「神戸連続児童殺傷事件」を理解するために、戦前と戦後とを分けて、少年犯罪を俯瞰してみる。
1 戦後の少年犯罪の要約
戦後、この国の非行現象は、3つの大きな波を経てから鎮静化した。第一の波のピークは敗戦直後の昭和26年(1951)、第二の波のピークは昭和39年(1964)、第三の波のピークは昭和58年(1983)であった。
第一の波と医療少年院という現場
第一の波を構成する非行は、「警察白書」などによって次のように特色付けられている。
「生活のための基本的な物品の窮乏、とりわけ極度にひっ迫した食糧事情、社会的荒廃と混乱のもと、年長少年(18・⒚歳)の窃盗、強盗、詐欺などの財産犯が目立つ」。これらをまとめて「貧困型非行」とも呼ばれた。
この時期を受けて、医療少年院は「結核の時代」とまとめられる。
「戦災孤児」「浮浪児狩り」といった言葉がなお生々しく、国中が飢えていた中で彼らの栄養状態が良いものであったわけがない。非常な過剰収容のうち、その50%近くが結核におかされており、有効な抗結核剤が出回るのを待てずに、不幸な転帰をたどるものも少なくなかった。院の過去帳にはかなりの数の記帳があるが、ほとんどがこの時代の結核による病死である。
三度三度の食餌が与えられることに手を合わして目をうるませ、いまわの時は、保護者も近親のものも見当たらないので、職員に看取られることも少なくなかった。「三途の川」の船賃にと五円玉を握らされると、「いろいろお世話になりました。これからは一人で行きますから・・・」と不思議に同じようなことを言ったという。「ああ挨拶されるとたまらなかった」と古参の職員OBが述懐するのを筆者は聞いたことがある。
その非行は、ぬすみ、かっぱらい、ヤミ行為がらみなどが多く、いわば「生き抜いていくための基本的に健康な所業」である部分があった。病を持っているほかは歪みのほとんどない少年も少なくなく、職員不足の折から院生を選抜して、夜間の外回りの巡回などを任せたこともあるという。
外国から日本の少年院の視察に訪れる人がしばしば、「たいへんソフィスティケートされた雰囲気がする」という印象を語ることがあるが、終戦直後の混乱期から今に続いている、この国の施設の匂いの一面であるかも知れない。
第二の波と医療少年院
第二の波は「高度経済成長」に突入する昭和30年ころから頭をもたげだし、昭和39年にピークをなしたものである。昭和39年といえば「東京オリンピック」が開催された年であり、それから4年後に「GNP世界第2位」を達成している。
戦後帰還した男子が結婚して生まれた申し子、「第一次ベビーブーム」の群れが非行適齢期に達していた。
警察白書などによれば、「急速な経済成長にともなう都市化の進展、都市への人口集中など、少年非行を誘発しやすい社会構造への変化を背景とし、享楽的な風潮のたかまりなどのもと、凶悪犯、粗暴犯が目立つ」とされた。非行の中心は中間少年(16・17歳)に一段階若い方にシフトしている。「反抗型非行」と呼ばれることがある。
拡大繁栄してゆく社会の辺縁から脱落した少年集団が悪質化して「愚連隊」などと呼ばれるようになり、徒党を組んで暴力的非行をなすことで自分たちの存在を誇示しようとした群れと、一方、豊かになった家庭に育ったものがいわゆる青年期危機として一過性のぐらつきと逸脱を見せる群れに分けられるという分析があった。
昭和31年、小説「太陽の季節」をもじった「太陽族」。「カミナリ族」「みゆき族」。大人社会の価値観否定、伝統的道徳観への反抗、大学改革運動をはじめ教育制度批判、そして60年安保闘争をふくむ一連の学生運動など。エネルギー高く真剣であり、非行としてくくりきれないものも少なくはなかった。
この時期を受けて、医療少年院は「性関連疾患の時代」であった。
医療少年院においては、すでに結核は激減し、各年末在院者のうち、梅毒が男女ともに20%近くを占め、加えて、とりわけ女子については、淋疾と妊娠が共に40%を前後したことがある。
まさに、非行はときどきの社会を反映させる。医療少年院という現場では、その疾病の構成は、飢えと栄養不良を背景とするものから享楽を背景とするものへと一変した。より能動的な欲動の追求の結果といったものが感じられた。
第三の波と医療少年院
第三の波は、昭和52年ごろから始まり、昭和58年にピークとなった。昭和48年に原油の価格が4倍に急騰するという「第一次オイルショック」のために、20年近く続いた「高度経済成長」は終焉したが、大きな混乱を乗り越えて、それから15年間ほどの「中等度経済成長」に移行することになる。
