「菩提樹」と「雪山讃歌」

 

 私はマニアックな音楽の愛好家ではありません。
 一人で工作や草取りなどをしている時などに、ふと、何やらメロディーを口ずさんでいるのに気付くことがあったり、美空ひばりはやっぱり上手いなぁ、と思ったりする・・・といった程度の音楽好きです。
 そんな私にも、長い間を呑気に付き合っていた歌が、ひよっとした拍子に、実は深刻な内容のものであったのだと分かって、独りで思い入ってしまうことが幾度かありました。とりあえず「菩提樹」と「雪山讃歌」がそうした例です。

菩提樹

    菩提樹   近藤朔風 訳詞

   〽泉に添いて 茂る菩提樹
    慕いゆきては うまし夢見つ
    幹には彫りぬ ゆかし言葉
    うれし悲しに といしそのかげ

    今日も過(よぎ)りぬ 暗き小夜中
    まやみに立ちて まなこ閉ずれば
    枝はそよぎて 語るごとし
    来よいとし友 此処に幸あり

 「菩提樹」を教わったのは、おそらく中学3年の時でした。
 教科書には2番までしか載っていませんでしたが、歌詞が難しくて半分も解らなかったものの、メロディーはすんなり入ってきたので、家に帰ってからも兄とよく合唱したものです。
 唄い出しに〽泉に添いて~とあるのを、私は勝手に〽泉に沿いて~と受け取ってしまったので、頭の中に浮かんで来るのは、大きな泉の岸に沿って何本もの樹が茂っているという広々とした明るい光景でした。音楽の先生が、菩提樹はヨーロッパでは街路樹としてよく使われる、と話してくれたことも先入観として影響したと思われます。

 つまり、少年のころの私にとっては、シューベルト作曲の「菩提樹」という歌は美しく、広く、穏やかなものでした。

一変

 学生時代に第二外国語としてドイツ語を選択したことがあり、そのゴツゴツした文法に苦戦させられたものでした。
 ある日の講義で、無味乾燥になりがちな時間を和ませようとしたのでしょう、ドイツ語の教授が紹介してくれたのが「菩提樹」の原詩でした。
「これは恐ろしい詩です。これから羽ばたこうとする若者の足を引っ張る。無理して遠くへ行かなくてもいいよ、じっと休んでいなさいよと。みんなも気を付けた方がいい」
といった風に解説したので私は驚きました。それまで「菩提樹」に抱いていたイメージとは正反対だったからです。

 なるほど、Muellerという詩人による原詩では、菩提樹(セイヨウシナノキ)は湧き水の脇に立っている1本(ein Lindenbaum)であり、その詩を訳した近藤朔風という人もきちんと、泉に沿いてではなく、泉に添いてとしています。泉に寄り添うように、一本のひときわ大きい菩提樹が聳え立っているという情景が本来なのでした。少年の頃にじゃれつくように親しんだ樹が、それを離れようとすると「ここにおいで」と招き寄せるというのですから、なんだか凄味があります。
 2番の終わりにいとし友と訳されているのは原詩ではGeselleという単語で、仲間とか朋友のことなのだそうですが、ドイツやオーストリアには伝統的に「徒弟制度」があって、この詩が作られた頃には各地を巡りながら腕を磨こうとする若い職人のことをWandergeselle(旅回り職人)と呼んだようです。Geselleである自分は、いずれはMeister(名工)になることを目指して、歯を食いしばっても修業を重ねなければならないというわけでしょう。
 日本にも 〽庖丁一本 晒に巻いて 旅へ出るのも 板場の修業~ といった旅の仕方があるように、もの作りにこだわるという点で、日本とドイツには似たところがあるようです。

 原詩は、私が中学で教わったものよりもかなり長いものでした。近藤朔風の訳にも続きがあります。

  〽面をかすめて 吹く風寒く
   笠は飛べども 捨てて急ぎぬ
   はるか離(さか)りて たたずまえば
   なおもきこゆる 此処に幸あり
   此処に幸あり

 寒風のために傘(帽子)が吹き飛ばされてしまったけれど、取りに戻る余裕もなく急ぎ、はるかに遠ざかっても、樹が招き寄せる声が聞こえる・・・これはかなり切羽詰まっていて、普通のホームシックとはレベルが違うようです。調べてみるとはたして・・・
 
