同じカテゴリーのⅪ-Ⅰ少年犯罪の俯瞰[戦後編]で、経済成長率と関連付けて、「少年犯罪は社会の動きが激しい時に増加する」とした。戦後の少年犯罪は3つの波を経たが、「バブル景気」の頃に迎えた「第3の波」は、犯罪検挙数からいうと戦後最大であったものの「学校型非行」と特徴づけられたように、内容的には「万引き」と「放置自転車の乗り逃げ」が80%近くを占めていたものであり、それからというもの「バブル崩壊」後の「失われた20年」という社会の沈滞をなぞるようにして、少年犯罪は減少の一途をたどっている。けれども、戦後どの時期においても、時々の非行群の特徴とされたものからは突出した異質の犯罪が散発していることについても要約した。
1 戦前の社会の特徴
先ずは、戦前の経済活動というものはどのようであったかをいくらかでも知ろうとした。太平洋戦争の開戦時に、日本のGNPは米国の10分の1ほどであったということはおぼろげに承知していたが、大日本帝国の経済成長率というものはどのように推移していたのかを気にしたことはなかった。「社会実情データ図録(4430)」に簡明に示されており、元の資料は総務省統計局からのものとするデータ図表を見て、一驚した。戦前のこの国の経済活動というものは、高低のジグザグが非常に大きくて激しく、マイナス成長の年次も異様に多いのである。
図録を引用させてもらって、それに主な出来事を書き加えて見たのが下の図である。 戦争と大陸への拡大指向、大震災、恐慌、軍の独断専行といった大きな出来事で埋めつくされている。
1931(S6)年の「満州事変」は関東軍の独走で始まり、翌1932(S7)年の「5・15事件」は海軍の青年将校の反乱で、「問答無用」と時の首相犬養毅を射殺してしまった。1936年(S11)年の「2・26事件」は陸軍の1部によるクーデター未遂事件であったが、時の大蔵大臣高橋是清が殺されている。
翌1937(S12)年に「日中戦争」が始まり、翌1938(S13)年に「国家総動員法」が発出され、1941(S16)年に「太平洋戦争」に突入した。
「太平洋よ大陸よ」「問答無用」「赤紙一枚」「大政翼賛」「勤労奉仕」といった激動の社会は、常に不安と緊張に覆われ、「死(戦死)」といったことさえ身近なものであった。
2 戦前の少年犯罪
筆者は、法務省のレンガ造りの本館で、かつて「5・15事件」の際に海軍の青年将校たちが撒いたチラシを見たことがある。ワラ半紙にガリ版で刷られたもので「五・一五檄」とあったと思う。腐敗した政党政治と財閥や特権階級を糾弾し、貧困にあえぐ農民労働者階級を救わねばならない、といった内容だった。
戦前といえば、貧困のために山奥から都会に年季奉公に出されていた少女が、あまりの辛さに、子守りをしていた赤子を投げ捨てて故郷に逃げ帰ってしまったという「郷愁反応」と呼ばれたような不憫な事件が多かったというイメージが筆者にはある。実際には、激動不安定な社会が多種多様な少年犯罪の土俵として在ったわけである。
管賀江留郎氏は、国立国会図書館に保存されている新聞と雑誌を中心にした資料を広く渉猟して、平成19年(2007)に『戦前の少年犯罪(築地書館)』という著作にまとめられている。巻末に収録されている昭和2年(1927)から昭和25年(1945)までの間の「少年犯罪年表」を少しめくってみただけでも、欲望のままといおうか、エネルギッシュといおうか、ヤケクソといおうか、豪華絢爛といおうか・・・これでも一部なのだという・・・そうしたわけで本の表紙に『現在よりも遥かに凶悪で不可解な心の闇を抱える、恐るべき子供たちの犯罪目録!』とあるのであろう。
なんでもありのうち、筆者は凶悪犯罪の筆頭である「殺人」を取り上げて、戦前に少年犯罪が多かったことを確認しようとした。管賀氏の主宰する「少年犯罪データベース」利用させていただき、「殺人を犯して検挙された少年の少年人口(10〜19歳)10万人あたりの比率」を計算してみた。
①昭和11年(1936)〜昭和19年(1944) 戦前。 平均人口比:0.99(ただし、昭和16年〜18年については戦時のために年齢別人口推計が無いので、この期間は除外した)。
