選り抜きのカシの厚板で作られた、大きな樽がありました。人の胸の高さほどもあり、胴の周りは二人の大人が手をつないで、ようやく届くかというほどでした。
 ブランデーで満たされて、仲間たちと何年も地下の蔵の中に並べられているうちに、木の香りがゆっくりとゆっくりと移って、ブランデーの風味はいよいよまろやかになるのです。

 何年かたったある日、樽は通りかかった一匹のネズミを呼び止めました。
 「横腹がかゆいような気がするんだけど、ちょっと見てくれない」
 ネズミはしばらく樽を登ったり降りたりしてから言いました。
 「ああ、一ヶ所にちょっとね。カビが生えてた。よく拭いといてあげたよ」
 次の年に、樽はまたネズミに声をかけました。
 「同じところが少しうずくんだけど、見てくれないか」
 ネズミは前と同じようにチョロチョロしてから、いくらかろれつが廻らないような声で答えました。
 「ああ、今度こそはね、完全にね、取ってあげた。やあ、苦労した、苦労した」
 ブランデーが滲みた板をかじっているうちに、ネズミは酔ってしまい、それでついやりすぎて小さな穴を開けてしまったのです。

 それから数年後、蔵が開かれてでっぷりした酒屋の主人が入ってきました。ひとつひとつ、ためつすがめつしながら近づいて来、とうとう例の樽の前で立ち止まりました。
 「こいつはまずい。半分は抜けたな。おまけに残った酒の味はまるで腐りかけの酢だ」
 そして人を呼んで、この樽だけを外へ出すように言いつけました。ごろんぴしゃん、ごろんぴしゃん。あちらへこちらへ。くねくねと転がりながら樽は泣きました。ごろんぴしゃん、ごろんぴしゃん。
 「ぼくだけどうするの。ちっちゃい穴がたった一つ開いているだけだ。ほかはなんともないんだ!」
 酒屋の主人は答えました。
 「そうさ、小さい穴が板の一枚に開いてるだけだ。だが、ほかがどんなにしっかりしていても、酒は穴の高さまでしか入れられない。中身もおかしくなる。おまえは酒樽の役には立たないよ」
 それを聞くと、樽は、シンチュウで作られた何本ものタガの輪をきしらせて、もっと大きな声で泣き出しました。
 
 酒屋の主人は、この樽をひとおもいに打ち壊してしまおうと考えていたのです。けれど、樽があまり悲しそうに泣くので、明るい場所でもういちどとっくりと調べてから、長いあいだ腕組みをしていました。そして言いました。
 「おまえにちょっと痛みを我慢する勇気があればだ。この穴をもうすこしえぐってまん丸にする。そこへきっちりした栓を打ち込む。ほかはしっかりしているんだから、もとどおりだ。やるかね」
 腹をえぐられると聞いて樽は身をふるわせましたが、涙を飲み込んできっぱりと言いました。
 「がまんします。やってください」

 それからまた数年後、ずらりと並べられた樽をひとつひとつ確かめながら近づいてきた主人は、例の樽の前では、よけいに時間をかけて様子を調べました。そしてコツコツと樽を叩いて
 「いいよ。いい酒樽になったよ」
 と話しかけました。
 「ありがとう。ぼくは一人前なんですね!」
 樽は、シンチュウのタガネヲ大きくきしらせました。泣き出しそうになりました。せっかくの樽をばらばらにしてしまってはいけないと思い、主人はあわてて次の列のほうに離れていきました。

ロウボウ

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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