今般のアメリカ大統領が選ばれる経過を通して、米国社会の分断化ということが指摘され続けた。
銃器氾濫の由来
米国社会の分断は今に始まったことであろうか。そもそもあの国の自然について想っただけでも・・・大草原、砂漠、いくつもの長大な山脈、ハリケーン、トルネード、大寒波、山林火災、バッタの大群の来襲など・・・ヒトを拒んで荒々しいものがある。
そうした自然と闘いつつ、先住民を駆逐しながらヨーロッパの白人たちが押し寄せるように入植したので、早い者勝ち、フロンティア、砦、1500万人に達するとされる奴隷の持ち込みと酷使、独立戦争、南北戦争、ゴールドラッシュなどと、人の為したこともたけだけしい。
たしかに、初期にアメリカ大陸に渡ったヨーロッパ人たちの労苦やエネルギーには感嘆させられるものがある。たとえば、ローラ・インガルス・ワイルダーの自伝的物語である「大きな森の小さな家」「大草原の小さな家」などを読んだだけでも、開拓という仕事がいかに大変であったかが、つぶさに分かる。一家の主はほとんど一人で巨木を倒し、太い丸太をオノ一本でで縦に割り、家を作り、炉を築き、大地を耕し、狩りをした。クマやピューマなどの獣から身を守るためにも銃器は必須なものであった。婦人たちも、家事全般や繕い物に加え、バター、チーズ、ローソク、燻製加工、漬物などを備える作業をほとんど独力でこなさなければならなかった。
しかし、そうした生活を支える根底の考え方は次のようであった。「インデアンたちは耕作も牧畜もしない。放ってある大地を自分達が活用してやるのだから遠慮は要らない」・・・その大地は無限ではない。早くに入って占拠した広大な土地を自分のものだと主張する者と、あとから入植して来て合法を主張する者が対立するようになるのは当たり前の成り行きで、西部劇映画の傑作とされる「シェーン」も、そうした移民どうしの分断が舞台になっている。
野生動物に対しても同じようである。かつて、空を覆い地を埋め尽くすほど棲息していたアメリカリョコウバトやバッファローは、ハトは羽毛と肉のために、野牛は先住民を飢えさせて土地から追い出すために、争って大々的に乱獲された。50億羽いたというハトは数十年のうちに絶滅し、最後の1羽が剥製にされてスミソニアン博物館に展示されている。よくぞ我勝ちに獲り合ったものである。
6000万頭いたというアメリカバイソンも絶滅寸前になった。「新世界」と呼ばれた入植の地は常に争奪戦的、対立的で緊張に満ちていた。考えられないような銃器の氾濫はこうした事情の延長線上にある。
自由主義の光と陰
「自由」と「平等」とは、現生人類が苦難の歴史を積み上げた中から得ることができた普遍的な価値目標であるけれども、周知のように、自由と平等とは乱暴に言えばシーソーのような関係にあり、個々が自由を第一としてふるまえば平等が損なわれがちであり、平等を第一とすると互いの規制が強まりがちである。ほどよくバランスを取るやり方を、現生人類はいまだ見い出していないが、とりわけアメリカ合衆国は、その誕生のいきさつから体質的に、規制よりも自由を第一とした。その結果が積み重なって、限界的ともいえる不平等と格差をもたらすに至っている。
2017年1月、国際非政府組織(NGO)「オックスファルム」は、世界で最も富裕な8人の資産が、世界人口のうち下位50%(約36億人)の資産の合計額とほぼ同じであるという報告書を出している。8人のうち6人がアメリカ人であり、ほとんどが通信メディアやサイバー関連事業のトップである。アメリカだけに限っても、1%の人が全米の富の35%を収得しているという別の報告もある。富の偏在というようなレベルではなく、まるでブラックホールさながらに、一部の人が富を飲み込んでいるのである。そうした自由競争の光と陰は、メディアの発達とともに、誰もが見られるようにくっきりと映し出されるようになった。