②昭和20年(1945)〜昭和45年(1970) 戦後。戦後非行の第1の波と第2の波が通過するまで。平均人口比:1.84。この時期の対人口比は際立って高い。敗戦の混乱期から高度成長期の半ばまで、社会の動きがいかに大きかったかを物語っている。
③昭和46年(1971)〜平成18年(2006) 平均人口比:0.56。昭和46年からは年次人口比が1.0を超えたことはない。この期間中の昭和58年には非行の第3の波を迎えており、刑法犯で検挙された人員は戦後最も多くなったというので騒がれたが、その80%近くが窃盗と横領(万引きと放置自転車の乗り逃げ)であり、その一方で凶悪犯罪「殺人」は引き続き減少の傾向をたどった。
最近(平成30年)は、殺人で検挙される少年は50人ほど、人口比も0.50近辺にある。
戦前の殺人犯少年の人口比は現在のそれのおよそ2倍であることから、少年による殺人、そしておそらくは凶悪犯罪の全体が、現在よりも戦前において多かったとして良い。
3 戦前の特異な少年犯罪事案
管賀氏の「戦前の少年犯罪」の中から、「情緒や性が絡んだ発達の問題」が要因としてあるのではないかと疑えるような事案を選んで、いくつかを引用のうえ、勝手ながら適宜に要約させていただいた。「神戸連続児童殺傷事件」と共通するところがある事件も見られる。戦前は年齢を「数え年」で扱ったので、実際の年齢は、ここに挙げてあるものよりも1〜2歳低いものとなる。
・昭和13年(1938)1月2日(日) 〔諏訪幼女誘拐惨殺事件〕
兵庫県神戸市新開地の映画館で、17歳ぐらいの学帽学生服の少年が、正月の晴れ着を着た女の子(7歳)を連れだし、諏訪山の林で腰ひもで絞殺して顔2か所を刃物で切り、さらに性器から腹にかけて10センチ以上を切り裂き、腹部にカタカナ3文字を刻み付けた。翌日に死体が発見されて報道されたが、1月6日、新聞記事の女の子の写真を張り付けた挑戦状が警察署に送られてきた。「コノ少女ヲ殺シタノハ自分ダ。コレカラ先キマタ殺スカモ知レナイカラ注意セヨ」などとあり(報道には無いがさらに嘲笑的なことが書かれていたという)、死体に残された文字と筆跡が類似していた。
付近では前年10月3日から、幼女が若い男に顔を切られる通り魔事件が7件起きており、どれも日曜日であることからも、同一犯人と思われた。
誘拐殺人の犠牲となった幼女を映画館に連れて行った小学3年生の女の子(9歳)がはっきりと犯人を見ていて、犯人像はかなり絞り込まれていたにもかかわらず、何人かの少年が捕まって自供などが得られたにもかかわらず、入念な捜査や現場検証を繰り返した結果、いずれも釈放されている。結果として犯人は逮捕されなかったらしく、そうした報道は見当たらない。また、幼女の腹部に残されたカタカナ3文字はひどい言葉であったらしく、どの新聞も内容の掲載を差し控えている。8件の犯行がいずれも日曜日というところにも、こだわりと徹底性がうかがわれる。
・昭和3年(1928)12月1日 〔幼女レイプ殺人・死体凌辱〕
東京府南葛飾郡の路上で、17〜18歳の学帽・マント姿の少年が、同級生や妹と遊んでいた小学1年生の女の子(7歳)を連れ出し、深夜に路上でレイプして絞殺。全裸にして性器(当時の報道では○○と伏字にしてある)に泥を詰め、首に帯を二重に結び付けたまま引きずり、100メートル離れた池に投げ捨てた。翌日、死体が発見された。
・昭和14年(1939)6月17日 〔幼女2人連続殺人・死体レイプ〕
千葉県印旛郡の路上で、工員(15歳)が小学2年生の女の子(9歳)をいきなり絞殺、死体を小学校裏の林に運んでレイプした。翌6月18日に死体が発見されたが、その日に同じ村の小学4年生の女の子(11歳)を絞殺し、死体を神社の裏山に運んでレイプした。その後ナイフで腹から胸までを裂いて内臓が見える状態で放置。同じ年の3月には16歳の少女を襲っていた。
・昭和12年(1937)10月5日 〔幼女100人以上誘拐レイプ・殺人〕
兵庫県武庫郡の路上で、米店員(15歳)が小学1年生の女の子を自転車で誘拐し、芦屋の山林に連れ込んでレイプしようとしたが、抵抗されたので口にハンカチを詰めて窒息死させた。翌日、手足を縛られた全裸の死体が発見された。
