「ヒトの正体」を考えてゆくには、先ずは「生物としてのヒト(ホモサピエンス)が備えるにいたったもの」ということからまとめてみる必要があると思う。
次のような順序で見てゆきたい。
1 チンパンジーからヒトへ
2 高い身体能力
3 高い環境適応力
4 大脳の発達 ことに言語中枢の発達
5 知的発展の加速
6 まとめ
1 チンパンジーからヒトへ
2005年にチンパンジーのゲノム(DNAの全塩基配列)が解読されたところ、現生人類(ホモサピエンス)のそれと98.5〜99%は一致していることが判明した。言い換えれば、私たちの99%近くはチンパンジーなのである。
ただチンパンジーと比べて、ヒトには有意に進化のスピードの速い遺伝子が3%ほどあるという。この3%にこそ、私たちヒトの凄さと可塑性が潜んでいるのであろう。
大型類人猿の一種であるチンパンジーは、西部〜中部アフリカにかけての熱帯雨林からサバンナまでの多様な環境に適応して現在も生息している。体長80㎝前後、体重50㎏前後。脳の重さは400gほど。地上を移動するときは両手の指を折り曲げて地面につき、4本足で歩く(ナックルウォーク)。睡眠、休息、食事、緊急時には樹上を利用することが多い。雑食性である。
群の構成は、オスとメスとの割合が1:2〜3であり、厳しく順位を付けられたオスによって統率されている。生まれてくる率はオスメス1:1であるのにどうしてこのような割合になってしまうのかというと、大人のオスが3歳未満ほどの子供のオスを殺して、時にはこれを食べてしまうという習性があるからである。他の群を襲って子殺しをすることもあるし、自分たちの群に属する男の子を殺してしまうこともある。いずれにしても、群れは常に緊張をはらんでいて父権的である。
チンパンジーは道具を使う。棒切れを穴の中に差し入れてハチミツやアリを獲得するし、適当な石や倒木をふるって硬いものを砕いたりする。力も相当なもので、素手で自動車のフロントガラスを叩き割った例があるという。成獣の握力は300㎏にも達するという推定もあり、世界各地の動物園などでも獰猛で攻撃的な面がしばしば観られ、猛獣と認識されている。
2015年の4月、オランダの「ブルガーズ」という動物園で、チンパンジーの生態を上から見てやろうとしてカメラを搭載したドローンを飛ばしたところ、それを怪しんだチンパンジーの1頭が木の枝を振り回して、見事に撃墜してしまったという動画がインターネット上に紹介されたことがある。
筆者はそれを幾度か再生して見た。搭載カメラの目線からの映像によると、チンパンジーは右手で木の柱につかまって上体をしっかりと支え、左手に長い折れ枝を握って、はったとこちらを睨みつけている。ドローンは近づいたり遠ざかったりする。頃合いを測って素早い振り下ろしが2回3回。いきなり画面がグラグラ。低いところに静止したと思ったら、チンパンジーの顔の大写し。別に乱暴はしなかったが、得意げに目が輝いて見えた。
枝を握っている左手の部分を拡大してみた。ヒトが木刀を握るのと同じように、拇指と人差し指の間に枝を入れている。それだからかなり正確に振り回せることになる。ここで気付くと、背景にもう一頭、別の若いチンパンジーが同じように手ごろな枝を立てて、二番手として控えていた。先輩から学ぶことをするのであろう。
800万年前ごろアフリカ大陸を縦断する大地溝帯が形成され、大陸を南北に貫く背骨と切れ込みができることで気候が変わり、地溝帯の東側が次第に乾燥し、熱帯雨林がサバンナ化していったとされる。樹木がまばらになれば、その地に棲むチンパンジーたちの行動範囲は広がらざるを得ず、移動の仕方が変わり、木から木へ渡るというよりも地上をナックルウォークしては木に戻るというふうになってゆく。地上で過ごす時間が長くなり、木に登るということ、つまり身体を押し上げる動作が中殿筋の発達を促す。やがて直立二足歩行が常態になるためには、次第に発達して強力になった中殿筋がおおきな役割を果たしたとされる。
「チンパンジー」→「猿人」→「原人」→「旧人」と進化するにつれて脳が重くなり、現生人類であるヒト(ホモ・サピエンス)が出現したのは15万年前と推定されている。
現生人類は裸にするとツルンとしていて、一見は頼りなげであるが、これがなかなのものなのである。
2 高い身体能力
ヒトは、汗腺(エクリン腺)を全身に有して体温調節能力に優れており、水分を充分に摂取すれば高温環境でも激しい運動を続けることが可能である。炎天下で長距離疾走ができるのは、哺乳動物の中ではヒトの他にはウマ科などの一部に限られる。ヒトは、これをものにしようとひとたび獲物を定めたら、何日でも追跡して仕留めるというようなことがむしろ得意である。ライオンやチーターなどよりも、はるかに持続と集中を長く保てる。