第一次ベビーブームの者が成長して生んだ「第二次ベビーブーム」の群れが、いわゆる非行適齢期になっていた。
警察白書などの要約は次のようである。「高い経済成長によって欧米先進国と並ぶ物質的な豊かさを達成したが、社会の連帯意識の希薄化、核家族化、価値観の多様化が進み、少年を取り巻く有害環境が拡大。これに、少年たちの刹那的な風潮や克己心の低下が重なった。非行の特徴は、低年齢化と一般化であり、「遊び型非行」「初発型非行」と呼ばれることの多い、万引き、オートバイ盗、占有離脱物横領などが目立つ。一方で、校内暴力、暴走族などの粗暴性が増した」とされた。
この波においては、非行少年たちが最初に検挙されるのは15歳前後のころが目だって多く、時代を経るごとに、主役を担う年齢層が若年化してきていることを示している。
検挙件数の多さからは「戦後最悪」といわれたが、「窃盗」と「横領」とが全件数の80%を占めており、それぞれ「万引き」と「放置自転車の乗り逃げ」が大部分であり、軽微な非行が第3の波の高さを押し上げていた。一連の非行の特色から「学校型非行」と呼ばれることがある。
その頃に流行した「赤信号みんなで渡れば怖くない」とは上手いフレーズで、温室育ちの芯の弱い少年たちが多様化する社会に不安を感じるがゆえに集団をなすことでそれを希薄化しようとし、スーパーやコンビニ、オートバイや車の普及という津波に飲みこまれて、享楽的、性的な非行をたがいに深めてゆくありさまを良く表わしている。
この時期を受けて、医療少年院では「精神障害の時代」を迎えようとしていた。
その前駆として一般社会では、「ライシャワー駐日米大使襲撃事件(昭和39年)」などから「精神障害者野放し論」が沸き、厚生省の肝いりで資金融資などの優遇を受け、全国の精神病床が一気に増床し、たちまち30万床ほどに達するという流れがあった。その90%以上が民間病床であり、先進諸外国とはまったく逆の事情である。ちなみに現在では34万床ほどに達しているが、官民の占める比率にほとんど変わりはない。
こうした社会の動きのあとを追うように、昭和45年ごろから精神の問題のために医療少年院に送致されてくる少年が増加しはじめ、精神障害者は或る日の在院者の60%前後を占めるようになり、やがて、この割合はもっと増えてゆく。内容としては、男子の「統合失調症」と「てんかん」、女子の「覚せい剤中毒症」と「知的障害」が目立った。
とりわけ「覚せい剤事犯」は第三の波とぴったり一致して大きく盛り上がった。女子少年のほうが病態は深刻だった。覚せい剤をそう多くは扱えない男子少年に比べて、女子少年は暴力団などとつながることが多く、乱用や依存に至る薬量を周囲に見る機会が多いからであろう。暴力団は自らの性の対象として、あるいは売春などの商品として、少女たちを薬漬けにして手元に置こうとすることがある。
医療少年院の現場では「雪崩現象」と呼びならわしていたが、彼女たちで入院者の半分ほどを占められた女子病棟が、禁断症状らしきものが伝播することで丸ごとパニック状態におちいることがしばしばあった。
第三の波以降
第四の波は明確には現れなかった。時には目立つ凹凸はあったものの、少年による犯罪は減少の傾向を示しながら現在に至っている。
「凶悪犯」、そのうちでも「殺人」について推移を追ってみると、戦後の少年犯罪第二の波の経過にほぼ一致して、目立って高い時期(件数400前後・少年人口10万あたり2.0前後)を経たものの、昭和45年(1970)ごろから鎮静化し、それから40年間以上もの年月を低値安定に推移している。件数では100件前後、人口比も昭和46年から1.0を超えた年はなく、それも近年さらに低下に向かう傾向にあり、平成20年(2008)からは殺人で検挙される少年は50人前後、人口比0.5前後となっている。いずれにしても少年による殺人は、他の凶悪犯罪のみならず、少年犯罪全般とともに減少しつつある。
平成9年から数年のあいだ、凶悪犯罪のうちの「強盗」が急激に増加したのを憂慮されたことがあったが、これはそれまでは「窃盗」や「恐喝」と分類されていた「ひったくり」が「強盗」としてカウントされるようになったためであることが判明した。
直近の少年犯罪の全般は、平成16年(2004)から平成27年(2015)までの12年間、その件数も人口比も、連続して減少を続けており、毎年最低を更新している。これからもそのようであることが予想され、問題があるとすれば、「低年齢化する性犯罪」と「振り込め詐欺」の増加であろうとされている。