前年から、小学1〜3年生の女の子にお菓子を与えるなどして誘拐のうえ、殴打などを加えてレイプを重ねており、犠牲になった女児は実に100人以上であった。
・昭和7年(1932)4月7日 〔幼女惨殺 美智子殺〕
大阪府大阪市船場の荒物商宅で、従業員(16歳)が主人の長女の小学2年生(8歳)を殺害。
母親やほかの従業員の留守中に少女に強制猥褻をしようとしたが、「おかあさんにいってやる」と言われたためカッとなって首を絞めたところ暴れたので、そばの火鉢の中で真っ赤に焼けていた火箸で喉を刺して絶命させた。生き返ると困ると思い、女の子の母親が脱ぎ捨てていた割烹着でさらに首を絞め、もう1本の火箸を胸に突き刺し、さらに、火鉢の中で熱していたコテ(アイロン)で頭をめった打ちにして割り砕いた。侵入者がいたと見せかけるために窓ガラスを割り、何食わぬ顔で他の従業員たちと事件に驚くふりをして、新聞記者のインタビューにも応じていた。
・昭和13年(1938)1月14日 〔墓を暴いて女性の死体を弄ぶ〕
神奈川県高座郡で、人夫(18歳)が墓を暴いて女性(24歳)の遺体を自転車で杉林に運び、満月の月明かりの下、裸にして木に縛り付けて撫でまわして眺めた。ナイフで腹を裂き、内臓を掴みだして臭いを嗅いだ。村一番の美人が2日前に病死したと聞き、「あんなきれいなキクさんの腹の中はどうなっているんだろう」と思ったと自供した。
無残な姿の遺体が発見され、指紋を隠すために手袋をして遺留品を残さないように細心の注意を払っていたというが、すぐに少年が逮捕された。友達もおらず、無口で暗い性格であった。
・昭和9年(1934)3月15日 〔何人殺せるか試す 一家皆殺し〕
奈良県北葛城郡の農家で深夜、長男(20歳)が就寝中の家族の頭を斧で殴り、母親(48)、2男(18)、長女(15)、3男(13)を殺害、父親(53)を重体とした。つづいて隣家に押し入り、就寝中の長女(18)の頭を斧で殴り、相手が逃げようとするところを肩と足を切って重傷を負わせ、母親(36)にも切りつけたが斧を奪われて逃走。100メートル離れた線路で列車に飛び込んで自殺した。
真面目な働き者の模範少年だったが、数日前に「自分が命を投げ出したら、幾人くらい殺せるだろうか」と話していた。
・昭和12年(1937)5月6日 〔中1生がスカート切り魔〕
東京市省線の四谷〜信濃町駅間のトンネルに電車が入った瞬間に、女学生のスカートや着物をナイフ(肥後守)で切っていた中学1年生(14)が捕まった。4月20日から10人以上を襲っていた。小学生のときからこういういたずらに興味を持っており、「女学生が泣きだす顔を想像して楽しむ」と自供した。国家公務員技師の長男。
・昭和20年(1945)4月17日 〔一家5人を惨殺〕
長野県下伊那郡の農家で、3男(17)が父親(45)、母親(44)、4男(12)、2女(8)、3女(3)を殺害。3キロ離れた山林で猟銃を使って自殺した。前日に近所の家からコメを盗んで両親に叱られていた。就寝中の家族の顔や頭をまずカナヅチで殴り、カナヅチの柄が折れると斧でめった打ちにしたもの。金目のものを物色したあともあった。
・昭和17年(1942)10月12日 〔9人連続殺人〕
静岡県浜松市において9人を次々に殺害し6人に傷害を負わせた少年(18歳)が逮捕された。
前年の8月に置屋に侵入して芸妓を刺殺。2日後に料理店に侵入し、寝ていた女主人(44歳)、女中(16歳)、雇人(67歳)を殺害。警察にマークされて取り調べを受けていながら、同年9月には自宅で強盗を装って兄を殺害。兄の妻と子供、父親と姉に重傷を負わせた。明けて昭和17年8月に電車でたまたま乗り合わせた女性(19歳)の家に侵入、女性の両親と姉と弟を殺害し、女性を強姦しようとしたが失敗して逃走。同年10月12日に逮捕され、翌日に犯行を自白した。
別に、4年前の14歳時の8月、置屋に侵入して女将と芸妓を強姦しようとしたが抵抗したのでナイフで2人とも刺して逃走した事件も自供した。
家族は少年が犯人と分かっていたが通報すると殺されると怯えて(現に殺されていた)黙っていた。逮捕直後に父親は世間に申し訳ないと自殺した。兄弟7人のうち少年だけが生まれつきの聾唖者で家族から冷たく扱われていた。知能は高く、聾唖学校で一番の成績であり、学費を自分で稼ぐためと強姦目的の犯行とされた。「戦時刑事特別法」で二審だけですみやかに死刑判決が確定し処刑された。
