追憶 木曽川本流の水泳大会

プールがない頃

私が子どもだったころには、小学校にも中学校にも、プールというものはありませんでした。私は木曾谷で育ちましたが、学校にプールが無いというのは山国だからというわけではなく、全国どこでも同じような具合だったろうと思います。
敗戦後、この国の人々は必死に復興に取り組み、朝鮮戦争という特需もあって高度経済成長の波に乗ることができましたが、三種の神器といわれた白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫に手が届きそうになったのは昭和30年(1955)を過ぎてからのことです。そしてその頃は未だ、ケイタイやパソコンは存在もしませんでした。
やがて、新・三種の神器と言われた3C(カラーテレビ・クーラー・カ―)が出回ったあたりから、学校にプールが整備されるようになったのだと思います。

川での水泳

プールが無かったころ、子供たちは川で水泳をしました。木曾川の本流です。
淀みを選んだとはいえ流れはあります。向こう岸に渡ろうと思ったら、あらかじめ、泳ぎ着いて掴まれそうな岩の見当をつけておき、流れの速さを見計らってこちら側の上流から泳ぎ出さなければなりませんでした。西部劇によくあるシーンですが、ウシの群を渡河させると斜めになるのと同じです。
水温は真夏でも18度に届くかどうかという冷たさでしたから、川を2往復ほどすると体が冷えて、誰の唇も桑の実のように紫色になりました。

暖かい岩の心地よさ

日光に温められている岩に抱き着くように身体を押し付けると、大きな湯たんぽにじっくりと温められるように、極楽さながらの気分になりました。岩が冷えていては台無しです。それで子供たちは声を合わせて次のような歌を歌いました。

  おてんとさま おてんとさま
  おみやげあげるで お湯おくれ
  山ばっか照って 川ばっか照らん
  川の神様 泣いている

溺れそうになった水泳選手

私が中学性の時、2年と3年の夏、木曾川が淀んだところで水泳大会が開かれました。
淀みには木片を等間隔に括りつけられた何本かのロープを張り、プールのような雰囲気を出そうとしておりました。けれど、ロープの端はターンをするための壁ではなく、流れにやりっぱなしになっていました。本当に飾りだったのです。
淀みを溢れると川の流れは瀬に移って広がり、ごろごろした石の間をしぶきを上げながら走るようになります。ヒトが淀みから瀬に流されると石につかまって留まるのは難しく、ゴトゴトと運ばれてしまうことになります。

中学3年の夏、私は選手として参加しました。何がどういうふうに競技なのか分からないままであったのが、そもそも気合が抜けていたところだったでしょう。
泳ぎ終わったときに油断してしまい、瀬の方に流され、あわてて近くの岩に掴まろうとしたら、うっすらと張っていた水苔のために手が滑って、水をガブリ。水の中で激しく咳き込んでパニック状態。
どうやら自力で岸へ戻ったのですが、その日から長いあいだ「水に溺れそうになった水泳選手」ということで私は有名でした。

プールというもの

私は年を重ね、海で泳ぐようになり、合い間にスキューバダイビングを習うこともしました。が、だんだんと仕事に押されるようになって何時からともなく水から遠ざかるようになりました。
今から15年ばかり前の初夏、沖縄の海へ家族旅行をすることになり、久しぶりの手慣らしのために或るスポーツクラブのプールを訪ねました。
びっくりでした。水はむせかえるほどに塩素臭く、濁っており、プールの縁にへばりつくように集まったゴミを係員が掬って歩いているありさまでした。
スポーツどころか身体をこわしてしまうと、そうそうに帰ってきました。一昔前の話です。今のスポーツクラブのプールの様子を知りたいところです。

一時期、軒並みに整備された学校プールがあまり使われなくなっているようで、藻のために水が緑色によどんだまま防火用水になっているのをよく見かけます。
教職員が事故を怖れ、保護者会などのチェックが入り、水道代金が高額、そもそも児童が少なくなっている、などからの流れでありましょう。
その少なくなった子供たちも、テレビ、スマホ、ゲームなどに時間を使うようになって内向きになり、外で身体を動かすことを好まなくなっているようです。子供ばかりではありません。「日本人はさらに歩かなくなっている」という警告的な調査研究があります。市民プールが一つ二つあれば、夏休みでも間に合うようになっているのだと思います。
苦労して学校プールは整備され、そして使われなくなりました。なんという速さでしょう。

なつかしい木曾川の上流

真夏に最高に水温が上がっても19℃に達するかどうか。唇が紫色になっているのを仲間に教えられて震えだし、あわてて水から上がるありさま。あとはおてんとうさま頼り。
上流の水のように透明だった少年と少女たちでした。

  木曾川の水 昼夜をわけず
  なべて これ世に流れゆくもの
   ・・・・・・・・・・・・
無くなってしまった木曾の女子高等学校の校歌の一節がこのようだったと思います。
諸行無常のことわりだけは変わりません。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

「追憶 木曽川本流の水泳大会」への2件のフィードバック

  1. ロウボウ先生
    秋が深まってきましたね。
    だんだん寒くなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。
    先生のおっしゃる通りに北海道の家の中は日本中で一番贅沢に温められているように思います^^;
    小さい頃から暖かくした部屋が当たり前でしたから、気温を下げて厚着するという感覚が道民のほとんどにありません。
    改めたほうが良い習慣ですね!
    先生が昨年の今頃書かれた記事を拝読しました。
    川遊びの思い出、、私が育った地方では川で遊ぶという事がなく、
    生き生きと川で思う存分に遊んでいる様子が羨ましいと感じました。
    諸行無常。
    「木曽川の水 昼夜を分けず
    なべて これ世に流れゆくもの。」ありがとうございます。
    今の私に響きます。
    どうぞお身体に気をつけてお過ごしくださいね

    1. いつもありがとうございます。
      東京も冬に向っています。
      昨日は生姜を収穫しました。後にエンドウとホウレンソウを蒔きます。
      共に、小さいままで冬を越して、じっくりと冬の味を溜めて、春までにそれは美味しく育つのです。
      北から南まで、この列島が無事に季節を刻むことができますように・・・。
      ご健勝を祈ります。

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