楽しかったこと 三つ


人生の第4コーナーを廻ってから、なんと、3週間ほどの入院を要する手術を2度受けた。麻酔から醒めると襲ってくる強烈な痛みの中で、1秒1分を少しでも楽に耐える方法は無いものかとあがいた。・・・来し方のうちから、楽しかったこと三つ、美しかった光景三つ、恐ろしかったこと三つなどと、あれこれを掘り出してゆくのが時を稼ぐのに
最も有効だった。幼い頃のことがほとんどだった。

楽しかったこと 三つ

1 幼かった日のキャンプ
2 忘れられたトライアングル
3 高山の秘密の花園

1 幼かった日のキャンプ

 木曽谷には珍しいことだが、木曽駒ヶ岳の裾野が小さな扇状地になって西側に開けている場所がある。そこからは独峰木曽御岳をどっしりと望むことができ、その山容はアフリカ大陸の最高峰キリマンジャロを想わせる。土地の人達はこの広がりを昔から「原野(はらの)」と呼んできた。
 天然芝の広がるそこかしこに、長い間の浸蝕で角を削がれた大小の花崗岩が散らばっていて、それが恐竜や怪物が見え隠れしているように見え、白樺、楢、赤松、山桜などの林が点在し、茨や山吹などの藪の間を浅い小川が軽やかに流れていた。
 キリマンジャロが見え、怪物が潜んでいるとすれば、ここはアフリカである。町から木曽川の上流4キロほどのアフリカ。子供たちはさんざんにピグミーごっこをして遊んだ。

 今、「原野」の大部分はゴルフ場に姿を変え、瀟洒なクラブハウスも建てられている。何年か前に原野を訪れてしばらく少年の頃のことを想っていると、現れた係員に違法駐車を咎められたうえに退去を要求された。何処でも先住民は追われる定めにあるらしい。

 はるかはるか前の夏、私達兄弟はここでキャンプをしたことがあった。中1、小5の頃だった二人の兄、そして小2の私。キャンプと言っても、食糧事情はまだ厳しく、ましてリクレーションのための機材などは全く無かった。私はといえば、戦後に放出された落下傘の収納袋をランドセルの代わりに背負って通学していた。
 テント、寝袋、コット、カセットコンロ、着火剤、カトラリー、ウォータータンク・・・といったものが在るわけがない。西部劇映画にしばしば出てくる、馬の鞍を枕に毛布一枚といったふうな、キャンプというよりも野宿に近いものだった。
 日が高いうちは、生木を矯めて作った弓を射ち合ってさんざんにピグミーごっこをし、日が傾き始めると古い飯盒で米を炊き、母から借りてきた鍋で味噌汁も作った。
 母は子供たちだけで野宿をすることに全く不安を示さなかった。その頃私達兄弟は乳を採るためにヤギを飼っており、当番に当たれば小2の私でさえ草を刈って背負って来ていたし、夏休みは冬のための枯れ草づくりに多くが費やされた。擦り傷、切り傷、蜂刺されなどは当たり前のことだったから、一泊かそこらのキャンプを母は特別とは思わなかったであろう・・・。
 おかずは乏しいものであったはずだが、ご飯も味噌汁もとびきりに美味しかった。焚き火の向こうに日に焼けた兄達の顔がテラテラと光って、本物のピグミーの戦士と向かい合っているようだった。最後に、焚き火の下に程よく埋めておいたジャガイモを掘り出し、仲良く分けて塩味で食べた。なんという香ばしさ。このジャガイモが豊かな食事の仕上げとなった。
 暗くなるとホタルが舞った。ヘイケボタルであったろう。薄く、はかなく、まばらに・・・。必ずしも小川に沿わずに、離れた藪の中でも青白く揺らいでいた。幼かった私には、美しいというよりも薄気味悪く感じられた。
 楽しかった。

2 忘れられたトライアングル

 木曽川の本流に「黒澤」という支流の一つが合流している地点は、しばしば見られるように小さなトライアングル(三角地)になっている。その中に僅かな畑地があった。そこへ行こうとしたら澤に架けられている丸木橋を渡り、急な斜面を登り、ムジナが住んでいるというガレ地を越えなければならなかったから、畑といっても誰にも耕作されずに敬遠されがちになっていた。
 私の木曽の実家はかつては小さな地主であったが、婿養子に入った父が谷で医院を開業していたので終戦直後の農地改革では全くの不在地主と裁定され、上に述べたいわく付きの畑地を除いて全てを失うことになった。
 私達兄弟は食糧難の折から、トライアングルの中に残された畑地を開墾し直して、サツマイモとトウモロコシを重点にして様々な野菜を作った。大変な作業だった。
 とはいえ、当時の私は小学校の低学年の男の子だったから、サツマイモを詰めたカマスなどを担げるはずはなかったし、ましてそんなで丸木橋を渡れるわけがない。兄達は自分らが収穫したものを運び出すために往復する間、私を番犬代わりに残しておくことにした。私は「ダイコン一本でも背負って一緒に行く」と懇願したけれど、兄達の答えは「いいからお前はここで休んでろ」ということであった。
 私はといえば、人里離れた野面に独りで残されるのがたまらなく怖かったのである。ムジナが住んでいるというガレ地があるし、澤が黒く淀んでいる淵も在るではないか。日も傾きつつある・・・。開墾地の外れには一本の野生の梨の樹が立っていて、帰って来た兄達の姿が真っ先に見えるとしたら、そのあたりであるはずだった。沸き立つ蚊柱を追い払いながら、私は長い間、本当に長く思える間を、梨の樹の下ばかりを見ていたものだった。