棍棒を振りかぶり、時には槍を投げる。肩関節の自由度が高いことと、振りかぶったり投げたりする際のグリップがしっかりしていることが、テコの原理に沿った打撃力と方向性を的確にする。グリップを保てるのは、拇指が他の4指と向かい合うようにして太く発達しているからである。たとえば野球の選手を見ると、肩と肘と手首の関節をムチの様に連携させて、弾丸なみのボールをビームのように投げる。こんなことが出来る生物は、地球上ではほかに見られない。
「手の外科」という外科の一領域で、例えば拇指を欠損してしまったヒトの機能を回復するために、人差し指を剥がしてぐるりと方向を変え、残りの3本の指と向かい合うように整形することがある。これでまた、紐などをスムースに結べるようになる。小さなことのようであるが、拇指の位置と発達はヒトにとって大きな意味を持っている。
また、ヒトは全くの素潜り(フリーダイビング)で100m・10気圧の深さまで潜ることが出来る。標高8848mのエベレスト山にボンベなしで登頂した例もある。8000m以上はデスゾーンと呼ばれ、酸素濃度3分の1という環境下では脳神経細胞がどんどんと窒息死してゆくというのに、意欲先行というか、ヒトはこういう無茶なこともする。
記録を争うということに刺激されて、スケートを履いて高速でスピンをしたあと、ふらつきもせずに滑走を続けられるというような訓練もするし、逆落としのような助走をして長大なジャンプをしたりする。コウモリ傘ほどの布を付けただけで、空中を滑空してみせたりもする。結構な勇気もあるとしていい。
3 高い環境適応力
高い身体能力を維持するためには多様な栄養を摂取する必要がある。植物、動物、昆虫、魚介類、藻類などを幅広く雑食する。怖ろしい「火」というものを、なだめて扱うことができると最初に知ったのは、どういうヒトであったろう。火を使うことを覚えてからは、食べる対象を大きく広げることができた。加熱処理することによって、自然状態では摂取できない炭水化物やタンパク質を容易に消化できるようになり、それが脳の発達をさらに促したのだという指摘もある。熱と明るさを扱えるようになった発展は大きい。暖を取り、獣から身を守り、夜間にも行動できるようにもなった。加熱処理はやがて調理となり、さらには料理というヒトに特有な文化を生むことになった。
「衣服」についても似たような事情であろう。身体を保護するために、殊に寒さを和らげるために着想されたものと思われ、火を使うこととあいまって、活動と棲息の範囲を大きく広げたが、やがて身を飾ったり権威を示す目的でも工夫されるようになり、服飾という文化に発展させることになる。
こうした高い適応力のために、ヒトはアフリカを出て高緯度の地帯に移動を始め、4万年前ほどには世界の大部分にまで拡散していたとされる。
4 大脳の発達 ことに言語中枢の発達
ヒトの脳は体重の2%ほどを占めていて、体重に対する比率は哺乳類中で最大であるのは頷けるとしても、その2%の部分が驚くべきことに、全身で使われる酸素の20%、ブドウ糖の25%を消費している。
ヒトは奇妙な動物になってしまったと言わざるを得ない。チンパンジーの脳とどこが大きく違ってしまったかというと、チンパンジーにはかすかな萌芽的な部分としてある「言語中枢」が、しっかりと特化して発達したということであろう。
言語の操作というものは、簡単なものではない。対象を視覚なり聴覚なりで捉えただけでは、それは映像や音の一つに過ぎない。その情報を過去の「記憶」や「知識」と照合して、「判断」し、その結果を適切な「記号(言語)」に置き換え、それを組み立てて口にする「運動」に移すことが必要である。このためには、脳全体の機能と発声のための器官が、連携しながら動員されなければならない。
モズやシジュウカラもコミュニケーションをする。「高鳴き」をすることでテリトリーを宣言し、子育てを始めることを周囲に歌い上げる。チンパンジーともなると、満足、驚き、怒り、脅し、警戒などを相手に伝えるための音声は数十種類にもなる複雑なものであるらしい。ただ、例えば警戒を発信する場合であっても映像情報的であり、仲間と共有できる内容には乏しい。これに対してヒトは対象に名前を付けることをし、さらに概念の記号化をも可能にし、したがって抽象思考ができるようになり、天国や地獄、真、善、美といったものまでを他に伝えることができるようになった。
文字が発明されてからは、哲学や科学の発展に拍車がかかることになる。先人の到達したところが記録として残されるので、後から行くヒトは他の動物のように始めからやり直すのではなく、先人の積み上げた高さから登り始めることができるわけである。
