経営集団に変わり、その経営の大きさも点から面へと大きくなってゆきますが、その地の多くは既にキリスト教文化が染み通ったところでした。経営の効率を考えれば、トール神やヴァルハラ神殿を離れて、キリスト教に乗り換えるというのが自然な流れでした。
このようにしてヴァイキングの首領は、かつて自分たちが撹乱した異郷の貴族とも王ともなる例が生じたのですが、ヴァイキング船によって集められた富と力とが、皮肉なことに、ブーメランのように作用して、ヴァイキングとその船を不要なものにしていってしまうという図式を描くようになってゆきます。

ヴァイキングの母国も大きく動揺します。同胞が異国で王や貴族となってキリスト教に改宗するということは、それだけ母国へのキリスト教の浸透を加速します。現に、トール神やヴァルハラ神殿を戴くことは邪教とされて、仮借ない弾圧を受けるようになりました。その頃から北欧は長い内乱の時代を迎えますが、その底には宗教の混乱があるとすると理解しやすいようです。つまりヴァイキングの心は死んでゆくのです。

コグ船の出現

かつてヴァイキング(ノルマン人)が先鞭をつけた東欧への進出が発展して植民といった規模にまで大きくなり、バルト海沿岸には物流を支えるいくつかの拠点が生まれ、経済効率を第一とする都市群として発展してゆきます。
利害関係が共通しているだけに都市群はまとまり、周辺の領主国家からの介入や支配を逃れるために、手を携えて守り合おうとしました。点状に散らばっている都市群を、バルト海という面で繋ぎ合おうという発想でした。最盛期にはリューベックやハンブルグやブレーメンなど100以上の都市が連携したという「ハンザ同盟」の芽生えでした。

ハンザ同盟を支えたのが「コグ船」でした。
もともと、現在のドイツやオランダあたりに相当するゲルマン人居住区には、
大きな川や近海で使うために、平底でずんぐりした船がありました。その起源はローマがこの地を支配していた時代にさかのぼるとされ、昔の地中海の商船のように直線的なシルエットをしていました。
これがバルト海南岸でヴァイキング船と混血し、外海でも使える帆走商船となり、「コグ船」と呼ばれるものに成長しつつあったのです。
ヴァイキング船にならって外板を重ね張り(鎧張り)にし、これを頑丈に高く張り上げ、甲板を付け、その一部に船楼(甲板の上の構造物)を取り付けました。ヴァイキング船とは違って平底ですが、喫水を深くし、胴を大きく膨らませて安定性と積載量を増し、一本マストに帆一枚を装備して開き走り(風上への走行)が出来るようにしてありました。舵を船尾の中央に取り付けるというのも、ヨーロッパではそれまで見られないものでした。
やがて甲板に大砲を設置したタイプが現れ、あるいは十字軍を乗せて地中海に向かう船団が組まれるというふうに、その安定性が高く信頼されたことが分かります。

コグ船の一日の航海距離は60〜80㎞と限られていたために、この距離に合わせてハンザ同盟の一部の都市は築かれました。穀物、木材、毛皮、日常品など、バルト海沿岸を中心にして取引される物流はヨーロッパの浮沈を占うほどに大きなものとなり、物流を円滑に支えることがハンザ都市群にとっては共通の生命線となりました。安定と堅実に徹したコグ船こそが頼られるものでした。少人数で運用できることも、流通コスト面から歓迎されました。初めに舟ありき・・・ここでもそのようでした。

上から見ると、ヴァイキング船はササの葉のように、コグ船はサクラの葉のように見えます。
奇跡のヴァイキング船は北ヨーロッパを辺境から引き出して輝かせ、点と線を引き終わりました。次世代の面を担う役割をコグ船に引き渡し、歴史の舞台から退場してゆきました。