 そうした兄達は、それぞれ学校を出てそれぞれに道を歩むようになって木曽を離れたから、トライアングルの中の畑地は面倒を見られなくなり、末っ子の私が大学に進学する頃には、ほとんど荒れ地に還ってしまっていた。

 学生時代の終わりの頃、私はそこで2回のソロキャンプをした。
入り口の梨の樹が一回り大きくなっていて、ざっくり建てられていた作業小屋は倒壊しており、農機具が高い雑草の中に散乱していた。つわものどもの夢の跡である。
 錆びた鍬でざっと地ならしをしてテントを張り、小屋のものだった板や柱で火を焚いた。誰にも何処にも遠慮することはなかった。
 早めの夕食を摂っている時、畑地のはずれに聳えている松の大木の高みにオオタカの番が営巣しているらしいのに気が付いた。そこは、木曽川も黒澤も見通せる一点のようだった。次の日の午前中のほとんどをオオタカの様子を見て過ごした。

 その頃の私は、望遠レンズやカメラこそ持っていなかったが、双眼鏡を手に入れていた。大学1年・2年の夏休みを通して高山植物の監視員というアルバイトをし、その給金の一部を投じたものだった。
 オオタカの子育ての頃を狙って、次の年に2回目のキャンプをした。はたしてオオタカは同じ松の同じ高みに巣を構えており、結構に大きいヘビを持ち帰ったことがあるのが圧巻の見ものだった。

 今から数年前までは、衛星写真に目を凝らすと、木曽山中に残された私達兄弟の畑地をうっすらと見分けることが出来た。今現在の検索では周囲の緑に飲み込まれてしまって分からなくなってしまっている。
 老人施設の厄介になっている一人を残して、兄達もみんな逝ってしまった。

3 高山の秘密の花園

 まだらに色が変わり、四隅が擦り切れた「身分証明書」を持っている。「福島営林署高山植物監視員であることを証明する」とあり、勤務先は「木曽福島営林署駒ヶ岳国有林」とされ、発行の日付はなんと昭和35年(1960)7月である。
 有効期限が記されていないから、私は終生、名誉ある木曾駒ケ岳国有林の高山植物監視員ということになる。

 中央アルプスの主峰を中心とした地形。登山道の曲がり具合。ステップするに手ごろな岩。遭難碑やケルンの位置。道に張り出しているダケカンバやウラジロナナカマドのそれぞれの幹のたたずまい。ハイマツがはじめて見られる地点。夏の進み具合と雪渓の残量との関係。・・・スキーの選手がスラロームのコースを憶えるように、各方面から主峰に収斂する道のひとつひとつについて、悲しいほどに、今も思い描いてみることができる。
 私はこのアルバイトが気に入っていた。学生時代のうちの二年をとおして、貸与された双眼鏡をぶらさげ、ポケットに身分証明書を入れて、みっちり二ヶ月半ずつ、このアルプスを歩き尽くした。雇い主から遠く離れて気ままに動けるのもうれしかった。営林署は私を信用してくれていたのである。
 
 頂上から三十メートルばかり宝剣沢のほうに降りたところにあるクロユリの群生。頂上と中岳との鞍部にひときわ生え揃っているミヤマウスユキソウ。木曾駒ケ岳のミヤマウスユキソウは、ヨーロッパアルプスのエーデルワイスにもっとも似ていると聞かされていた。宝剣岳の天狗岩の岸壁の、秘密の湧き水のまわりにへばりついているチョウノスケソウの群落。行くさきざきのイワギキョウ、ツシマギキョウ、ツガザクラ、トウヤクリンドウなどを私は見守った。
 トウヤクリンドウといえば、当薬と付いているとおり、薬用高山植物の代表であるだろう。これをキスリングが熱を持つほどぎゅうづめに採集している漢方の業者から没収したことがある。楽なやり取りではなかった。
 ハイマツの下にもぐりこんで休息していて、鉈で頭を割られそうになったこともある。四、五人のパーティがエアマットの代わりにハイマツの枝を重ねて使おうとしていたのである。こちらも驚いたが、斜面からもたげられた首を見て、当人たちはもっとおどろいていた。手折った高山植物をてんでに手にしていたグループがいたので注意をすると、「なら、この辺の植物の名前を全部教えてもらいましょう」と逆襲されたこともある。集団登山で落後した生徒を頂上小屋まで背負い上げたのも一度のことではなかった。

