「大きな異常」に何時しか流されて・・・

 1 スマホの充満 電車の中での化粧 切れやすい人々
 2 第1次産業にみる不可解
 3 たとえば 自動車というもの
 4 まとめ

 

1 スマホの充満 電車の中での化粧 切れやすい人

 スマホの充満
スマートフォンの普及がもたらした功罪は、いまさら言うまでもない。手の平に収まるほどの小さな道具が、瞬時にほとんど世界中の情報につながるという利便性は、まさにそれ故に影を生んでいる。いじめ、ストーキング、ハッキング、フィッシング、リベンジ、詐欺、自殺サイト・・・さらに怖ろしいのは、フェイクな情報がまたたくまに燃え広がって、人々を惑わす事態をもたらすことであろう。
電車の中でほとんどの人がスマホの操作に夢中になっているという光景。これはどうしても普通ではない。歩きスマホ自転車スマホで大怪我を呼び寄せてしまうというのも、もちろん普通なことではない。
にもかかわらず、スマホは繁殖の一途をたどっている。スマホはヒトの深みにある急所を握ってしまっている。

 電車の中での化粧
電車の中で化粧する女性」というのが取り上げられ始めたのは、2000年に入った頃からである。2001年「車内で化粧する女性」をターゲットにして、東京メトロ(東京地下鉄株式会社)が初めてのマナーポスターを張り出した。「目にあまる行為!」と強く叱責していた。それが年を追うにつれてキャッチフレーズの調子が柔らかくなってゆく。2008年「家でやろう」。2011年「メイクに夢中。鏡見るより、まわり見て」。

そして私自身としてはこの頃、電車の中で化粧している女性をあまり見かけなくなったように思えるので、ある人にうかがうと、「女性専用車というのが増やされたからでしょう。たじたじとなる光景ですよ。いって見てごらんなさい」とのこと。通勤時間帯に女性専用車に行くなどという怖ろしいことができるわけがない。
どうして、電車の中で化粧する女性が増してきているのだろうか。
男性女性を問わず、郊外から都心近くの職場に通う人々には、早朝に家を出てから帰るまでに、移動に要している時間を加えると12~14時間を費やしている実態は決して少なくはない。「帰りの電車の中で、これといったわけも無いのに涙が出てくるのです」などと訴える女性もいる。疲弊しているのである。
昔から「人は切り良く8時間」と言われているように、「8時間を働き、8時間を休んで食べ、8時間を眠る」というのが健康を保つ基本の習慣であるとされている。
いまのサラリーマンは、休んで食べて眠るための時間が大きく圧迫され殺がれており、休日を除けば、家で過ごす時間のやり繰りは切迫しているであろう。朝、ゆっくりと身支度をしている余裕はなく、仕上げを電車の中ですることになる。
本来、
プライベートであるべき習慣をあえて公衆の中でするというのはこうした事情によるものであり、異様なことではあるが、私たちは次第に慣れてきてしまっている。

 切れやすい人々
切れる」人が増えているという。情報の量がおおきくなるにつれ、「他人は手にしているけれど自分は持っていない」というさまざまな対象に接する頻度も高くなる。それは自分のせいではなく、たまたま運が悪かったか、他人に不当に持ってゆか
れたのだと捉えたなら被差別感が湧きだし、切れ易くもなるであろう
「切れやすい」というのは、脳の前頭葉が委縮したためにブレーキが甘くなってしまった老人の専売ではない。

 

2 第一次産業に見る不可解 

 この頃について少し詳しくは、このブログの別のカテゴリー「若者たちのこれから」のうちの「置いて行かれている国土を見る」「これからへの想い」をも参照していただければ幸いです。

