身は自然に任せたい


欅の大樹の下で

 私がささやかに楽しんでいる菜園の近くに、一本の欅の大樹が聳えています。根が四方に張って、幹はたっぷり二抱えを越え、枝には幾つものヤドリギを養っています。その実を目当てにして、かのヒレンジャクやキレンジャクが訪れることもあります。
 冬の日、根方に深く食い込んだ笹竹を掘り上げてやろうとしていると、なんと、幾片かの石器が混じった縄文土器が出てきました。樹木は、この惑星で一番に長寿の生き物でありましょう。人生の第四コーナーを回り切ろうとしている私には感ずるところがありました。

 かつて、縄文や弥生の時代をこの地で生きた先人がこのあたりに葬られたことがあったとすれば、その人の一部は根から取り入れられて目の前の大樹の何処かで今も活用されているかも知れないのです。「縄文杉」というのが有るからには「縄文欅」というのが在ってもおかしくはありますまい。

    大欅根に縄文の土器を抱く
    弥生二千年武蔵野を見て大欅

 私たちの身体を組み上げていた組織が元素のレベルまでばらばらになり、それがほんの一部であっても次の生命体に活用されてゆく。・・・素晴らしいと思います。
 38億年と言われる生命の歴史を連綿と引き継いだ先端を生きている私。これが途切れるのは怖いし、悔しいことだけれど、どうにも避けられないことです。受け入れるより仕方のないことです。まさに生命の火が消えようとする刹那には、それなりの苦悶に耐えなければならないだろうことも覚悟しています。みんながそうしているのですから。
 さして遠くない日、火葬されて残ったものをそのあたりの無理のないところに撒き散らしてもらいたいと強く願っているこの頃です。

 この稿で言いたいことは、これで尽きています。後は蛇足になります。

仏教はちょっと・・・

 私は宗教についてあまり考えたことがありません。恥ずかしながら、まずは仏教について少し学ぼうと思いました。
 けれど仏教が先ず、「生老病死」を「四苦」と規定し、生きることを「一切皆苦」と捉えているのは私にはしっくりきません。どうも暗いのです。
 ついで、仏教の中心的教義であるらしい「輪廻転生」・・・全ての人は死後に六つの世界(天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)に生まれ変わるが(姿かたちが変わるとはいえ総体がごっそりと)、その何処に振り分けられるかは生前の「業(行い)」に依る・・・物語じみていて面白いものの、それに付き合うのはどうも・・・言葉にすると長くなるので、怪しげな要約ですが図にしてみます。

 「道」のいずれに転生しても(天上界に神として生まれ変わってさえも)、不老不死ではない故に「苦」であると捉え、究極の安楽を得ようとしたら輪廻転生のリングから抜け出す「解脱」が必要であると教えています。そのためには・・・輪廻転生のエネルギーとなっているのは「業(カルマ)」であるから、欲や執着を断って「因業」を生み出さないように「無我や悟り」に至ればエネルギーはゼロとなり、したがって輪廻転生に巻き込まれずに永遠の安らぎに満ちた「極楽浄土」にワープできる・・・。その極楽浄土というのは西方「十万億土」に在るとされ、ある学者の算出によると、なんと、10京光年(光の速さで1億年の10億倍)という途方もなく遠いところ、それこそ今も膨張を続けているという宇宙を突き抜けてしまう彼方という壮大なスケールではあります。
 私は我ながらあきれるほどに、我欲や執着をいっぱい抱えています。それを克服して「無我」の境地に至るというハードルはものすごく高く、意志を奮い立たせて何年もの座禅・作務・学びなどの厳しい修行を続けられたにしても、まず望めるものではありますまい。極楽浄土に飛翔することは、私には不可能としなければなりません。

天上天下唯我独尊 これは素敵

 お釈迦さまは、生まれるや七歩を歩んで右腕を挙げて天を指し、左腕を下げて地を指し、「天上天下唯我独尊」と宣言したと伝えられています。傲慢やひとりよがりを意味するものではなく、「生きとし生きるものは、その一つ一つがかけがえのないものであって等しく尊い」という強調でした。今にして科学的に裏付けが出来ます。これは流石だと思います。
 生命化学が発達し、DNAやATPの構造や作用が解明されてきたのは20世紀を越えてからのことです。地球上の全ての生命は、遺伝のことはDNA(生命の設計図)に委ね、生きるために必要なエネルギーの出し入れについてはATP(生体のエネルギー通貨)に委ねるというやり方を選択しています。そうした基本の共通点から言えば、地球上の生き物はただ一種類であると言え、それでいてDNAが作動する複雑さだけからも全く同じ個体というものは在り得ません。つまり、それぞれの生命体はかけがえがなく尊いと言えます。
 お釈迦さまはそうしたことを2500年ほども前に感じ取っていたのです。

慈悲 もっと素敵だ

 たとえ天界に生まれ変わっても「苦」であるとして、輪廻転生からの「解脱」の必要を説く釈迦。そうした一方で、生きとし生けるものはそれぞれに「独尊(かけがえなく尊い)」であると宣言する釈迦。前者は「生」をマイナスに、後者は「生」をプラスに捉えています。・・・矛盾しているように思えます。
 そこに「慈悲」という教えが接着剤のように登場します。生・老・病・死から逃れられない生きとし生けるものが懸命に生きようとしている姿を、哀れながらも健気とし、それだからこそ、いつくしんであわれむ、つまり「慈悲」を以て接することが大切だということだとすれば、矛盾は解消されます。今どきの「寄り添い」の能動版でしょうか。これは私なりに心しなければと思います。

それなりの転生

 というわけで、お釈迦様の教えに感銘するところは幾つもありますが、仏教の基本中の基本が私の何処かとしっくり来ません。バチアタリかも知れませんが「慈悲」を以て許してもらうことにします。
 私の意識は分子の集積した身体に依存したものであり、身体が活動を停止してバラバラになれば、意識はもとより霊魂といったものもあり得ないはずです。私の存在は「思い出」や「記録」として縁のあった人達に残るだけであり、やがて、そうしたものも消えてゆきます。けれど、かつて私の一部であったものは、ほんの僅かであっても他の生き物に活用される可能性があります。しかも何度でも。・・・               ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、タンポポ、ハクサイ、キャベツ、ナラ、ケヤキ、ネコ、イヌ、トリ、サカナ・・・どの生命も愛おしく、「慈悲」をもって対する価値があるのです。
 この頃の私は、死というものへの恐怖が減じつつあります。何のことはない、自然に任せれば良いのですから。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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