 「菩提樹」はシューベルトが死期迫った頃に作曲した24の組曲「冬の旅」の5番手に置かれているもので、主人公の若者(おそらく旅回り職人)が或る滞在先で夢のような恋に出会うことができたものの、実る直前にどうゆうわけか相手に心変わりされ、激しい葛藤を抱えながら冬の旅に旅立つ・・・
     ・・・
    Komm her zu mir, Geselle, ここへおいで 若者よ
    Hier findst du deine Ruh.  君の安らぎは此処にある

 大樹が呼びかけてくる安らぎというのは幸ではなく、永遠の安らぎつまり自死であるという解釈すらもあるようでした。
 「強烈に求めるものが在るところ、そこは同時に地獄でもある」といった深刻な状況が詠われているのでした。
 「なんだか深読みのしすぎじゃないかなぁ」と私としては思ったことでした。

 やがて私は、非行少年少女の治療と教育に携わることになりましたが、現場に立ってみると直ぐに、「冬の旅」に詠われているような状況は、さして稀でもなくこの世にあり得るのだということを知ることになりました。
 例えば、虐待を受けながら育った少年少女たちが「家庭」というものに抱く想いと毎日は、「強烈に求めるものが在るところ、そこは同時に地獄でもある」という刀の刃の上を渡るような「冬の旅」の連続なのです。
 「菩提樹」は、3番の始まりでピアノが激しく変調して響き出すと、こちらの緊張も高まって来ます。そんな歌なのでした。

雪山讃歌

 大学の1年と2年の夏休みを目一杯に使って、「高山植物監視員」というアルバイトをしたことがあります。はるかな昔、昭和も30年代のことです。
 場所は、ヨーロッパアルプスのエーデルワイスに最も似たタカネウスユキソウが見られるという中央アルプス。主峰木曽駒ヶ岳の頂上小屋に長期間を泊まり込んで、仕事をするもサボるも、自分が予定して自分が監督するというおおらかさ。当時の長野営林局木曽福島営林署は、よくぞ、私を信用してくれたものです。

 いろんなことが思い出されます。直接、高山植物に関わらない事が多いのは奇妙です。
 その頃は、中学生を中心とする学童の集団登山が盛んでした。夏休みの行事として県の内外からやって来たのですが、今の感覚から思えば、熱中症を防ぐために体育館の空調が必須だとする今の感覚から思えば、引率の先生からして、良く言えばおおらか、悪く言えば準備不足。それが問題を呼び寄せることがありました。一同転がり込むように頂上小屋にたどり着いて、やれやれ・・・点呼を取ると・・・一人足らない!
 腕章(官給品・でっかくて目だつ)を付けていた私が真っ先に相談をうけたまわることになり、登山道を駆け下ることになりました。7~8号目のあたりで置いてけぼりになった生徒を見付けられたのですが、その瞬間、私の経験した二夏での3例とも「あぁ、助かった」というような表情を浮かべることはありませんでした。それほど消耗していたのでしょう。
 「山酔い」あるいは「高山病」と呼ばれますが、標高2000メートルを超えるあたりから、酸素が薄くなっていくのに身体が付いて行けずに、吐き気、ふらつき、頭痛などに悩まされることがあります。集団登山の場合は、次第に後ろに下がってどんじりを務めることになり、それさえも無理になって独り置いて行かれる状態になり、そうした時に「少しペースを落として」と声を挙げにくいのは、折角の行事である集団登山の足を引っ張りたくないという健気な思いが働くからでしょう。
 登山道の折り返しを曲がった途端に、白い人影に衝突しそうになったことがあります。暮れなずんだ中にぼんやりと佇んでいたのは一人の少女で、6合目のあたりから気分が悪くなって遅れ始め、7合目のあたりで一歩も進めなくなり、仕方なく独りで下山しようとして5合目付近まで下ると嘘のように体調は何でもなくなり、これなら大丈夫と反転して7合目まで登り直すと、また動けなくなってしまう・・・これを2度繰り返したということでした。教科書に載せたいような「山酔い」とはいえ、危ないところ。私は少女を背負って頂上小屋を目指し、途中まで出迎えに来ていた先生たちに引き合わすことができました。
 奇妙なことなので忘れないでいます。私がお礼にもらったのは、3例が3例ともそれぞれに、申し合わせたように、ウイスキーのポケット瓶1本でした。
 