 農業
この国の食料の自給率は40%ほどである。その一方で「耕作放棄地」はいよいよ増えて、いまや40万ha(埼玉県1県の広さ)に達し、刻々と原野に帰りつつある。

 林業
この国の木材の自給率は30%程度。その一方で「森林蓄積(切り出せば直ぐに使える立ち木の量)」は、世界最大の林業国であるドイツの2倍に当たる60億mに達する。年々育つ分だけを切っているだけで国内の需要をまかなえる。つまり、永久に森林を維持循環できるという豊富さである。
ところが、日本は多くの国々から大量の木材を輸入しており、たとえばボルネオの熱帯林を大規模に伐採して現地住民の生活を奪っておきながら、ラワンのベニヤ板やコンクリートパネルなどに成形してコンクリートの基礎工事の枠として使っている。来たるオリンピックのための国立競技場のメインスタジアムを建設するためにも使われている。これが「おもてなし」を言う国がしていることである。
一方で、日本の山林は「間伐」などの手入れがおろそかであるところが少なくなく、まとまった雨が降ると流木が出て暴れ、被害を大きくしている。

 漁業
海産物の自給率は60%程度である。かつては100%であった。海に抱え込まれた海岸線の長い列島でありながら
これもどうしたことであろう。

 

3 たとえば 自動車というもの

 1馬力
少年だったころ、私は兄弟たちと一緒に1頭の馬を飼った
ことがある。帝国陸軍が終焉した時に放出されたものだったが、これがひとたび暴れだすと、私たちには命がけであった。騎乗しているときにあばれたら、一緒に砕ける覚悟で屏風のように立ちふさがっている崖に向え、と教えられた。1馬力でさえこれである。
このごろの軽自動車は60馬力ほどのエンジンを搭載している。ハンドルの前に、60頭の馬が黒々と密集して自分を引っ張っている光景を想像すると、この一群をアクセルとブレーキで制御するというのが、たいそう心細く思えてくる。
60頭の馬が学童の列に暴れ込んだとする。たくさんの子供たちが犠牲になるのはあたりまえであろう。60馬力という力は怖ろしいものなのである。生きた1馬力とエンジンの60馬力とのフィーリングの食い違いに私たちは鈍くなってしまっている。

 400馬力
仮に私が、400馬力のエンジンを搭載した大型観光バスのドライバーだったとする。乗客を満載して公道を走っているとき、ふいに横道から人が飛び出してきた。その時、急ブレーキを踏むべきか、直進すべきか。
急ブレーキをかければ、乗客の多数にさまざまな程度の傷害を与える。横転なども起こり得て死者も生ずるかもしれないけれども、不確定である。直進すれば、路上の人の命をまず奪ってしまう。が、一人である・・・あれこれ想像していると寒気がしてくる。

 自動車というものはそういうものだと、慣れてしまっていて良いものだろうか。

 チャイルドシート
チャイルドシートというものがあり、6歳未満の幼児は、たとえ母親が同乗していても、これに固縛することが法によって義務付けられている。自動車を利用する場合には、母親に抱かれていたのでは危険度が増すのである。これも異様な状況の例であろう。
人類の長い歴史を通して、乳幼児にとって一番安全な状態は、母の胸の中に抱えられているというものであったであろう。例えば戦場のような危険な場面ではなおさらのこと、幼な子は本能的に母親にすがり付いたし、母も我が子を掻き抱いた。
母親に抱かれていると危険が増すというのは、異常な状況であり、私たちが日常に使っている自動車の中の空間というのがそうしたものの一つなの
である。
こうした不自然に、私たちはつくづく鈍感になってしまっている。それどころか、自動運転とか空飛ぶ自動車とか、いっそう精密になればなるほど、いっそう不具合の起こり易いカラクリに、どんどんとはまり込んでゆく傾向がある。

4 まとめ

私たちのごく身近なシチュエーションを構成しているもの。衣食住の基本からケイタイや自動車など。少し見直してみると、なんとも不思議なことが底に横たわっている。どちらの何が主人公であるのかも分かり難くなりつつある。
つい先日、私は、電車の中でスマホをやりながら化粧をしている女性を見ることになった。
資本や商社のカラクリや思惑や戦略に、やすやすと惑わされてはならないと思う。

苦労しがいのある一生、土と水の香りに取り巻かれた人生を取り戻すには、いっときの利便性を手放すことなどを含め、何が本当だろうという検討や気付き、そして覚悟が必要であると思う。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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