わたしの子供たちへ

  わたしの子供たちへ      
                   
年老いた私が ある日 今までの私と違っていても
どうか 私のそのままを見てほしい
服に食べ物をこぼしたり 靴ひもを結び忘れても
同じ話を 何度も何度も繰り返しても
どうか いらだたずにいてほしい・・・
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本は
結末はいつも同じでも 私たちの心を平和にしてくれた

悲しいことではないんだ 薄まってゆくように見える私の心へ
励ましのまなざしを向けてほしい
楽しいひと時に 私がおもわず下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのをいやがるときには 思い出してほしい・・・
あなたを追い回し いろんなわけを見つけて
いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを

悲しいことではないんだ 旅立ちの準備をしている私に
祝福の祈りを捧げてほしい
いずれ歯も弱り 飲み込むことさえ難しくなるかもしれない
脚も衰えて立ち上がることさえ出来なくなるかもしれない・・・
あなたが 幼い脚で立ち上がろうとして私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの手を握らせてほしい

あなたを抱きしめる力が無いのを知るのはつらいことだけど
私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないでほしい
私を分かろうとする心だけを持っていてほしい
それだけで それだけで きっと 私には勇気がわいてくる
あなたの人生の始まりに私が付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ付き添ってほしい・・・
あなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと
あなたへの変わらぬ愛をもって その時も笑顔で応えたい

私の子供たちへ
愛する子供たちへ

何年も前になる。知人の奥様からプリントをいただいた。原作:不詳、訳・作曲:角 智織、樋口亨一とあった。キリスト教にゆかりのあるものであるらしい。心を打たれた。筆者が勝手ながら一部を変えたものです。

しあわせ続けよう

平和こそ力。あと二十年ほどを誤らなければ、内外に誇れる到達となるでしょう。
オリンピックの金メダル何万個、何十万個。そんなものよりもはるかに価値があるみんなの積み上げ。心に新しい力が蘇ってくるような目標です。
「大きな古時計」のメロディでどうぞ・・・。

一 今日はサシミが食べられる  ミカンもあるし
  小さな梅ノ木咲いていて   洗濯日和だし
  夜には娘が来てくれる    明日は働ける
  そのまた次の日も      しあわせ続けよう
  ※百年休まずに行ったり来たり  お前と一緒に行ったり来たり
   そのまた次の日も   しあわせ続けよう

二 四十五十は洟たれよ     六十やっと根が生えて
  神戸のおばちゃん七十で   ホームを立ち上げた
  七十八十働き盛り      死神はお断り
  百になったら晴れた朝    めでたくピンコロリ
   ※くりかえし

心につながる 「ウソ」

 ウソという小鳥がいる。スズメよりも少し大きめで、全体がふっくりと丸みをおびており、微妙に濃淡のある灰色の服をまとっている。頬のあたりに別の色気がまじることから、私たちは、アオウソ、アカウソ、と二種類に分けて呼んでいた。アカウソなどというと、「真っ赤な嘘」というのが連想されるが、ウソたちはクチバシからして短く太く、スズメやシジュウカラやヒヨドリのような小賢しいというようなところはまるでなく、おっとりとしている。
 おおかた、人里はなれた高山の原生林ともいうべきところに棲息していて、民家の近くに姿を見せるのは一年のうちでわずかの数週間、早春の一時期だけだった。二月の終りから三月いっぱい、桜の新芽が動き出したころ、餌の少ない山奥から降りてくる。
 まだ根雪が残っている林を歩いているとき、薄桃色をしたチリのようなものがドーナツ状に散乱している場所にでくわしたら、その中心に野生の桜の木があることが知れ、さらにちらちらと落ちつつあるものが見えたなら、今その桜の木の枝にはウソたちが集まっているのだと知られる。薄桃色をしたチリは、冬の間じっと芽を守っていた硬い皮なのである。ウソたちは、私たちが竹の子をむいて中身だけを食べるのとおなじことをする。あまり器用そうには見えないクチバシのなかで、いそがしく木の芽を転がすだけでこれをやる。 “心につながる 「ウソ」” の続きを読む

チチバナ

 照準を通して十五メートルほど先に、小さな標的が見える。そのはるか向こうは木曾川の対岸の石垣で、チチバナが満開に垂れ下がって豪華な緞帳をつくっている。あざやかな黄一色を背景に、白い的がくっきりと浮かび上がっている。
 私は窓枠に空気銃を乗せて標的を狙っている。まず、きっちりと中心をとらえ、息をつめ、それからわずかに左下に照準をずらせた。この銃にはしたたかな癖があったからである。

 中折れ式の小さな空気銃。台尻からすこし上のところに、月と狩のローマの女神ダイアナの像が彫りこんであった。長いローブのようなものをまとった女神は左腕を下ろして、おそらく何万年も愛用してきた弓と矢を惜しげもなく足元に投げ捨て、右手に高々と銃をかかげている。このポーズから察するところ、ダイアナは移り気な女神様のように思われる。
 この銃は次兄が買ってもらったものだそうだ。はじめのうちは狙ったとおりに弾丸が飛んだが、いつのころからか微妙に的を外れるようになった。欠陥に気付いた次兄は、むんずと銃身をひっつかんで逆手に振り上げ、そのへんの立木に叩きつけた。銃身が曲がっているなどということは、持ち前の潔癖性がとてもゆるさなかったのである。まるで西部劇映画の一場面のようであったろうが、台尻に大きなひびが走り、弾丸の通り道は決定的に曲がってしまった。
 空気銃の使用権は三番目の兄に譲られることになった。飛び道具というものにとってははなはだ困った癖のために、兄たちは使用権にあまり固執しなかったので、銃は三番手、四番手、とだいたい一年半ぐらいで通過し、しだいに私の手に近づいて来つつはあった。 “チチバナ” の続きを読む

迷い出た魂を元に納める方法

 木曾の実家に「ミソ蔵」というのがあった。自家製の味噌を入れた大きな樽ばかりでなく、穀類をはじめ、ジャガイモ、サツマイモ、ショウガなどが貯蔵されていた。蔵というからには、扉は結構に頑丈なものだったが、ネズミが入り込む。人が出たり入ったりする時の隙を狙うらしい。
 祖母が、アオダイショウの見込みのありそうなのをひとつがい、お百姓に吟味してもらって、ミソ蔵のなかに放したのを知って、五歳だった私はわなないた。・・・
じっくり選ばれたアオダイショウが太ったネズミをたくさん食べたなら、二・三年のうちにオロチほどに大きくなるかも分からない・・・。

「なんてことを!」
 化け物は化け物を呼び合うそうだから、これは大変なことである。 “迷い出た魂を元に納める方法” の続きを読む