追憶 下駄スケート・国道ボブスレー

スケートといえばスケート靴。金属の刃(ブレード)が丈夫な革靴に取り付けられているというのが当たり前、というよりも、今はそれしかありません。
が、明治時代の末に信州の諏訪湖で「下駄スケート」というものが発明され、長いあいだ山国の子供たちの冬の遊びのアイテムでした。私もお世話になった一人です。
図のように下駄の歯を払って、村や町の鍛冶屋が打った刃をネジ止めしたもの。
鼻緒に足を入れただけでは不安定なので、足首と下駄とを紐を回して固定しました。これが難しかったのです。昔の草鞋掛(わらじがけ)の要領ですが、きつく締めあげすぎると痛い上に血の巡りが悪くなり、ゆるすぎるとぐらぐらして立つのもおぼつかない。案配には慣れが必要でした。年下の子供たちの紐の調子に気を付けてみてやるのが、スケート遊びをする者の慣わしになっておりました。

その頃の気候

そのころは今よりも寒かったのです。終戦をまたいで数年間のことで、信州信濃の木曾谷ばかりの現象ではなかったはずです。

山にも谷にも森にも林にも、たっぷり雪が降って長く残り、坂を乗り継ぎ乗り継ぎ、家の真ん前までソリで帰って来られたほどでした。草刈り場などの広いところさえあれば、そこでスキー遊びができました。「竹スキー」などというものを私たちは使いました。

田んぼもダムも凍りましたから、親切なお百姓さんが水を張ったままにしてくれている田んぼで下駄スケート遊びができました。
ダムに張り詰めた氷は一様に見えますが、沢が流れ込むところと発電用の取水口の周辺は水の動きがあるために、ぺらぺらに薄いのです。沢の流入口付近で氷を踏み抜いて水に沈んだら、氷の下に押し込まれてしまいます。そんな氷の上で子供たちは遊びました。
「落ちたら、明るい方ではなく、暗く見える方に行け」と教えられたことがあります。その時は「反対ではないの」と思いましたが、今になっては「なるほど、そうかもしれない」とうなづけそうです。氷の天井を下から見上げたら日の光が乱反射して白っぽく明るく見え、氷の蓋の無いところは光がそのまま透りますから、むしろ暗く抜けて見えるかもしれません。ただ、パニックも極まった状態でそんなことを見極められるものかどうか・・・氷の下から生還したヒトに会ったことがありませんから確かなことは分かりません。
一方の、取水口に吸い込まれたら発電用の巨大なスクリューに巻き込まれて挽肉にされてしまいます。
そしたわけでとりあえず、ダムの氷の上で遊ぶのは禁止されてはいました。

谷の底を流れる木曽川に沿う国道19号線も、雪が轍に踏み固められて氷河上になって伸び、春になるまで土が現われませんでした。

空を撃つ兄

私と三つ違いの兄は、たとえば生の大豆を噛んで「おいしい」と言うように、少し変わったところがありました。小さな空気銃を使える順番が上の方から自分のところに降りてきたときに、この兄は小鳥などを狙わずに空に向かって弾丸を飛ばしていて、そのうちに「弾が見えるようになった」と言い出しました。発射後の瞬間、すっと黒い線が空に伸びて消えるのだそうです。私を呼びつけておいて「見てろ」と空を射ちます。「何も」と私が首を振ります。何回か同じことを繰り返えしてから「筒先ばっかりじゃだめだ、もっと遠くを見ろ、遠くを!」と兄はじれったがったものです。思えば、遠くを見なければいけないとは、それからの私に当てはまる怖ろしい警告でした。

兄と下駄スケート・国道ボブスレー

この兄が考え付いたのが、いま名付ければ「下駄スケート・ボブスレー」でした。1対の下駄スケートの鼻緒に板を渡して1セットとし、いくつかのセットを縦の板でつないでムカデ状にします。図のようです。
これを国道の坂の上で組み立てて何人かがうつぶせになって乗り、先頭の者が両手を板に懸けて操縦します。
降り積もった雪がタイヤに踏み固められて氷のくぼみとなり、ボブスレーのコースさながらにどこまでも続いています。
子供たちは猛スピードで滑走しました。カーブではしばしば、轍のコースから外側に振り出されて全員が転がりました。
その頃は夕方になると車の運行はほとんど途絶えましたが、トラックなりがやって来るのを見付けると、パイロットが大声を上げ、いっせいに横に跳ね上がって逃げました。幾度かあやういことがありましたが、車の下敷きになってしまった子供はありません。私の知っている限りは・・・。
別の事故はありました。東京から木曾に疎開できていた小さな女の子が、よちよちと道路に出て来ていたのを、引っ掛けてしまったのです。舞い上がるように女の子は吹き飛びました。氷で頭を強打して、しばらく泣き声も出ませんでしたが、ぎりぎり無事だったのです。お母さんから東京弁でこっぴどく叱られたので、3日ばかりは下駄スケート・ボブスレーを中止していたと思います。

兄が長じて本物のボブスレーの選手になったとしたら、それは格好よかったのでしょうが、なりませんでした。私は・・・なれませんでした。

少しずつ、けれど着実に、気候は暖かくなっていって、ダムも田んぼも凍らなくなり、国道も氷でカバーされることがなくなりました。
下駄スケートも、下駄スケート・ボブスレーも、先細りに姿を消してゆきました。夢の中でときどき生き返るだけです。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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