「多摩動物園」には、冬に訪れるのがおすすめです。
寒さに強い動物たち、トラ、ユキヒョウ、オオカミなどが生き生きとしており、ことにオオカミたちが放たれている広場に正午きっかりに立つと、おりから動物園全体に流される音楽に呼応して、オオカミが揃って正座し、顎を中天に向け、遠吠えを繰り返すのを聞くことができます。どういうわけか、ひととき魂を揺さぶられます。
蒙古の馬
この冬、オオカミの広場の奥に「蒙古の馬」というコーナーがあるのに気が付きました。馬の群れを見れば見るほど、かつて私が幼かったころにおなじみだった「木曽馬」にそっくりであるのに驚きました。
日本の馬は、古墳時代にモンゴルから朝鮮半島を経て移入されたのだそうですが、それぞれに変遷をへたものの、いわば陸の孤島のような木曾の山峡に残された一族が、原種にもっとも近いものとして残り続けたのでありましょう。
木曽馬
さて「木曽馬」は、小柄で、背骨と鼻面が強めにしゃくれており、タテガミはそろって黒いザンバラ。見栄えはもうひとつ颯爽としないけれど、丈夫でおとなしく、力持ちでした。
桑の木の根を芯にして、綿入れの刺し子で整えられた質素な和鞍。その両側をどっさり膨らませて山道をたどる運搬。棚田で小回りの利く田起こし。・・・この馬の忍耐力にこそぴったりでした。
往時はたいていの農家に、囲炉裏の切られている板の間と向かい合う土間に作られた馬小屋に、つまり、おなじ母屋の屋根の下に、一頭か二頭ずつ大切に飼われておりました。農家の薄暗い土間に踏み入って案内を乞うと、「ほーい」といわんばかりに一家を代表して馬が挨拶に出ることもよくありました。
馬市
春と秋の二回、私たちの町に馬市が立ちました。「日本三大馬市」のひとつと言われたものです。
谷中のしかるべき若駒が集められ、町はずれの河原ににわかに作られた囲いに、十頭ぐらいずつ入れられます。こぶりな家族として暮らしていたものを裂いて、いきなり集団の中に入れるものだから、みんなが神経をたかぶらせ、怯えた目付きをして落ち着きません。
厩舎と厩舎の間が1メートルほど開いており、両側から馬たちが首を出して飼葉を食んでいました。ボクリボクリと顎を擦り合わせている首の列。そのあいだを通り抜けるのが子どもたちの度胸試しでした。私も駆け抜けたことがあります。なんどかは成功しましたが、とうとうマージャンのパイのような前歯を額に当てられ、跳ね飛ばされるように尻餅をついてしまったことがあります。
「食事中の動物にはうっかり近づかないようにする」という常識をようやく学んだわけです。なんと、歯の形をした傷跡がつい先ごろまで額に残っていました。
旅回りのサーカス
馬市の雰囲気に欠かせないものに、旅回りのサーカスがありました。幕間には「天然の美」などのジンタをやります。
これを聞きながら、農夫が競りに出す馬に最後の化粧をします。せめて毛並みをそろえ、タテガミをきちんと分けてやり、ダニなどが食いついていれば、掘り出してタバコのヤニを擦り込んでやります。ダニというやつは、私も何度か取り付かれたことがありますが、尻のほうは簡単にすっこぬけて、いかにもまいりましたというふうに血を大仰に流してみせますが、頭だけは皮膚の下にしっかり食い入っていて、すぐに胴体を再生してしまうというなかなかの曲者なのです。
化粧が終わると、バクロウたちが群がっている競り場の囲いの中を引き回します。調子の怪しい「越後獅子」や「天然の美」の伴奏で哀愁ばかりがもりあがり、クツワを取る農夫たちは自分に値が付けられるような様子で、なかには頬をぬらしながら馬に引かれているような人も居ました。
「さあ、二歳半の雄だ。五百両からあ。はい五百五十、五百七十.六百う。六百五十.ほい七百両! ないか。七百二十・・・こら、そこの子ども、邪魔だよ。お、七百五十・・・七百五十両!」
チョンと拍子木が打たれます。
木曾の馬市は、戦後にわかに淋しくなり、数年のうちに廃れてしまいました。農業というもののやりかたが屈折的に変化したからです。
馬糞と堆肥は農家にとって大切な肥料であり、馬力はあらゆる作業にさいして欠かせないものでしたが、化学肥料が出回るようになり、共同して耕運機が買い入れられるようになり、農薬も投入されるようになりました。
木曾川の上流にはカジカと呼ばれていた、海のハゼとカサゴの中間のような美味な魚が棲息していましたが、これがわずか二年か三年のあいだにそれこそ掃き捨てられたように一匹も見られなくなってしまいました。ある農薬が、この魚のどこか急所を直撃したのでありましょう。
