神戸連続児童殺傷事件 Ⅱ 「登頂寸前からの滑落」

 当該青年の半生の軌跡の概略をたどって図にまとめてみたい。カルテに依らなくても辿ることのできる経過であるが、不運と悲しみにも彩られたものであると筆者には印象される。
 中央に縦に太い点線を引き下ろし、これを時間の経過とし、彼の0歳から33歳までの目盛りを付ける。

 点線の左右を彼が生活してきた場とする。左側半分は「通常の世界」。右側半分を「異常な世界(彼はしばしば黒い羊の世界、あるいは異端・以外の世界と呼ぶ)」とする。左右のどちら側にどれほど踏み込んで辿ったかという曲線の位置は、数値などで割り出したものではなく、筆者の主観によるものである。

 彼の半生にはまで、大きな出会いないし出来事が9つある。彼の場合その度に、向かう方向が劇的に屈折しているのが特徴である。
 最初の出来事は、自分との出会いである。46億年というこの惑星の歴史の最先端に置かれた唯一無二の在り方との出会いであった。あらためて後の章で述べるが、彼はある程度の「発達障害」を担って生きることを始めなければならなかった。これ自体は必ずしも不幸なこととは言い切れない。発達障害を克服してというよりも、むしろそれを力にして、見事な軌跡を描いて見せてくれる人は沢山いるのである。
 次の出会いは0歳時の母親とのそれで、一口に言えば、母とのミスマッチングな乳幼児期を過ごすことで人とのかかわり方の基本が歪み、「愛着の問題」が生来の資質を下地にして発生し、不幸なことにそれからの生育の位置が右側にシフトした。
 出来事は、小学5年時の春。性に目覚めたが、同時に自分の性の異常に気付くことになった運命的なエピソードである。生き物に苦痛を与えることで性的な快感を覚える自分を発見してしまう。苦痛を与える対象はナメクジから猫にと急速に拡大したが、基本的に誰にも相談することができず、苦し紛れにいくつものSOSを発信したけれども母親にすら気付いてもらえなかった。安心できる居場所はなく、常に孤独で、自分の部屋を巣にして不健康な空想や妄念を膨らませることでバランスを保とうとしていた。外では荒れ、他人に突っかかったり規範を破ることがエスカレートし、「行為障害」とされる状態にまで発展した。
 出来事が本件非行である。精神鑑定書の表現では、「…長期にわたり多種多様にしてかつ漸増的に重篤化する非行歴の連続線上にあって、その極限的到達点を構成するものである」と格調高い。いろいろなことが重なり合って緊張を高め、ついに暴発したということであろう。
 そして出会い。少年は医療少年院に送致される。「さっさと吊るしてくれろ」という絶望となげやりの頂点で、一人の女性医師と巡り合うことになった。この出会いこそが本件の流れの中で、核心的な幸運であったと筆者は今も思う。ほどなく少年は、「心の母」をこの女性医師の中に見い出し、「人はその信じるものからのみ学ぶ」という公式が輪転し始め、信頼し合う関係は、他の職員とのあり方にゆっくりと伝播してゆくことになる。
 女医との出会いに続く点で、もう一つの大きな出会いが待っていた。直情多感な寮担任教官の1人で、この男性教官のことをやがて少年は「心の父」と呼ぶようになる。
 「心の父と母」によって小さいながらも「安全基地」が設定され、それからのあらゆる活動や働きかけの根底の安全弁として機能することになった。やがて贖罪教育に取りかかるために教官たちが重い課題をクリアすることを求めた時も、他少年との軋轢が高まった時も、少年が持ちこたえることができたのは、バックアップとして「安全基地」が有ったからである。
 少年は紆余曲折を経ながらも成長と改善を示し、外部の複数の医師などの診察でも同様の所見を得、★印の箇所でついに通常の世界に踏み入れ、2004年12月に社会復帰した。出来事である。そしてその後およそ10年間、新聞でもしばしば伝えられたとおり、忠実に贖罪を実行し続けた。