5 知的発展の加速
強い欲動をけっこうなスタミナで支えられて、人類は躍進した。
人類がチンパンジーから分岐を始めたのを500万年前とし、そのときを起点にして現在に至るまでのエポックメーキングな発見や発明を、仮に100㎝の距離に置き並べてみる。
最近の新聞報道で、アフリカ・ケニアの330万年前の地層から最古の石器が発見されたと報じられていた。石器を発明するまでに34㎝を要していることになる。じりじりと進化して直立二足歩行の完成、火を使う、会話能力の獲得などをものにするまでに80㎝。現生人類(ホモ・サピエンス)の出現97㎝、衣類の発明98㎝。弓と矢98.8㎝。縒ったロープ99.4㎝。農耕・牧畜、土器、舟、通貨、銅の精錬など99.8㎝。文字99.84㎝。車輪99.88㎝。鉄の精錬99.92㎝。紙99.96㎝。黒色火薬、羅針盤99.98㎝。火縄銃99.99㎝。そのあと、蒸気機関、内燃機関、自動車、ダイナマイト、電燈、無線電信、飛行機、テレビジョン、原子爆弾、PCといった具合に人類の生活を一変させた発明がめまぐるしく目白押しになっており、いかに加速されているかがよく分かる。
どれ一つについても、その時々の脳の重さなりに、群を抜いたひらめきと忍耐力と勇気とを備えた個体あるいは集団がかかわり、しかも幸運に恵まれて生み出されたものであったろう。たとえばおそらく偶然に、何本かの草の茎を手の平の上で転がして遊んでいたヒトが、同じ方向に捩れた2本が互いに引き合うように絡み合うのに気付く。ひらめく。これが、糸に、紐に、布、縄、弦、ロープ、ケーブルに発展した。私たちの身の回りに欠かせないものの一つである。最初のヒトこそ天才であった。
6 まとめ
現生人類のDNAゲノムは、猛獣チンパンジーのそれと1%ほどしか違わない。その1%が、外観や行動様式や適応力などに怖ろしいほどの違いをもたらすに至った。従来「ヒトは大きな牙も爪も体を守る厚い毛も失ってしまったので身体的には脆弱であり、それを補うために大きく群れるようになった」と説明されるのがおおかたであったと思う。
見直せば、ヒトの裸の身体能力は高い。それを基盤にして全体の能力を爆発的に盛り上げたのは、大脳の発達ことに特異に大きく備わることになった言語中枢の働きによるところが大きい。たとえば火を使うことを知ることによって格段に豊かに摂取することができるようになった栄養が、激しくエネルギーを消費する大脳をさらに肥大させ、それが思考能力や創造の意欲を高めるという循環を作り上げた。
肥大した循環は、核兵器、地球温暖化、AI、という臨界に達しつつある。この危機を考えるときに、「ヒトの身体能力は、猛獣チンパンジーよりも、おそらく高い」という認識を根底に持つ必要がある。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。
毎回、面白い話を有り難う。先生が生徒会会長で活躍していた話は、はじめて聞きました。「谷」に住んでいたにしてはスケールの大きい発想を持っておられた事に驚いています。というよりは、小生の怠慢でしょう。
精神科医になった経緯、芥川賞、サカキバラとの付き合いそして今回の動物や鳥に関する綿密な観察と知識等々をまとめたブログを僕の小さなハートの中でどの様につなぎ合わせても一本の線にはならないのです。多分、豊富な知識だけでなく、想像を絶する思考回路に常人の思考法では追いつけないのでしょう。
あるいは、想像すると子供の頃、我々が家庭で桃太郎や金太郎の絵本を読んでいた頃、すでにシートンの動物記あたりを読んでいたのでしょう。特に貴君は優秀な兄弟が上におられたからあらゆる情報っや知識にに接していた筈で、羨ましい限りです。ともあれ、次回も期待しています。
僕に近況は、植物人間を材料にしてどのあたりで自然死を選択すればいいか?等と言う研究をしていますが、「尊厳」の位置が定まらずに苦労しています。
今度の武田君のパーテイには愚妻を連れて行きますが、その時、貴君の幅広い見識について話題になるでしょう。
皆さんに会える事を楽しみにしています。奥様によろしくお伝え下さい。
丁寧で暖かいコメントをありがとうございます。
いろいろと考えさせられました。最近は私も「尊厳死」について考えることがあります。
柄にもなく「エンディング・ノート」というのを書こうとしたら、「延命治療に対する意思表示」というところで、立ち止まってしまいました。
思いを簡単明瞭にまとめようとするのですが、なるほど云われる通り「尊厳の位置が定まらない」のです。どこかが漏れてしまうのです。
こんどお会いしたら、これまでの蓄積を教示ください。
いよいよの健勝と発展をお祈りいたします。