飼い葉をつくるよりも、燃料を買うほうが手っ取り早いし、冬のあいだ、放っておいても機械は餓死する気遣いがありません。そうしたわけで、最盛期八千頭といわれた木曾馬の数は年を追って減り、昭和五十年代の新聞で、純粋な木曽馬はほぼ絶滅したという記事を読んだことがあります。
馬頭観世音
木曽馬が滅んでゆくにつれ、街道や山道のいたるところに見られた大小の「馬頭観世音」の石像もつぎつぎに姿を消してゆきました。「酷道二十号線」と呼ばれていた中仙道が拡張され、「国道二十号」にふさわしく舗装されだした頃からはさらにテンポが速くなりました。
そんなことになるよりも、何年か前の話です。
私たちの畑に行く途中、上野というところの山側に、ひときわ大きな馬頭観世音が立っており、石像の前に御影石が平らに置かれていて、さしわたし六十センチほどの窪みには、いつも緑色にぬめった水がたまっておりました。
そのころどうしたことか、私の手にたくさんのイボができ、いちばん大きいのは右手の甲の外側に盛り上がってきたやつで、一センチ半四方ほどもあり、まるでカリフラワーのように見える気味がわるいほどの代物でした。
「そいつを取ってやろう」と兄の一人が言い、私を背後からがっしりと押さえこんでから、イボの上になにか強烈な薬品を、一滴、二滴、としたたらせました。髪の毛が焦げるような臭いとともに白い煙が立ちのぼり、だんだん痛くなるようでもあります。・・・
この兄と私とはかなり歳が離れていて、体格が違います。びくりとも動けませんでした。たしかにイボは融けてなくなりましたが、そのあとにおどろしい焼け痕がのこり、これは今になっても消えようとしません。兄が使った薬品は濃硝酸だったのです。
祖母がひどく怒りました。孫の手を包んで涙を流し、「上野の観音様のところへ行って腐り水のなかに手を漬けろ」と言いました。
私は仕事の分担が終わってから馬頭観音に小走りで通い、祖母の教えてくれた願い事をとなえながら、くされた水の中に手を漬けました。そうして二週間ほどすると、手の甲を被っていたたくさんのイボが消え始めたのです。
こんなことでも、私は木曾馬に恩をほどこされています。
彼らは静かに進化のひとつの枝先から身を引いて行こうとしております。たとえばサラブレッドのように人間の賭け事の道具となりはてる屈辱を忍ぶよりも、一掃、幻のように地上から姿を消した方が、木曾馬という種族の歴史にとってははるかに名誉であるかもしれません。
彼らが絶滅に瀕しているという新聞の報道を読んだ日の夜、私は、谷に沿っている鉄道の無蓋の貨車で、そろって青い色をした木曽馬たちが運ばれてゆく夢にうなされました。
また夢
夢にうなされたことがあってから、さらに何年もが経ち、私は東京に出て生活しておりました。
秋のある日、唐突に例の兄から遠い電話があって、「日展に入選したから見てくれ。彫刻の部門だ」とのことでした。
上野の都美術館に出かけ、まっすぐ地下に向かいました。たくさんの彫刻が並べられています。二番目の部屋の隅にコンクリートブロックがたたみ一枚分ほど敷かれてい、その上に馬が載せられていました。
「木曾馬」と題され、兄の名前が書かれています。肩の高さがたかだか八十センチばかりの地味な作品でした。ケヤキから彫り出したものでしたろう。力んではおらず、馬はゆったりと大地に重さをあずけて、わずかに首を左にひねって視線を遠くに投げています。タテガミの大部分はにわか雨に濡れたようになって片側に流れていました。
私はまず真横からじっとため、それから前に回り、さらにゆっくりと臀部のほうに移動し、そして満足しました。たしかに、少年のころに馴染んだ生き物に間違いありませんでした。滅んでゆこうとしている純血種とされる木曾馬が目の前にいました。
私たち兄弟はそれぞれに谷を出て、それぞれの方面に離れていったのですが、あの食糧難の日々の糧のことを負わされ、多少気負いすぎたところがあったとはいえ、責任を果たしたのち、兄は御嶽山の裾野の開拓を志しました。
激しい労働のあいま、ひとり、何体も何体もの木曾馬を彫り続けていたのです。その集中はなんによって保たれたものだろう。じっと腰をすえてひとつのものを、だから、あのころの全ての光と影を、弟たちの誰よりも深い目で見続けてきたものにちがいありません。その証拠が目の前にあります。私は胸が熱くなりました。
家に帰り、その夜、お祝いの手紙を書きました。そしてその夜、水を張られた小さな田を円を描きながらボクリボクリと起こしている母駒と、できるだけその近くに居ようとアゼを言ったり来たりしている子馬の夢を見ました。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。