ヴァイキング船を想う

1000年ほど前に北の海で繰り広げられたヴァイキング船の活動と、同じころ南の海でなされたイースター島への移民航海と。
ざっくり受ける印象はほとんど正反対です。前者からは、集団、戦術戦略、ダイナミック、富の追求、略奪、投機、発展、といった言葉がずらずらと思い浮かばれ、後者からは、個、静、求道、なるがまま、限定、といったところが思われます。そして非常な勇気に支えられた冒険であったことが共通しています。
私は、こうした違いは、その時彼らに与えられた船に依るのだろうと考えていました。行動を乗せて運んだのは船だからです。

ダブルカヌーは、素朴で武骨であり、比較的技巧を要さずに作ることができそうです。それだけに重く、安定度は高いけれども機敏性に不足するところがあって、集団行動や戦闘には向いているとは思えません。
個の冒険に使うとしたら・・・一発勝負。かつてホティマツアがしたような、はじめから帰るつもりのない、神秘なまでの大航海。
神秘は巨石文化となって伝承されて拡大し、今になって私たちに、南太平洋の一点から何ものかを語り掛け続けています。

一方のヴァイキング船は、あくまで優美、流麗、軽快、そして華奢です。
北欧の博物館で、出土したヴァイキング船を見たとき、その外板がわずか2㎝ほどしかないのに驚き、それまでにフィヨルドに係留されていた復元船からの印象もあって、「このようなもので本当に外洋に出られたのか。ヴァイキングの海賊神話というのは嘘ではないか」と疑ったものでした。
同じコーナーに用意されていた、ヴァイキングたちが愛用したという鎖帷子(クサリカタビラ)を苦労して頭からかぶり(ザラザラと重くて手を焼いていると、フランスから来たという若いカップルが手を貸してくれたのですが)、鼻までも覆ってしまうヘルメットを被り、左手に大きな盾を持ちました。仕上げに右手に長剣を握ろうとしたのですが、長剣は見付かりませんでした(極東から妙なおじいさんが来て悪戯でもされたら困る、と博物館が隠してしまったのでしょう)。
やはり、「鎖を着た兵士たちを満載して、この船が荒海を征けるわけがない」と思いました。持ち帰ったという沢山の黄金の細工物を見てさえも、半信半疑でした。
振り返ると其処には、ほっそりとやさしく、ヴァイキング船の舳先が立ち上がっていました。


ところがいうか、やはりというか。

ヴァイキング船というものが生み出されて数多く造られ、やがて消えていったいきさつを少し知っただけでも、薄く張り合わされた木の船体はたっぷりすぎるほどに血を吸っていることが分かってきます。私たちの国の日本刀はしばしば、吸い込まれるほどに美しいのですが、その来歴を知ると、生臭さがにおい立ってくるのと似ていると思います。

北欧には古くから土着の多神信仰があり、神々は時に峻烈であったりユーモラスであったり、それぞれに個性的です。わけても武神トールに見守られて勇敢に戦えば、死後はヴァルハラ宮殿に迎えられるという尚武の気風があり、勇敢な戦士に高い価値を置く文化がありました。
9世紀ごろになると、南からのキリスト教の圧迫が本格化し、交易についても不平等な条件を押し付けられるようになります。キリスト教は一神教であるだけに排他性が強く、統合的であり、異教との共存を許さないところがあります。3世紀から始まったというヨーロッパを北に向かう布教は、先ず王を改宗させ、王が支配している人々を従わせるというパターンが目立ちます。国々の王にとっては、面として広い範囲を統合できるというところが、荘厳な儀式や象徴性と相まって、魅力であったろうと思われます。