 同じ頃、コーラスグループ・ダークダックスの「雪山讃歌」がヒットを続けており、当時の紅白歌合戦でも披露されたものでした。

     雪山讃歌

  〽雪よ岩よ われ等が宿り
   俺たちゃ 街には
   住めないからに
    ・・・・
   煙い小屋でも 黄金の御殿
   早く行こうよ
   谷間の小屋へ
    ・・・・
   荒れて狂うは 吹雪か雪崩れ
   俺たちゃ そんなもの
   恐れはせぬぞ
    ・・・・
   山よさよなら ご機嫌宜しゅう
   また来る時にも
   笑っておくれ
 
 「お上品だぁ」と思ったことでした。1番に〽俺たちゃ街には住めないからに~と言っておきながら、最後の6番で〽山よさよならご機嫌よろしゅう また来る時にも笑っておくれ~とあるので、「あら、帰っちゃうの。街には住めないんじゃなかったの」と気に入らず、4番の吹雪や雪崩を恐れないというのは、もっと気に入りませんでした。もともとは某大学の山岳部の歌だったそうです。
 私が仕事をした中央アルプスには際立った難所は少ないことから、新入山岳部員の初歩的な訓練の場に選ばれることが多かったようで、主峰の頂上付近でそのような場面をしばしば見かけたものでした。7・8人のグループの中の2人ほどが際立って大きな荷物を背負わされて苦しげによろぼっており、小さなバックを引っ掛けた先輩らしい連中に取り巻かれて、足蹴にされんばかりに叱咤されている光景でした。
 そんなことを軽々とハモッテ彈んでいる「雪山讃歌」を、私は好きにはなれませんでした。

一転

 「第三の男」「禁じられた遊び」「羅生門」「生きる」「ローマの休日」「七人の侍」「西部戦線異常なし」「シエーン」・・・あの頃こそ、映画の黄金時代と言えたかも知れないと思います。それらの作品に共通しているのは、やたらにスペクタクルな場面を積み上げるのではなく、一つの曲あるいは音響に、テーマに匹敵するほどの感動を込めることに成功しているところではないかと思います。例えば「羅生門」のクライマックスに挿入されたヒグラシの声は、ずっと後まで頭の中で不気味に鳴り響いていたものでした。
 そんな何年か後のある時、蔵出しの作品を単品で上映する「名画座」という小さな映画館で「荒野の決闘」という映画を観ました。ジョン・フォード監督作品で原題をOh My Darling Clementineといい、その中で私は「雪山讃歌」のメロディーと再会することになりました。

   Oh My Darling Clementine

  In a cavern, in a canyon,
  Excavating for a mine,
  Dwelt a miner, forty-niner,
  And his daughter Clementine.

  Oh my darling, oh my darling,
  Oh my darling Clementine
  You are lost and gone forever,
  Dreadful sorry, Clementine.

  Light she was, and like a fairy,
  And her shoes were number nine;
  Herring boxes without topses,
  Sandals were for Clementine.
   
   ・・・・・

  ~クレメンタインは、蓋の取れたニシンの箱をサンダルにしながらも、妖精のように可憐に跳び回る働き者。在る朝、コガモを水辺に連れて行こうとしたところ、根っこに足を採られて逆巻く湖の中へどぶん。ルビーのような唇から吹き出す泡はたちまちか細くなったけど、なんと、ぼくはカナヅチ。クレメンタインは墓地の雑草の肥やしに。父親は悲しんで松の木のように痩せ細ってしまい、娘に付いていてあげなきゃと思うまでになって、それで今はクレメンタインと同じ所に。僕がせめて釣り糸を持ち合わせていれば、それを投げ入れてやってクレメンタインを助けられたかも知れないのに~
  
 ゴールドラッシュ最中のカリフォルニアにやってきた砂金採りの男とその娘クレメンタインの運命を、クレメンタインの恋人であった若者が詠い、それが広く歌い継がれて、アメリカ民謡とまで言われるまでになっている曲なのだそうです。
 14番にも亘る中で一番ぐっと来るのは、クレメンタインという娘は蓋の無くなったニシンの箱(Herring boxes without topses)をサンダル代わりにして妖精のように動き回っていた、というところだと私は思いました。干されたニシンが詰められていた箱は、そのままでは履くわけにはゆかないはずで、おそらく金鉱探しの父親が、馬か牛の革を打ち付けてサンダル風に作り換えたものであったでしょう。

 荒々しく未開でありながら、素朴なエネルギーに溢れていた古き良きアメリカ。そんなことを想わずにはいられない曲なのでした。