小品でありながら
「方丈記」は全編で400字詰原稿用紙25枚ばかりの小品でありながら、私にとっては生涯で読んだ本の中で一二を争うほどに印象深いものになっています。
作者の「鴨長明」は琵琶や琴の名手でもあったせいか、諸行無常を結晶させたような文章が深いリズムを伴っており、読み進んでいるうちに私自身の声が自然に引き出されて音読に移っている・・・といった風です。
天災人災のルポ
方丈記は「災害の文学」と呼ばれることがあるそうです。
鴨長明は何事も探求して極めようとする徹底性、冷徹な観察力、結構な行動力を備えた人でした。
そんな人が21歳の若さで相続争いに敗れてから、30年間も、平安末期の末法感漂う洛中洛外を転々としたのですから、凄い物を見聞することになります。
「安元の大火」「治承の竜巻」「治承の遷都」「養和の大飢饉」「養和の大地震」・・・群がり起こった天災人災の実見禄は、実際の体験から何十年も温められてから表わされたものであるだけに、簡潔でありながら叙事詩を読むような緊迫感があり、読んでいる方の緊張も次第に高まって、総毛立つような場面さえいくつかあります。
徹底した隠棲と清貧
一方、方丈記は「住居の文学」とも言われることがあるそうです。
荒れる帝都での年月を重ねるごとに、長明の諸行無常という構えはいよいよ強固なものとなり、和歌、琵琶、琴の達人でありながら自分のこれまでの生き様は本意ではなかったとして、50歳で唐突に出家して隠栖し、54歳時に、長い間温めていたアイデアを叶えるようにして、組み立て式の草庵(方丈)を設計します。
本邦最初のプレハブ住宅とも言うべきものの説明が簡略ながら実に的確で、後の人が再現してみようとすると、誰もが同じ結果になるようです。私も試みてみたのですが、やはり先輩方のスケッチをなぞるだけになってしまいました。
草庵とともに人里離れたところに移り棲んで、さらに無駄を殺ぎ落とした隠棲の自給自足を始めます。4年後の58歳で著された方丈記は、前半の緊迫のルポルタージュ風から一転して、草庵での清貧の快適さを詠い上げます。近くの森番の息子である10歳の童と連れ立って、時には「笠取山」などからの景勝を楽しみ、野草を摘み、落穂拾いなどをする様子などは、わけても伸び伸びとして楽しげです。このような楽しさが様々に繰り返して語られるので、挫折に終わった半生への無念を捻じ伏せようとして力んでいるのかとすら感じられてくるほどです。
不思議
方丈記は「災害の文学」「住居の文学」と評されますが、これに「自然食の文学」あるいは「アウトドアの文学」とでもいうものが加わって三冠に輝く・・・残念ながら、それは成りませんでした。
風流三昧の数寄を高らかに詠っているものの、それを可能にする基盤、つまり飢えや寒さを凌ぐための工夫や労作についてはあまり語ろうとしていません。当方としては、そのあたりも正確に知りたいのですが・・・不思議です。
副食についてはその材料として、セリ、ムカゴ、コケモモ、ヨメナといった名前が出てくるので、それらから想像すれば、季節の旬ごとに、ツクシ、ヨモギ、ノビル、フキ、コゴミ、イタドリといった野草や、タケノコ、クワノミ、アケビ、サルナシ、イチゴ、キノコ、ヤマイモなどを最大限に活用したことだろうと推察されます。一部は冬季の一汁一菜の具材のために塩漬けにして保存したでありましょう。
けれど、肝心の主食については「・・・峰の木の実、わづかに命をつぐばかりなり。・・・糧乏しければ・・・」とあるだけで、何をどのように加工して食の中心にしたのかは書かれていません。峰の木の実とはクリ、ドングリ、トチなどのことでしょう。ドングリことにトチは、縄文時代の人々がしたように、大変な手間をかけてあくぬきをしないと食べられません。草庵の南にしつらえた岩の桶に掛樋で水を引いて、長時間の水抜きを要したに違いなく、それを煮て炒って、乾燥させて保存するのです。気の抜けない作業が幾日も続いたはずです。それらについては何も触れられていません。
言うまでもなく、塩は欠くことのできない物です。長明は54歳から没する62歳までの8年間を仙人のように暮らしましたが、「・・・おのづから都に出でて乞匈となれる事を恥ずといえども・・・」と記しているように、稀には京まで足を伸ばしました。塩を調達するのが目的であったろうと思われます。
庵を結んだあたりは標高160メートルほどであるらしいけれど、そもそも京都盆地の夏の暑さと冬の寒さは定評のあるところです。長明はそれを「藤の衣」「麻の衾」で凌いだと書いています。藤の衣というのは、藤の蔓の繊維をほぐして編み上げた衣のこと。また「・・・埋み火をかきおこして、老のねざめの友とす」とありますから、冬場には寝床の近くに囲炉裏のようなものがしつらえられていたかもしれません。
生き長らえること、それ自体が難行苦行の積み重ねであったはずです。
最終の一転
仏道の修行に「山籠り」というのがあり、世俗との関わりを断って隠遁生活を一定期間続ける難行なのだそうです。
鴨長明が実践した隠棲生活・・・ぎりぎりの自給自足を懸命に支え、そこに間隙を見出しては花鳥風月や音曲を楽しむ・・・これこそは推奨されるべき仏道修行「山籠もり」そのものであるはずです。
ところが方丈記の最終段に至って突如、長明は隠棲の日々に強い疑念を覚え、草庵と周辺の閑寂にあまりに愛着しているのは何事にも執心してはならぬという仏の教えに背いたことではないか、という激しい自省を記すことになります。
・・・一期の月影傾きて・・・たちまち三途の闇に向わんとす。・・・仏の教え給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。今草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。いかが要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。・・・
(・・・一度の生涯も傾いて・・・いよいよ私も三途の河原を渡ろうとしている。・・・そもそも仏が教えている要点は、何ごとにつけ執心してはならないということである。してみれば今、こうして私が草庵の生活や静けさに深く入れ込んでこだわるのは、仏道の修行に反することなのである。どうでもいいような楽しみをあれこれと述べ立てて、あたら時を無駄にするのは・・・)
答えを示さないまま、年月日を記して終わっています。
宇宙ロケットを手掛けさせてみたかった
長明は、ほどの良さというような曖昧を許せない人でした。まして人と人との所業は全て曖昧で成り立っているということを、自分にも他者にも許せません。それで、何事にも執着してはならないと常にとらわれ続けるのも、また執着のありようの一つだということに気付けないのです。気付こうとしないのです。
全てか無か。長明は強迫的に執着しました。それだからこそ、的確にして正確、徹底。鬼気迫る迫力。天災人災の未曾有の記録が世に残されることになりました。
こういう人には、宇宙ロケットの開発を手掛けさせてみたかった。天文学的な数の部品を一つ一つ吟味して、正確に繋いでゆく長期の作業にぴったりだと思うからです。
組み上がった巨大な飛行体を前にしたとき、「あまりに入れ込み過ぎた」と、最後の配線の一本を違えてしまうというようなことは・・・ありますまい。とらわれなどということが通用しないほど、宇宙は果てしないからです。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。