2 不思議と問題
実態と人々の感じ方との間にギャップがあるという不思議
平成27年(2015)に、内閣府が「少年非行に関する世論調査」というのを行った。少年非行も成人犯罪も明らかに減少しつつあるのが実態であるにもかかわらず、驚くべきことに、80%もの人々が「少年非行は増えつつある」と感じているという結果が示された。
この国の人々の非行に対する捉え方の180度のずれは、治安全体に対して不安を感じている人の率の高さとともに、諸外国と比べても類のない不思議なこととされている。犯罪率が高くても、さして不安を感じていないとする国々も少なくないのである。
どうしてこのような乖離が生じているのだろうか
筆者は自分たちの特性として次のように考えることがある。
私たち日本人は、複数の巨大な地殻プレートがぶつかり合っているところに浮いている南北に連なった列島に住み続けている。地震、津波、噴火、台風といった予測の及ばない大災害の中を生き抜いてゆくために有利な気質、つまり敏感、俊敏、そして記録やファクトを待つよりもフィーリングやムードで判断する傾向、といった傾向が遺伝的に選抜淘汰されて蓄積されてきているのではないか。
良く言えば柔軟で順応性が高く、悪く言えば苦労性であるともいえよう。
俊敏は良いけれども、青少年の変化は速すぎ?
前にも述べたが、非行は社会を反映するから「少年犯罪は社会の動きが激しい時期に増加する」傾向がある。敗戦直後の混乱期に「朝鮮戦争による特需」を得て、この国は復興に突入するエネルギーを得た。戦後「非行の第一の波」はこの時期に当たる。図の下側に戦後(1945年から)の経済成長率に重ねて、少年犯罪の波の概略を黒い太線で示してみた。
図に見るように、経済成長率の推移と少年犯罪の波とはほぼ一致している。つまり、社会の活動が激しい時には少年犯罪も高まるのである。
1956年から年次平均9.1%という「高度経済成長」を20年近く続けることができ、その途中で「東京オリンピック」を開催し、それから5年ほどで「GNP世界第2位」に躍り出た。「非行の第2の波」はそのさなかにピークを迎えている。
「第一次オイルショック」のあおりで、高度経済成長は終焉を迎えたが、まず対応によろしきを得て、1991年のバブル景気終了まで年次平均4.2%という「中等度経済成長」をそれから15年以上も維持することができた。日本人の自信と外向きの姿勢はなお保たれており、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」「ジャパニーズ・ビジネスマン」「24時間働けますか」などというのは、この頃のことで、「遊び型非行」「非行の一般化」が特徴といわれた「非行の第3の波」がこの期間とほぼ一致している。
1991年に「バブル景気」が崩壊してから、安定した成長を保てずに日本は低迷をはじめ、「失われた20年」といわれるほど長期にわたった。それをなぞるように、少年犯罪も減少傾向をたどってきている。
社会の低迷というものは、ことに若年層の意識や姿勢の変化に驚くほど速くに現れた。
内閣府によるその頃からの「子ども・若者白書」「少子化社会対策白書」に見るように、子どもと青少年は自己評価を低くしており、将来を悲観的に考え、結果が保証されていないことには手を出さない、恋愛や結婚を回避するといった傾向を強めている。数十年前の調査とはほとんど真逆の心性であり、天ぷら鍋の中で盛んに沸騰しながら泳ぎ回っていた揚げ物が、次第に熱を失って黒く縮んでゆくような様子が目に浮かぶほどである。
そういえば、かつて拡大しつつある社会の副産物であった「暴走族」「カミナリ族」「太陽族」まして「愚連隊」というものを見ることが無くなり、かつて憂慮された「貧困型非行」「反抗型非行」「享楽型非行」といった用語を聞かなくなり、「学生運動」「大学改革運動」「安保闘争」まして「日本赤軍派による世界同時革命運動」といったものも何処の国の話かと思われるほどに遠くなった。
この国の青少年たちは、良くも悪しくも、時々の時代や社会情勢に、恐ろしく速く染まろうとするようである(大人がそのようであるのを見習って?)。社会が沈滞するにともなって、不登校、近視、肥満、テレビとスマホに過ごす時間、自殺などが増加し、反対に、体力合計点、海外留学、水準に達する論文数などは減少しているという。求めるところは安寧と無風であるようで、そうした社会では「少年犯罪」は強く抑制されるであろう。
