秋の彼岸の入りの日(9月20日)に、菜園に「ナバナ」と「ノラボウ」の畝を作りに出かけた。
そこを曲がれば私の畑が見えるという小道の角、3輪の「ヒガンバナ」が燃え上がっているところで立ち止まった。ヒガンバナのせいではない。花の上で1頭の「キアゲハ」が羽を広げたり閉じたりしながら、身を震わすようにしていたからである。
「アゲ科」の蝶は、写真に撮るのは運次第といったところがある。あちこちの木や草や花に興味を示しはするものの、止まることはあまりせずに、かなり速く広く飛び続けるからである。
野鳥については「まず1枚を撮れ」とよく言われる。野鳥をファインダーに入れたとき「もうちょっと良いアングルを」と欲張っていると、相手がいなくなってしまうことが少なくない。チャンス。キアゲハについても通用しそうである。
キアゲハを先ずは1連写した。と、ファインダーに当ててない方の目に、小道の向こうから一輪車を押しながら1人の老婦人が近づいてくるのが見えた。カメラを構えたまま、片手で止まってくれるように合図をし、少しズームアップしてさらに1連写した。キアゲハはヒガンバナが好みであるらしい。私は2歩ほど横に移動してさらに連写した。
ここで頭を上げると、老婦人は一輪車に引かれるようにして近寄って来て、「なんですか」と言った。カメラの裏の「液晶モニター」を開いて「キアゲハです」と見せると、「あれ見事だこと!このごろは直ぐに写したものを観られて良いですね」と答えられた。
「キアゲハ、知ってますよ。これの子供はあれでしょう。ニンジンの葉なんかに付いていて、つつくとオレンジの角を出して・・・臭うのですね」
「足止めをしてしまって、すみません」
「いいえ、懐かしいものが見えて嬉しかったですよ」と、老婦人は去って行った。
下に夏型のキアゲハと畑の片隅のパセリに付いた幼虫たちを並べてみる。小さいうちの幼虫は、擬態でぐしゃぐしゃした鳥のフンのように見えるけれども、大きくなると緑と黒とオレンジという思い切った配色になるのはどうしてであろう。食欲は旺盛で、数日の間にパセリは丸裸にされてしまう。ご覧のように芯だけは食べ残してあるのは、ここでも本能の賢さというものであろう。幼虫は蛹の姿で冬を越す。
彼岸の中日(9月23日)にナバナのタネを蒔きに行くと、2日前のヒガンバナに、やはり1頭のキアゲハが止まっていた。
ヒガンの中日にヒガンバナ、そこにおそらく同じ個体と思われる秋のキアゲハと2度。いくらか因縁じみて感じられた。実はずっと若い頃から、キアゲハを見るたびに反射のように、32歳で癌で逝った姉のことを思い出すのが私の癖のようになっている。
私には兄と姉が多いが、兄たちに何ごとにも慎重で人見知りするところが共通しているように思えるのに対して、姉たちはそろって楽観的で、判断と行動が速かった。
キアゲハの姉はとりわけ明るく、高校生ほどになると、あたりに金粉を撒き散らしながら陽光の中を飛び回っているように私には映ることがあった。父もそれと感じていたらしい。他の娘のようには東京に出さず、高校を終えると松本市の洋裁学校に入れ、木曾の自宅から通学させた。
谷にとどめ置かれても、キアゲハの面目躍如としたエピソードがある。蔵の中の古箪笥や漆器や什器の箱、漬物の樽などを動かして周囲の棚の中に押し込み、それ等の前に紅白の幕を張り巡らしてゴタゴタを隠した。これを独りで何日もかけてやった。蔵の床がおおかた空くと、そこをフロアにしてダンスパーティーを主催してみせた。昭和39年の東京オリンピックなどよりも、はるかに前のことである。信州信濃の山奥でのことである。
一人の青年と恋をして、さっさと隣の町に嫁いで行った。そうして、夫婦喧嘩をするたびに実家に帰って来て父と酒を飲む。
「あの野郎をどうすべえ」
「そんなもなあ 叩き切れ!」
新撰組屯所(?)のような遣り取りを二人は楽しんでいた。父は酒が過ぎると大虎になる癖があったが、「いいかげんにして寝ろ!はげちゃびん」などとこの娘に言われても、喉を鳴らすだけでおとなしく従っていた。不思議なことである。同じことを他の姉が言ったなら、ズタズタに引き裂かれたことだろう。
私が学部の1年生の時に、この姉からハガキをもらった。
「・・・胃の調子が悪いので名古屋の医者に通っているが、いっこうに良くならない。あなたの行っている大学に『胃カメラ』というものがあるだろうか・・・」
あきれながらも手配りをして姉を呼んだが、たちどころに診断されたのは、かなり進行してしまっている「胃癌」だった。
手術の前々日に「どうしてもクシダンゴが食べたい」と言い張る。仕方なしに求めてくると、おいしそうに4本を平らげたが、すぐに全部を吐き戻してしまった。長いあいだうつむいていたが、「ありがとう。これで思い残すことはないわ」と言った。
すでに脳に転移していたと思われる。手術後、はっきりと意識を取り戻すこと無しに逝ってしまった。最後に小さな声でうわごとを言った。「高野山で魚釣りをして…」というものだった。
帰省して、これも脳卒中のために寝たきりになっている父に、姉の最後を報告した。父は頷いたが黙っていた。麻痺していない方の目から、涙が一筋つたい落ちた。この娘を「なが代」と名付けたのが裏目に出たのである。その父もやがて逝ってしまった。
下に、よく間違われる「アゲハ蝶」を並べておきたい。アゲハチョウは黄色味が薄く、それを補うように、前翅の付け根のあたりの模様がキアゲハよりもはっきりしているのが分かる。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。