・昭和10年(1935)11月16日 〔連続通り魔 80人以上を襲い1人刺殺〕
愛知県名古屋市の公園で、洋服職人(17)が女性事務員(23)を刺殺、デパートの女性店員(19)を刺して逃走、1か月後に逮捕された。それまでに女性ばかり80人以上を襲っていた。家業の洋服屋を手伝っており、凶器は兄の1人が中国戦線に出征するときに形見として残した白鞘の短刀。内気で無口な性格で、周囲の者は笑ったところを見たことがないという。
・昭和11年(1936)4月16日 〔向島幼女連続殺人事件〕
東京市向島区の空き地で、無職少年(18)が赤貧の母子家庭の小学3年生の女児(10)の首を刺して殺害。5月31日に近くの海産商宅で幼女(3)の首を刺して殺害。
肉切り包丁を所持して新たな標的を物色中のところを6月6日に逮捕され、犯行を認めた。成績は優秀。父親が病死したため小卒で就職、工場の仲間に頭の形をからかわれて仕事を辞めていた。海産商宅での殺人については「一人で寝ている幼女の姿が恐ろしかったから刺した」と供述した。探偵小説や犯罪記事のマニアで、前年8月には工場経営者や大店に脅迫状を送り付けて、騒ぎが起こるのを喜んでいた。
男3人兄弟の真ん中。近所では親孝行と評判であり、母親(42)は祈祷師をしていて「我が子ながらよくできた子どもです。あの子に限って大それたことをするはずがありません」と語った。東京地裁は無期懲役判決を出したが、不服として控訴している。
4 これらは何を教えているか
実に明治時代から「教育勅語」をあまねくし、忠君愛国を柱に据えながら、親孝行、兄弟の友和、夫婦の愛和、社会への貢献といった基本的な道徳を小学校4年の頃から暗唱させるという教育がなされた。天皇は「現人神(あらひとがみ)」であったから、その「御真影(天皇・皇后の写真)」を火災で失ってしまったということで割腹自殺をした校長の行動が称揚され、学校長による定期の「勅語奉読」は全国津々浦々の学校で厳粛をきわめた。全学童を直立不動からわずかに頭を下げた姿勢で整列させ、しわぶき一つ許されないなかで、白手袋をはめた校長が独特な調子で読み上げた。やがては「軍人勅諭」の骨子である、忠節、礼儀、武勇、信義、質素という要素が組み込まれた。加えて昭和期にはいってからは、戦時体制から銃後をまもるため、官主導の「隣組制度」が整備された。「助けられたり助けたり」という機能が主であるとされたが、思想統制や住民同士の相互監視という一面があったことは否めない。
それにもかかわらず、ここには12例だけを引用したが、異様な少年犯罪、殺人を含めた他への常軌を逸した攻撃というものは鮮烈な形で有ったのである。
残念ながら戦後も同じであった。民主と平等と平和を基本的な価値観とした教育が積み上げられたにもかかわらず、近年に至って犯罪の全体は減少の傾向にあるものの、やはり通常の感覚には納まらない少年犯罪は散発している。問題は統制や抑圧の強弱ではないということを示唆している。
どのような状況の社会で、どのような教育なりを施そうとも、この種の少年犯罪の発生については、ただ待って耐えるより仕方のないものであろうか。筆者はそうは思わない。完全にゼロにすることを望める性質のものではないけれども、これらの発生を少なくすることは可能であると信じている。
こうした犯罪は、ことに少年によってなされると、メディアがそれぞれに競合しあって多大な動揺を社会に拡散させる。現に、国連の調査にも見るように、この国では、自分が身を置いている社会は先進国中で最高水準に安全が保たれているにもかかわらず、治安に不安を感じている人の割合が最高のレベルに達している。なによりも、成長しつつある児童や若者たちを実態以上の不安で取り囲んでしまうところが問題であるだろう。不安の土壌は、これからを担う若者たちの自信を失わせ、姿勢を内向きにしてしまう。
遺伝要因と環境要因とは絡み合って進行する。とりわけ初期の個々の養育のあり方が大きな意味を持つことは言うまでもないが、それらが繋がりあうことで成り立っている社会の性格と成熟度というものも重要である。