・・・ある個人が、自分も渇望しているものを他人がたっぷりと手に入れていることを知り、自分もそれを持つ資格を備えていると感じたとする。自分が持てないでいるのは、自分に落ち度や責任があるのではなく、他のある者によって不当に機会を奪われているからだと思い込んだとする・・・。
こうしたとき「不平等感」や「被剥奪感」が生じる。そこを巧みに煽られると被剥奪感がまとまって高まり、社会現象になり、不満や怒りは社会や他の民族や人種や他の国家にも向けられることになる。
生命を殺傷するだけが目的の威力の高い道具などは、そう溢れかえっていては困るに決まっているが、そのようなものをどうしてアメリカ市民は手放せないでいるのだろう。
せんじ詰めれば、「銃口の前ではみんな平等なんだぞ。証拠を見せてやろうか」と銃を撫でることで、内なる不平等感のバランスを取ろうとしている人が多数を占めているのであろう。「自分の身は自分で守るのが伝統だ」は良いけれども、銃器を身近に置いておくのは、「周囲はコヨーテのような人物に満ちている」という不信感を形にして表しているものであるだろう。このような社会の基礎は「絆」ではなく、「分断」であり「敵対」であるだろう。こうしたことが、このたびの大統領選であからさまになったと思われるが、アメリカには未だにフロンティアが残っているのである。
筆者は、18世紀末に使われていたという「ブリテンの奴隷船ブルックス号」という帆船がどのように荷物を積み込んだかを示した図を見たときのことを忘れられないでいる。天井低く4層に仕切った船倉に、なるほど、これは人の乗せ方ではなくて積み込み方であった。船足は速かったに違いない。積荷はとりわけ腐りやすいものだったからである。図は全体として、幼虫がぎっしりと詰まったジバチの巣をローラーで踏み潰したように印象された。
衰弱した積み荷は海に投げ込まれたが、不衛生のために全船が視力を失ってしまい、奴隷船が大洋を漂うことになった例もあったという。大西洋横断中の奴隷の死亡率は、近年の推定で13%とされているらしい。当時のアフリカ原住民たちは、これほどに強靭だったのかと感嘆させられるほどである。現在のアメリカはなお、こうした歴史を消化しきれているとは言えない。自分たちのこととして受け入れきれていない限り、分断と不信は続くに決まっている。
「アメリカファースト」「白人至上主義」とかのスローガンなりは、二つの世界大戦まえの時代に戻ってしまったかというようなアナクロニズムが匂い立つと言わざるを得ないが、今これを声高に叫ぶということは、自分がファーストではないということを自覚しているということでもある。それに共感を示す人が多いという光景は、悲痛にさえ映る。
希望
希望はないのであろうか。正しい判断が自制を保つことができている事象として、次のようなことに希望を見い出したい。
大統領就任式での抗議デモの一部は、ショーウィンドウや車のガラスを叩き割るまでに暴徒化していたが、銃器を使うことはしなかった。警官隊と衝突して催涙弾らしきものを打ち込まれていたが、デモの方は銃で対抗することはしなかった。持ち込みは念入りをきわめて規制されていたであろうが、あの場で、あの社会にしばしば見られるように自動小銃なりが乱射されたなら、たちまち「内戦」状態にまで拡大したと思われる。就任まもなく発令された人種差別的な大統領令に抗議して、カリフォルニア州立大学バークレイ校でも暴動がおこったが、ここでも銃の発砲は無かった。
世界を信頼に基づいた一つの大きな「相互依存関係の枠」のうちに囲い込むことができるだろうか。情報の雑音の部分に惑わされることの少ない、地についた分権、ゆるやかな成長、平等社会に、現生人類はソフトランディングできるだろうか。その方向を決定するのは、一人一人の縦断的で複眼の視野に基づく判断であるに違いない。
めまぐるしく回り道はするけれども幾度もの惨禍を経て、人類は少しずつ進歩していると信じる。何よりの証拠に、第三次世界大戦は70年間以上にわたって回避され続けているのである。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。