人生の第4コーナーを廻ってから、なんと、3週間ほどの入院を要する手術を2度受けた。麻酔から醒めると襲ってくる強烈な痛みの中で、1秒1分を少しでも楽に耐える方法は無いものかとあがいた。・・・来し方のうちから、楽しかったこと三つ、美しかった光景三つ、恐ろしかったこと三つなどと、あれこれを掘り出してゆくのが最も有効だった。幼い頃のことがほとんどだった。
恐ろしかった光景 三つ
1 決壊寸前のダム
2 街道に沿って渦巻く炎
3 東日本大震災の津波
1 決壊寸前のダム
太平洋戦争の末期。戦局が押し詰まってくると、信州信濃の山奥の木曽谷でも空襲警報のサイレンが鳴った。敵はいよいよダムを爆撃して水力発電を壊滅させようと企んでいるのだという。狭い谷間でのサイレンの繰り返しは波うち、山と谷に幾重にも反響してそれは恐ろしい咆哮になって轟いた。小学校に上がる前の幼児だった私に込み入った話は分かるはずはなかったが、恐ろしいことが近づいているという緊張にはたっぷりと晒された。
結局、ダムは爆撃されなかった。けれど、粗雑に造られつつあったらしい溜池のようなダム(緻密に建設されればロックフィル式ダムとして合理的な技術)が、決壊しそうになった光景を見たことがある。
黒く広がった水面が大きく渦を巻いて動いており、その渦に繋ぎ止められるように、根こそぎになった大木が絡み合って浮き沈みしていた。水の端は湧いて盛り上がって、今にも堰堤を乗り越えようとしている。地鳴りのような響きが感じられた。
ダムの上流の澤も濁流で膨れ上がり、川辺に並んだ二軒の農家を引き込もうとしていた。家は懸命に土手にしがみついていたが、しばらくすると柱が抜け、屋根が傾いてのめり、ばらばらに砕けて二軒とも剥ぎ取られて行った。
それでもまだ雨は降り続いていた。そんな雨の中に、それぞれに布団を背負った男女が現れ、神社の前の石の鳥居の台に腰を下ろして、大きな荷も降ろさずに長い間じっと首を垂れていた。五月の終わりであったが、どういうわけか、二人の吐き出す息が白く見えた・・・。
私がそれらを眺めていたのは、高みにある神社の境内からで、そこは昔から木曽御嶽の二合目とされていた。終戦の当年か、あるいは一年前の初夏。木曽谷に連日の大雨の続いた長梅雨の年だった。私は小学校に上がる前の幼児だった。
2 街道に沿って渦巻く炎
木曽福島の町は、木曽川にえぐられた谷に沿って民家が並んでいる。江戸時代には、日本三大関所の一つと言われた関所が設けられていたが、「入りでっぽうに出おんな」を取り締まるには好都合な狭隘な地形であったであろう。それでも、木材、木曽馬の市場、御嶽信仰登山の一合目などとして、それなりに賑わう中仙道の宿場町の一つであった。
昭和2年(1927)の春の日、この町はほとんど全部が焼失した。
寺院の一つが火元であったという。燃え上がった火は折からの強風に乗って飛び、木曽川を跨いで対岸にあったお寺に取り付いた。そこで勢いを増した火は川を渡り戻して別のお寺に飛び火した。不思議なことにお寺からお寺への飛び火。小さな町の割には大きな構えの寺院が6つも有ったから、町のほとんどが炎に包まれた。
木曽路には古いたたずまいの宿場町が点在していて癒やされるが、木曽福島の町並みが味気なく変わってしまっているのは、この年の大火のせいである。
町には起伏が多い。昭和の初めの大火から20年ほどもたった或る日、先の大火事では焼け残った所を選ぶようにして火が出た。
坂を駆け上ると、もう顔が焼けるほどに空気が熱かった。
家々が燃え盛っており、噴き出している黒っぽいオレンジ色の炎は、どうしたわけか、上に向かうよりも横に向かって抱え込むように渦を巻いていた。道を挟んで向かい合っている相方を抱き込んで、道連れに焼き尽くしてやろうというのだろうか。火はいよいよ勢いを増しており、2・3台の消防車が水を上げていたが、近隣の町や村からの応援もまだ到着していなかった。
と、木曽川の支流の一つに架けられている鉄橋の上に一台の蒸気機関車が現れた。鉄道は谷の底にある町や集落よりも高いところを通っていたので、機関車に積載している水が地元消防の助けになるだろうという国鉄木曽福島機関区の計らいであったという・・・。
機関車一台に載せている水が、どれほど役にたったのかは私には分からない。
けれど、あの頃のあの火事を思い出す度に浮かび上がって来る蒸気機関車は、ゆっくりと動輪を回して来て、高みに架けられている鉄橋の真ん中で停止する。
見上げると、機関車だけが宙に浮かんでいるように見え、そして何故か、思い出す時は何時も、その動輪は全面が真紅に塗り上げられている。そんな頃の私は小学校4年生か5年生だった。
3 東日本大震災の津波
ズシンという衝撃があり、それから大きな揺れが長く続いた。妻がつと立ち上がり、妙に落ち着いて居間と玄関を隔てているドアに近づくと、手と足を大の字に広げて柱の間に突っ張るようにあてがい、そのままじっと固まっていた。後で聞くと、家の倒壊を防ごうとしたのだというようなことを言う。とてもではないが理屈に合わない話で、本当のところ、恐怖のあまりに妻は正気を失っていたのであろう。東京も多摩地方でさえそれほどの衝撃だった。
やがて電波で画像が送られてきた。目を逸らすことが出来ずに鳥肌だって吐き気がした。どうしようもない大きな力が、巨大なアメーバのようなものに姿を借りて襲って来るありさまが映し出され続けた。
太平洋の西のはずれが俄かに腐りはじめ、あがいて、陸をも道連れにしようとしているのかと思った。腐った海の指は奥に進むほどいよいよ太く腫れあがって、家を、車を、道を、農地を、街を犯しつつあった。そして沢山の人々のこれまでが断たれつつあるのも確実だった。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。