柔軟で懐の深い社会というものは、一人一人に責任ある決断を迫るものであるに違いない。たとえば、少年犯罪史上もっとも残虐な事件の一つとして「綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件」が挙げられることがあるが、犠牲となった少女が不自然に監禁状態に置かれているのを周囲の一部の人たちが知っていたにもかかわらず、通報さえしなかったことが最悪の事態をもたらしてしまっている。さまざまな事情があったであろうが、社会のありようの総体が、そのような流れの方向を彫ったともいえるのではなかろうか。
私たちは、私たちが身を置いている集団の品格といったようなものを、少しでもかさ上げできるように努力しなければならない。そうした時に、私たち自身の正体をしっかりと見ておく必要があると思う。筆者が「いのち はるかに」としたブログに「ヒトの正体」というカテゴリーを置いたのは、そうしたことをいくらかでも考えようとしたからである。
5 余録
少年犯罪史上もっとも残虐とされる二つの事件について 気になること
少年犯罪史上もっとも残虐非道なものの双璧とされることのある2つの事件は、戦前ではなく戦後、神戸連続児童殺傷事件よりも10年ほど前に起こっている。
・昭和63年(1988) 名古屋アベック殺人事件
・平成元年(1989) 綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件
ともに不良少年集団による「リンチ殺人」となっているが、正確にはリンチ殺人にもなっていない。リンチというのは、特定な集団が定める独自の規則を破った者を法律に基づかずに制裁を加えるものであろう。2つの殺人事件は、ゆきあたりばったりに、縁もゆかりもない犠牲者に言いがかりをつけ、集団でなぶり殺したものである。
妙な言いようではあるけれど、たとえば性的サディズムの要因が漂う単独での犯行は酸鼻ではあるが、独りだけの内面が緊迫を高めてついには自爆したというような一つの悲しい物語がある。それに対してこれら2つの集団暴行事件は、アメーバ同士が合体してさらにドロドロと巨大化してゆくありさまを見せつけられるような、救いようのない崩壊がある。そこから放たれる腐臭を吸い込んでしまうと、数日は物も食べられなくなることもありそうなので、この事件の経過を知ろうとするだけでも相当の覚悟を要する。
ただ、筆者はこれら二つの事件に共通して見られる「シンナー吸引」の影響を考えなければいけないと思うことがある。有機溶剤や接着剤をひっくるめてシンナーと呼ばれ、これをビニール袋などに垂らし込んで気化して来るガスを吸う遊びが全国的に流行ったことがある。「シンナー・ボンド遊び」は1970年代から80年代がピークであった。
シンナー類は中枢神経には強烈な麻酔作用をもたらすので、早期から大脳前頭葉というブレーキを甘くしてしまい、欲動のままの行動が現われがちになり、意識の低下とともに現実感を希薄にしてしまう。感覚そのものも歪んでしまい、たとえば、「ダンプカーが向かってきても、ゴムの張りぼてが転がって来るようで、危ないとも感じられなかった」「歩道橋の上から道路を覗くとそんなに高くは見えない。空手の名人になったような気分になって飛び降りたら両脚を折ってしまった。あまり痛いとも感じなかった」「ただ静かな中で自分は宇宙遊泳をしていた。幸も不幸もなかった」というような体験を、筆者の現役当時よく聞かされたものである。シンナー吸引を止めて数か月後にも、脳波に徐波(機能低下を示唆する異常波の一種)が残っていることもある。
こうしたことを加味すると、どうして事件のような地獄が出来上がってしまったかを、からくも理解できるような気がする。
で、それで救われるかというと逆である。今、生き続けているであろうかつての加害少年少女たちは、自分たちのしたことを正確には表象できていないはずである。一点でも朦朧としたところのある意識の下でなされた体験を、どうしてきっちりと内省できるだろう。これこそは救いがたい。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。