切れ易いヒト+車+高速=移動地獄

1馬力

 少年だった頃、私は兄たちと一緒に1頭の馬を飼わされたことがある。敗戦後の食糧難を乗り越えるためには、子供たちを一丸として農作業に当たらしめるのが上策であるとう父の思い付きからである。
 この馬がひとたび暴れ出すと、私たちには命がけであった。騎乗しているときに暴れられたら、一緒に砕ける覚悟で屏風のように立ちふさがっている崖に向えと教えられた。1馬力でさえこれである。
 馬と自動車については、「人の正体」というカテゴリーの中で「大きな異常に何時しか流されて・・・」という記事に書いたことがあるけれど・・・

60馬力

 この頃の軽自動車60馬力ほどのエンジンを搭載している。ハンドルの前に60頭の馬が黒々と密集して自分を牽引している光景を想像する。馬蹄の響きや汗の臭いだけでも怖ろしい。策具で繋がれた60頭の馬が学童の列に暴れ込んだとする。たくさんの子供たちが犠牲になるのは当たり前であろう。

400馬力

 仮に私が、400馬力のエンジンで駆動されている観光バスのドライバーだったとする。乗客を満載して公道をひた走っているとき、ふいに横道から人が飛び出してきたとする。その時、急ブレーキを踏むべきか、直進すべきか。
 急ブレーキをかければ、横転なども起こり得て複数の死者さえ生ずるかもしれないけれど、それは不確定である。直進すれば、路上の人の命をまず奪ってしまう。が、1人である・・・どうすべきか。あれこれ想像していると寒気がしてくる。

高速道路

 エネルギーは速力の2乗に比例する。高速道路ともなると、さらに怖ろしいことになる。
 私の妻は、運動エネルギーがどうこうといったことにはピンとこない方であるが、こんなことを言ったことがある。 「映画を見ても分かるじゃない。ローマの戦車の・・・あれ4頭か5頭の馬で引いているんでしょ。高速では、100頭・200頭・300頭の馬が牽いてる戦車があとからあとから走っているんだから。何時だってとんでもないことが起こるに決まっているわよ」
 かなり前のアカデミー賞映画「ベンハー」の見せ場であった戦車競技のスペクタクルシーンを思い出しているらしかった。その頃から、私が高速道路に入るのを頑として反対するようになっている。

高速での「あおり運転」

 東名高速で、そうとうの速度違反を繰り返しながら執拗に「あおり運転」を仕掛け続けた男がいる。動機は駐車マナーを注意されたことへの逆恨み。アクセルとブレーキとハンドルで自分と車をコントロールしているつもりだったらしいが、とんでもない。こうなると戦車どころか、車に魂を飲み込まれた正体不明の存在に変わってしまっている。
 相手は一家4人が乗ったワゴン車だった。何度か走行を妨害してから、男はワゴン車の前に割り込んで追い越し車線に停車させ、一家の主人に罵声を浴びせたあげくに車外に引きずり出そうとした。東名高速の追い越し車線である。たちまち1台の大型トラックが勢いを殺しきれずに追突し、一家の主人とその妻が死亡し、娘2人が怪我を負った。平成29年(2017)年6月のことであった。

危険運転致死傷罪

 男は「危険運転致死傷罪」として立件され、今年(2018)12月から裁判員裁判が開始された。その初回公判で弁護側は無罪を主張した。私にはよく分からないが、次のような趣旨であろう。
 ・・・加害者は、その時、車を運転していなかった。自分の車を停車させて(運転を終わって)外に降り立っていた。その後に死傷事故が起こったのであるから、「・・・他の車を妨害する目的で・・・自動車を運転する行為・・・」とある法の条文によっては、危険運転致死傷罪を適用できない・・・

 私にしてみれば、条文の解釈などは玄人に任すことにしたい。おかしなところがあれば、しかるべき識者が集まって改定なりをしてもらいたい。
 その前に現実がある。4人が死傷させられたのは、高速道路の追い越し車線で停車していたからである。そんなところで停車していたのは一家心中を企ったからではない。強制されたからである。路肩に移動することすらできなかった。何に強制されたのか。一人の男の逆切れによる執拗な走行妨害のためである。これがなければ、あの惨劇は起こらなかった。つまり、男の「あおり運転」は、始めから終わりまで切れ目なく、惨劇の直接かつ全ての原因である。後続のトラックが充分な車間距離を取っていなかったらしいことを除けば・・・。

自動車というもの

 チャイルドシートというものがあり、6歳未満の幼児は、たとえ母親が同乗していても、これに固縛することが法によって義務付けられている。母親に抱かれていたのでは危険度が増すのである。異様なことである。
 ヒトの歴史を通じて、乳幼児にとって一番安全な状態は、母の胸の中に抱えられているというものであったであろう。たとえば戦場のような危険な場面ではなおさらのこと、幼子は本能的に母親にすがり付いたし、母も我が子を掻き抱いた。母親に抱かれていると危険が増すというのは異様な状況であり、私たちが日常に使っている自動車の中の空間というものがそうしたものの一つなのである。こうした不自然に、私たちはつくづく鈍感になってしまっている。

 私はまたまた怖ろしくなってしまった。日本中でそれこそ日に何百件となく生じている切れ易さによるトラブルが、自動車と結び付くと大惨事を惹起する。さらに高速道路という舞台が加わると、移動する地獄さながらの光景を繰り広げることがある。
 自我の脆弱な人ほど車というものに飲み込まれやすい。風をさえぎり、柔らかく内装され、快適に空調されていると、その正体を見失いがちである。目の前に何十頭何百頭の馬が出す力に匹敵するエンジンが白熱しながらうなりを上げており、自分が重戦車なみのエネルギーとともに突進していることを忘れがちである。ときに自分が死神に変身しつつあるのに気付きにくくなる。
 自動車というものは、私たちの生理にまで食い入るようになってしまっている。法を整えるのもいいだろうけれど、こうしたことについてもじっくりと考えなければいけない時期であると思うのである。 

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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