 それなりにあれこれがあって、独りきりになりたいという気分に駆られることがあった。そんなときのために、秘密の花園とでもいうべきところを見つけておいた。
 頂上から木曾側の九合目までくだり、鞍部にある玉の窪小屋を過ぎてから本道をずれて木曾前岳に向かう。この山の南側はほとんど垂直と感じられるほどに削げ落ちていて、「牙岩」と呼ばれる巨大な岩が虚空にせり出している。根元にとりついてみると、岩もろとも数百メートルを転がり落ちるのではないかと鳥肌が立つ。誰も来ない。私の秘密の花園は、この岩に続く東側にあった。ほんの二坪ばかりのほぼ平坦なところで、さまざまな高山植物が咲きつめていた。ここで雲を眺めたり、高山蝶とたわむれたりして小半日を過ごすのだった。

 私は一頭の特定のクジャクチョウとたしかに顔見知りになった。一頭のクジャクチョウがきまって現れ、谷風に逆らいながら、私をからかうようにあらゆる飛行術を披露してみせた。黄金の縁でとりまかれた黒い瞳のような斑紋を見せびらかして、すぐ脇の岩の上に静止する。そうしてまたくるりくるりと舞う。左の後翅にある瞳が右のそれよりもわずかに小さいのが、なんともいえない愛嬌になっていた。
 午後の半ばを廻ると風の方向が変わり、高山植物の葉の表面が湿ってきて霧が湧くことが多かった。ホシガラスが鳴きだす。微妙な色の下地に、純白の斑点を散らしてすらりとした姿は、山の天気が動く気配を捉えると一段と精彩を放ち、これからの荒れ模様をつかさどろうとする精霊の露払いのように見えた。
 ホシガラスの警告を聞くと、クジャクチョウは谷に向かって沈んでいってしまう。あちらこちらでホシガラスが騒ぎ出し、巻き上げる霧のために岩が見え隠れするようになると、にわかに天候が崩れ始めるのだった。

 本格的な嵐ともなれば、下から吹き上げる風と雨は、斜面に食い入っているハイマツの枝をまくりあげて銀色の裏をあらわにする。一波、また一波。潮の目を見るように、銀色の帯がつぎつぎと斜面を移ってゆく。そんなところに身を晒していると、人が恋しいの、うざったいのどころではなくなってしまうのだった。

 山はいきなり秋になる。ほんの一週間ばかりの間に、ばたばたと高山植物は萎み、イワツバメが居なくなり、朝毎に冷え込みを増す。遊ぶ人もにわかにまばらになる。山小屋のおやじさんはそわそわしだす。燈油、暖房器具、調理具、食器類、大工道具、補修機材、水桶、缶詰・・・動かせるものは全て秘密の穴蔵に納めなければならない。冬場の心無い登山客から守るためである。地下の宝物殿は小屋を取り巻いている石垣の近くにあるのだろうが、いくら注意していてもその手掛かりすら見いだせない。エジプトの王家の秘宝を探すよりも難しいかもしれない。見事としか言いようがなかった。

 二ヶ月ぶりで山を降りる。ゆっくりと身体を慣らしながら谷の底にある家に着く。玄関の脇の石段を下りきると、電燈ひとつの下で母がひっそりと繕いものをしている。なんという変わりようであろう。かつては絶えることのない兄弟喧嘩や父のだみ声で満たされていた広い土間である。
「あれ、そんな黒い人に、見覚えはありません」
 鼻をつまんで迎えられた。私の身体はひどく臭い立ったのであろう。明るい調子がかえって母の齢を思わせた。
 空気が濃いと、しばらくは感じられる。母の声さえ鼓膜に強く当たって苦痛であった。
 母は、この世に木曾より良いところはない、と言うのが口癖だった。子どもたちが出て行ってしまって淋しいか、淋しくないか、そういうことを口にしたことがない。反対に、木曾でなくてもそれぞれに達者であればいい、などと言ったこともない。痩せた砂地に深く根を張っている高山植物のように、母は静かで不動だった。

 それから数年して、伊那谷から主峰のすぐ近くの宝剣岳の下まで、ケーブルカーが建設された。稜線のむこうは伊那の駒ヶ根営林署などの管轄になるので、私はよく通じていなかったが、ケーブルカーの終点近辺の「千畳敷カール」と呼ばれる巾の広い窪地は、高山植物の宝庫といわれていたものだった。
 かつて、ハイマツの間の縦走路を行くと、ヒナ連れのライチョウの一家が私を案内するように先に先にと歩いてくれるのを見たものだが、ケーブルカーが架設されてから間もなく、中央アルプスからは絶滅したという新聞記事を読まされることになった。

 だが、小さな金属板を叩きだしたような厚味のある葉と可憐な白い花をつけるチョウノスケソウ。宝剣岳の頂上ちかくの岩陰に密生していたお気に入りのもの。これはそのままであるに違いないと私はおもい続けた。普通の靴やサンダルではどうにもならない現場である。

 故郷であるにもかかわらず、私はこの山脈に近づかなかった。あの頃の山々に、自分の若い頃を封じ込めておこうとしたものだろうか。そうしたままに、なんと65年という時が経った。
 それでいて、静かで不動であった母とあの一頭のクジャクチョウの印象が、より鮮明になってゆくようである。

 

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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