選り抜きのカシの厚板で作られた、大きな樽がありました。人の胸の高さほどもあり、胴の周りは二人の大人が手をつないで、ようやく届くかというほどでした。
 ブランデーで満たされて、仲間たちと何年も地下の蔵の中に並べられているうちに、木の香りがゆっくりとゆっくりと移って、ブランデーの風味はいよいよまろやかになるのです。 “樽” の続きを読む

わたる風

次郎の父は鳶職だった。おそれず、油断せず、確実で、静かだった。「トビのために生まれてきたような男だ」と仲間うちでも評判が高かった。
 東京新宿の超高層ビル、瀬戸内海の大きな渦をまたいだ吊り橋、アルプスの裏のダムのアーチ状の堤防工事などを手がけて全国を股にかけて働き、巨大なそれぞれの建造物のもっとも高いところに吹く突風を経験していた。それでいて何年ものあいだ、怪我ひとつしたことがなかった。
 三十五歳のとき、次郎が小学校に入学したのをしおに、東京の近郊に家を買った。ひとつの区切りが出来上がったと気を抜くどころか、いよいよ仕事に身を入れて精進を続けていた。が、信じられないようなことが起こったのは、その三年後のことである。 “わたる風” の続きを読む

職人

 ガラス屋に電話を入れた。おばあちゃんが、あやまって、テレビ台のガラスの片方を割ってしまったからである。
さいわい厚さのちょうど良い、いくらか大き目のガラス板を地下に入れてあった。まえに食器戸棚かなにかに使われていたものらしい。

 「日の出ガラス店ですか。そちらでガラスを切ってくれますか。テレビ台のガラスです」 “職人” の続きを読む

良太とゴンドラ

 良太のお父さんは、おおきな街の清掃課というところに勤めている。ゴミを処分するセンターの工場がうまく運転されるように、手入れをしたり直したりする仕事をしているのだそうだ。
 毎日、スチームで沸かした風呂に入ってから、背広に着替えて帰ってくる。けれど、身体に浸み込んでいる生臭さが抜けきれていないように、良太には感じられた。ごつごつした手でビールを飲んで、ほとんど話をしない。しらけてしまう。

 中学一年生のとき、街のゴミの処理場に見学に行くことになった。
「えらいことになった」
良太は思った。仲間のうちには良太のお父さんの顔を知っているのがいる。なかでも茂夫はしつこいから、まず二週間はひやかされ続けるだろう。見学の当日、良太は列のいちばんうしろに回って、うつむきながら歩いた。

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