思い出の 「クマバチ」

連想

「クマバチ」というインプットがあると、私の連想は「クマバチ」→「藤の花」→「蔵の窓に腰を掛けている二人の米兵」→「母」というふうに一瞬で繋がります。何年も何年も前から、その連鎖は変わっていません。

クマバチあるいはクマンバチ

誰が言い始めたものか、クマバチとは上手く名付けたものです。


ずんぐりむっくりした大きなハチが低い羽音を響かせて飛んでいる姿は、ちょっと見では恐ろし気です。「まず、ヒトを襲うことはない」と聞かされていても、そう簡単には信じられないというのが普通でしょう。毛むくじゃらでもあります。落ち着いて眺めると、なるほど、太ったクマが黄色いチャンチャンコを着て飛び回っているように見えてきます。この頃の人気キャラ「クマモン」に通ずるような愛嬌が感じられるようになります。木曾谷の子供たちは「クマンバチ」呼んでいました。口に出してみてください。「クマバチ」よりも「クマンバチ」の方が滑らかです。

藤の花が大好き

クマンバチといえば、「藤の花」です。
木曽川沿いにある故郷の家には、土蔵の白壁を巡らした藤棚があって、春の終わり頃には白い花がたわわに垂れ下がりました。山国の春は遅くやって来て、すぐに夏に移ってゆきます。見上げると、花の房の間には無数の青い空がちりばめられていて、その間をクマンバチが出たり入ったりしており、壁の方には観音開きに開かれた蔵の窓が見えました。甘い香りに満たされた特別な空間でした。

蔵の窓に腰かけた二人の米兵

そして「蔵の窓」というと、遠い日の二人の米兵の姿が目に浮かびます。
敗戦直後の残暑の頃、就学前の子供だった私が山から戻ると、蔵の二階の窓から脚を道路側に投げ出して座っている見慣れない姿がありました。ラクダ色の短袖シャツに同じ色のGI帽をかぶった二人が声高に笑い合っている様子は、観音開きの扉を飾りにした舞台のように、周囲から切り取られて浮かび上がっていました。
彼らはジープかなにかで立ち去りましたが、大人たちの話では、「戦争遂行のために使われたであろう計算機というものを山の中まで探しに来た」ということでした。そういえば、戦局がいよいよ押し迫ったころ、谷の中学校の体育館に戦闘機製造工場を疎開させようという段取りが進んでいたようで、のちに、ジュラルミンの板の梱包が破れて一部が散乱したままになっているのを見て、子どもたちはいぶかしんだものです。

アメリカ兵が蔵の中を見て行った日、母は不機嫌でした。「他人の蔵の中を覗きまわるというのは、まして蔵の窓に腰を掛けるとは、許しがたい無礼だ」というわけです。
母はアメリカがとりわけて嫌いだったわけではありません。嫌いといえば、戦時中の日本の国も嫌いでした。
戦争が長引くと、肝心の鉄が底をついてきたので、国は国民に身の回りの鉄を供出するように命じました。とりあえず使っていない鍋や釜はもちろん、ついには蔵の窓に嵌め込んである鉄格子までも切り取って差し出すように、非国民という言葉をこんなところにまで用意して圧力をかけました。

母は蔵の鉄格子を差し出すことを拒否しました。向こう三軒両隣からさまざまに説得されたのですが、頑として応じませんでした。お国のためを考えない身勝手な人ということになりました。

ところが母は、「橋を建て替え、その機会に道を広くしたいので敷地を細長く分けてくれまいか」という話を役場からもちかけられた時、あっさりと無償での提供を申し出ました。終戦から5年ほど経ったころのことです。
さらに戦後10年ごろには、「高等学校への通学路を広げたい」という話にも無償で応じました。

母が鉄格子を切り取られることを嫌がったのは、鉄そのものが惜しかったからではありません。一人娘で育って婿を迎えた身であったので、蔵は親から託されたもの象徴であり、強い思い入れがあり、蔵の姿が少しでも変わるのを許せなかったからだろうと思われます。

そんな母はとおに逝っています。私も年を取りました。
「やっぱりここが良い。ここからの景色が一番だよ」
母を思い出す度に、呟く声が聞こえるようです。「一番の景色」とは、台所の窓の上側から斜に見える何の変哲もない山の端なのです。
母は、何を自分に言い聞かせていたのでしょう。

 

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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