北欧の人々は反撃します。奇跡のように使いまわしの良い船を得て、神出鬼没にキリスト教の地への襲撃と略奪などを展開し、大きな効果を上げるようになります。その大きさには、自分たちが驚いたことだろうと思われます。ヴァイキング時代の幕開けでした。
ヒトが宗教がらみでぶつかり合うと、そこには信じられないような惨禍が生み出されるのは、歴史が教えている通りです。互いに邪教呼ばわりをして、報復に報復を重ね合うという循環におちいると、「天国にはいろいろがあるけれども地獄は一つ」ということになってしまうのだろうと思います。ヴァイキングも当時のヨーロッパ諸王国も、すさまじいことを為し合っています。
ヴァイキングはキリスト教の地に拠点を築いて定住化し、さらに大規模な襲撃を準備するために、それらを線で結んで安定を図りました。
ところが、大きな流れとして、点と線の間を塗りつぶして定住化の範囲を広げて安定と統合を得ること、これはまさにキリスト教の考え方でした。ヴァイキングの首領たちは侵入した地で王や貴族になったこともあるのですが、キリスト教からすれば、邪教という異物を真珠貝のするように飲み込んで、きれいな玉に変えてしまったのです。このあたりがキリスト教の凄さなのでしょう。

このようにしてヴァイキングは存在する基盤を失い、歴史の舞台から姿を消してゆきます。ヴァイキング船も、次を担う船に役割をゆずって、血塗られたまま朽ちてゆきました。部族の長の遺骸を乗せて埋葬されたものだけが、たまたま出土して、私たちの目の前に流麗な姿を現すだけです。

ヴァイキング船とダブルカヌーとは、まるで反対の特性を具えているがゆえに、一方は軽快に、一方は沈鬱に、それぞれに海を渡ったのでしょうか・・・。人の心の計り知れなさを運んだということでは、同じなのでしょうか。
分からなくなりました。そもそも、それぞれに何を運ぼうとしたのでしょう。
イースター島を訪ねて、巨大石像モアイに訊ねてみたいものです。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

「私考ヴァイキング船 運命の舟の興亡」への3件のフィードバック

  1. ロウボウ先生
    暑中お見舞い申し上げます。
    ますます地球の気温は上昇していますね。いかがお過ごしでしょうか。

    壮大な海への冒険に挑んだ先人達に思いを馳せるとき、日頃の悩みがいかに小さいものかに気づかされます。
    今回もまるで物語のようなロマンに満ちた投稿をありがとうございます。船についてあまり考えたことがなかったので、大変興味深く拝読しました。
    丸木船からダブルカヌー、ヴァイキング船、コグ船と人びとの行動を乗せて海原に漕ぎ出したのですね。船の図も大変わかりやすくおもしろかったです。
    先生は実際に北欧の博物館でヴァイキング船をご覧になったのですね。私も自分の目で見てみたくなりました。
    先生が鎖帷子を身につけたところは、想像してクスリと、、、。
    失礼。
    どの時代にも優秀な頭脳を持った人間がいて、常に工夫しながら生きてきたことにより、現在の私たちの便利な世の中へと続いてきたのですね。
    アイスランドとグリーンランドの記述も興味深かったです。
    膨大な資料をお読みになり、書き上げた投稿ですね。素晴らしいです!!ありがとうございます。
    まだ暑さは続きますね。
    どうぞご自愛くださいね。
    先生がアップなさった鳥さん達のyou tubeも発見いたしましたよ。
    とても近くに感じられ、長い時間の撮影に驚きました。

    1. 楽しく読んでいただいて、ありがとうございます。
      ヴァイキングや彼らの船のことを考えると、北欧の国々がどんどん気になってきます。
      日本に似ているようで、正反対のようで、やはり似ているようで・・・。
      ゆっくりまとめてみようと思います。
      そちらは、雨が続いているのでは。蒸し暑いのは一番応えます。
      お元気でお過ごしください。

  2. ロウボウ先生
    こんばんは。
    ただならぬ本州の暑さのニュースを見て驚いています。
    微熱以上の暑さ、、、どうぞくれぐれもお身体に気をつけてお過ごし下さいね。
    北欧の国々には私も興味深々です。
    ムーミンを産んだ国も北欧、幸せ度が高い訳は?などなど。
    次回の投稿も、とても楽しみにしております。
    返信ありがとうございます。

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