 しかし全土を覆って、行方や消息を追跡され続ける身であった。彼は少年の一時期に捨て去ろうとした「生きる」ということを、強く求めるように変わっていた。それが充分に強くなければ、「逃亡者」を地で行くような、この10年間を続けられたわけがなかった。
 行き詰まると、紙細工やコラージュなどに没頭することでやり過ごしてきたと手記にはあるが、ついに「文章を書いて表現する」ことが特有のトランス状態をもたらすことに気が付いたと思われる。深く執着することは彼の基本的な特性の一つである。

 そうした模索の一時期に、ある出版社社長の著作や言動と出会うことになった。これも運命的な出会いで、の時点に当たる。この社長は、「文芸や表現は異端者のものである」「・・・殺人者であろうと性的異常者であろうと・・・俺を感動させてくれれば・・・体を張って守ってやろうと思う」というような発言をすることで有名な人である。
 とまれ、この出会いは疲弊気味であったこの時期の「元少年A」をズバリと射貫き、大きく昂らせ、「・・・自分が世間が今も追跡をやめない化け物であり続けているとするのならば、殺人というようなやり方でなくても世を貫くことができるのだ・・・」といったような屈折と退行をもたらしてしまったものと思われる。
 本人と出版スタッフとの関係は深まり、手記出版の準備は進んだ。ある時期、「・・・関係者を悲しませたくないから出版を断念します・・・」というような申し出がなされ、あやうく判断を取り戻した時期があったものの、きわどいタイミングで、被害者側に無断のまま、匿名の「絶歌」は世に送り出された。ちょうどそのころ、被害者遺族達は青年が続けてきた贖罪行為に誠意を認め始めており、このあたりで修復のために次の一歩を踏み出そうかと考えていた微妙な時期にあったから、無断での手記出版はそうした人々にとっては闇討ちのような裏切りであった。この暴挙は誰にとっても「登頂寸前からの滑落」としか言いようがない。これが出来事で、からに至る途中の★点で、彼は再び「黒い羊の世界」に踏み戻ってしまった。

 興味深いことがある。を結んだ線上を、彼はぐんぐんと「異常な世界」に踏み進んでしまったかというと、そうでもなさそうである。手記の出版直後の世間からの厳しい批判に対して、あまり守ってもくれなかったと思える件の出版社社長を裏切り者として袂を分かち、自分なりに方向を修正したように見える。
 どこへ向かおうとしているのであろう。彼のブログの一文に、「佐川一政様」というのがある。言うまでもなく、佐川一政というのは「パリ人肉事件」に責任のある人である。ブログによると、元少年Aは佐川氏をこれまでマスコミ受けを狙う「ピエロ野郎」と軽蔑していたが、自分の手記出版をきっかけに評価が一転している。「・・・今頃になってようやく、あなたが抱え込んだ孤独や苦悩の深さに思い至りました・・・僕も最近、自分を表現すること、切り刻んでさらけ出すことの苦悶と快楽を憶えはじめたところです。・・・過酷な宿命の激流に翻弄されながら、ぼろぼろに朽ちた精神の筏にしがみつき、今日まで生き抜いてくださったあなたに、心からの敬意と感謝をこめて。『生きていてくれてありがとう』ございます。以外の後輩より」とある。
 佐川一政氏を範として、「以外」としての後半生を構成したいのであろうか。「生きる」ということに強く執着するところが二人に共通している。

 青年の手記「絶歌」は、前半と後半との間を削ぎ落としたように、関東医療少年院での体験についての記述がぽっかりと空白である。どういうことであろう。
彼の手記にある。「・・・こんな思いをするくらいなら少年院から出なければよかったと本気で思った。少年院での生活は・・・自由はないが、かろうじて自分が自分で居られる環境ではあった・・・」。
 施設の中には自由はないのか。社会には無制限の自由があるのか。このあたりにも、私たちの至らなさがあるであろう。社会に返すにあたっては、さらに深い想定のうえで処遇が詰められるべきであった。しかし結果として、恩と怨とが混じり合ったものだったとはいえ、「・・・かろうじて自分が自分で居られるような環境・・・」というものは、彼の半生のうちで医療少年院の中にしか無かったのである。

ロウボウ

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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