取りこし苦労性で素直であり、メディアを信用しやすいのである。が、ムードに流され易く、自己決断をためらって他人に任せたいというのは、これはまた大きな危険を孕んでいる。
3 恐怖であろうと了解不能と騒がれようと、猟奇重大な犯罪事案はいつの時代でも散発しているということ。
戦後の社会の情勢の変遷につれ、非行の件数も内容も変化してきた。しかし、猟奇重大な非行事案はどのような時期にも散発している。
筆者にとって特に印象深く感じられるものを挙げてみる。
*金閣寺放火事件 1955年7月 懲役7年
・浅沼稲次郎暗殺事件 1960年10月 自殺
*ライシャワー事件 1964年3月
・正寿ちゃん誘拐殺人事件 1969年9月 死刑
*神奈川金属バット両親殺害事件 1980年11月 懲役13年
・名古屋アベック殺人事件 1988年2月 無期懲役(主犯少年2人)
・女子高生コンクリート詰め殺人事件 1989年3月 懲役20年(主犯少年)
*神戸連続児童殺傷事件 1977年2月 医療少年院送致
*豊川市主婦殺人事件 2000年5月 医療少年院送致
*西鉄バスジャック事件 2000年5月 医療保護入院
・岡山金属バットは親殺害事件 2000年6月 少年院送致
*山口母親殺害事件 2000年7月 少年院送致
・大分一家6人殺傷事件 2000年8月 少年院送致
・歌舞伎町ビデオ店爆破事件 2000年12月 少年院送致
*佐世保小6女児同級生殺害事件 2004年6月 児童自立支援施設送致
*佐世保女子高生殺害事件 2014年7月 医療少年院送致
*名古屋大学女子学生殺人事件 2014年12月 無期懲役
・川崎市中1男子生徒殺害事件 2015年2月 懲役9年〜13年(主犯少年)
2000年のマスメディアの沸騰
上にリストアップされたものに見るように、2000年(平成12)に特異な事件が集中した。これらを偶然とは見ずに、当時「切れる17歳」としてマスメディアは沸騰した。少年犯罪が凶悪多発化する先駆けであるだろうと、数年前に起こった神戸連続児童殺傷事件の影響や追従現象などについてもさまざまに論じられ、これらが、たてつづけの少年法の厳罰化の追い風となったことは否めないであろう。
ところが、問題の2000年に注目して前後数年について集計してみると、殺人事案を含めて少年犯罪の全体の傾向に見るべき変化はなく、全国を覆っていた不安は全くの杞憂であることが判明した。つまり、深刻な事案が偶然に集中して、少年犯罪の流れを変えるのではないかと疑われるような擬態を見せることがあるのである。
上に挙げたリストのうち、頭に*印を付けたものは、情緒や性の発達に絡む注目すべき偏倚、それも生来性の脳神経の機能異常、つまり「発達障害」とその周辺の障害が認められるとされているものである。遺伝レベルの問題が大きく、ときどきの社会情勢などに依るところは少ないと想定される。
社会に突き刺さるような危険な遺伝現象をこの世から抹殺してしまおうとすれば、その剣は両刃の剣となる。マイナスとして表出される偏倚と表裏の関係にあって、社会や文明に大きく貢献する資質や才能をも切り棄ててしまうことになるから、社会は平板化して沈滞し、極端に言えばノーベル賞をもたらすような資質などを摘んでしまうことになるであろう。
4 まとめ
少年犯罪はまさに社会の状況を写して消長する。戦後「追いつき追い越せ」とばかりにせわしなかった時代には非行率は高かったが、やがて「失われた20年」といった沈滞を迎えると見るべき減少を見せている。
にもかかわらず、今なお、人々の80%ほどは「増加している」と誤って認識しており、これが少年法を厳罰化の方向に改正を繰り返す追い風になっているであろう。こうした流れは「俊敏であるが取りこし苦労性」ともいうべきこの国の人々の心性を象徴しているように思われる。
非行が少なくなることは芽出度いことであるが、その母体である青少年が社会の沈滞を先取りするような速さで内向きになりつつあるのがうかがえる。この国の命運を左右する重大な問題である。
そして残念ながら、過激な犯罪は時代や状況を越えて散発している。これからもそのようであろう。それを統計やファクトとして認め、建設的な情報こそを冷静に正しく共有したい。成熟した社会。それこそが、突出した犯罪を少なくする唯一の方法であると信じる。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。