生命は なぜ 生きようとするのだろう

「砂漠は生きている」というウォルト・ディズニーの映画があった。「地球は青かった」とユーリ・ガガーリンは宇宙空間から報告した。
「空に飛鳥なく地に走獣なし」と詠われているような乾燥の大地にも生命は躍動している。一方、この球体の7割を占めて全体を青く輝かせている海洋は生命のスープである。

生命の逞しさ

その地球は、かつて数億年もの間、全球が凍結して真っ白く輝き続けていたことがあるという。そうした数億年をも生命の一部は耐えて生き延び、さまざまに分かれ、満ち満ちた。
あやふやな単細胞らしきものから発展した、ふてぶてしいほどの、この逞しさはどうだろう。

教科書などに乗っている細胞の構造の模式図をみると、核、ミトコンドリア、ゴルジ体、リボソーム、リゾソームといった装置がゆったりと配置されて書かれているが、生きている実の細胞というものは、それらが中身いっぱいのシュウマイさながらに詰め込まれて、はち切れんばかりにみずみずしく張りつめている
ヒトともなれば、そうした細胞の1個が持っているDNAを引き延ばすとおよそ2mになり、全身は60兆個ほどの細胞でできあがっているから、ヒト1人は120兆mの長さの遺伝情報をDNAという形で持っていることになる。なんと、地球と月の間を17万回往復する長さである。
ヒトとチンパンジーとの遺伝子ゲノムの差1%というのは、DNAの長さに置き換えると地球と月の間1700回往復分ということになり、しかもこの部分は特に変異しやすい情報を積んでいるはずである。1%の差は決して小さくはないと言えるかもしれない。

いったい生命というものは、なにゆえに生き、なにゆえに進化ということをするのだろう。

草原に降る雨。そこをなお燃え拡がろうとしている野火を目に浮かべてみると視覚的に捉えやすいように思う。
雨に冷やされて消えてしまう前に、いま燃えている草は次の草にエネルギーを与えてしかるべく温度を上げてやらなければならない。炎を引き渡すことができたときに、自分は燃え尽きて元の土に戻る。幾種類かの元素に戻って鎮まり、また何時の日かの出番を待つことになる。そうした橋渡しの働きをする一本一本の草が、或る個体の生と死である。

雨の下という不利のなかで炎がどこまでも続くようにするためには、個は最大限に燃えさかって、少しでも前に勝る新しいエネルギーを、つまり加速を、次に伝えてやる工夫をする必要がある。
雨は想定外に激しくなるかもしれない。さまざまな変異が発せられ、ほとんどがあえなく失敗するけれども、奇跡的な成功を得るためには無数の試行が必要なのであるけれども、そのうちのどれかが豪雨に耐えることができるメカニズムをもたらすものとなる。そうしたことが無数に繰り返されてきた。これが進化である。
地球の歴史をたどると、環境の激しい変化によって95%もの生命の炎が消えてしまったことが幾度かあったという。そうした危機を乗り越えて、生命はしぶとく発展してきた。「生命は生命を継ぐために生きる」としか思いようがない。

最期の疑問が残る。どうして生命は生命を加速しようとするのだろう。

どうして生命は生命を加速するのだろう。
私は思う。
これは誰の意志によるものでもない。宇宙は超微細で超強力ななにものかの「ゆらぎ」から始まり、なお知られざるエネルギーに満ちて膨張を続けている。そのほんの片隅での私たちの営みも、その全てが大きく包み込まれて「否も応もなく」加速されているのである。
加速」こそ宇宙の本質なのであり、そのもっとも精妙な結集が「生きる」ということの本態であると思う。この超絶な巡り合わせを畏敬し合いたいと思う。「生への畏敬」とは、そうしたことの総体であるに違いない。

永遠に拡大を続けながらも互いに網状につながって、私たちを生かしてくれている荘厳な宇宙の構造体を想うとき、たとえば「覇権主義」「白人至上主義」とやらの何という悲しい小ささであろう。それらは、森羅万象ただ一度の在りようでいながら、互いにかかわらざるは無しということを感じる心を閉ざしてしまっているのである。
謙虚に開け放って、心はいつまでもみずみずしくありたい。

 

 

ロウボウ

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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