目次
Ⅰ 事件から21年後の報道
Ⅱ 何が台無しにしてしまったか
1 SOSを見落としたこと
2 審判決定書全文を開示したこと
3 検事調書を開示したこと
4 マスメディアが過熱しすぎたこと
5 手記出版前後の危機と錯覚
Ⅲ まとめ
Ⅰ 事件から21年後の報道
平成30(2018)年5月下旬、事件後21年。当時11歳で命を奪われた男児の父親である土岐守氏が、新聞とNHKの取材に応じていた。氏の談話を要約すると次のようである。
・・・毎年、子どもの命日近くに加害男性から手紙が届いており、生々しさを思い起こされるので苦痛だったが、読み続けた。それも「このくらいで次に進んで良いか」と妻と話し合うまでになっていた。
そこまで気持ちが動いていた折も折、2015年に突如、何の知らせもなく匿名のままの手記「絶歌」が出版されて一気に暗転した。信じてみようかという気持ちを裏切られただけに、子どもを2度殺されたような苦しみを与えられた。16・17年は手紙の受け取りを拒否した。今年はまだ届いていない。こちらが受け取らないことと彼が書かないことは別である。手紙を書くということは、自分が起こした残忍な事件とその遺族たちに向き合う唯一の方法であるはずだ。ずっと受け取らないわけではない。生涯、事件と向き合い続けてほしい。手記の出版ですべてが台無しになってしまった・・・
土岐守氏の髪はほぼ白くなってしまっていたが、「・・・ずっと受け取らないわけではない」というところにも冷静なバランスが感じられ、それが却ってなみなみならない想いをうかがわせた。
「絶歌」の出版元によれば「男性は印税を被害者への賠償金に充てると話している」とのことであるが、そのようなものを土岐氏等遺族たちが受け取るはずはない。金銭ではなく、信義と誇りの問題なのである。アメリカにならって「サムの息子法」を制定すれば万事解決、といった論議からはみ出す部分があるだろう。
『手記の出版がすべてを台無しにしてしまった』というまとめは重い。あらためて全体を振り返ってみる必要があると筆者は思わされた。
Ⅱ 何が台無しにしてしまったか
1 SOSを見落としたこと
別のカテゴリー「子育て」「人の正体」「若者たちのこれから」などを参照していただきたいが、柔軟な子どもは、図の左端に濃いブルーで縦につなげた4つの項目、①あるがままで受け入れられる環境 ②誰かとは信頼でつながっている ③集団の中で過度に緊張していない ④将来をあまり悲観的には捉えていない・・・これらを成長と行動範囲の広がりとともに順次に獲得してゆくことができている。
神戸事件の当該少年については、小5年の春に自分の異常(サディズム障害など)に気付き始めたころから人付き合いのありようが潮目のように変わった。すでに小6年時、学校で「・・・殻を持った寂しい子のようであるけれど、心の中に近づけない・・・」と気付かれている。居場所を失い始めたのである。それから万引きやいじめなどの問題行動を立て続けに起こして、事件までに10数回も母親は学校に呼び出された。そうした中でも、「このときに踏み込めていたら・・・」というようなSOSがいくつかある。
・・・「なにをするかわからん。このままでは人を殺してしまいそうや。お母ちゃんに泣かれるのが一番つらい・・・」と先生の前で泣きじゃくった。
・・・同じく小6年時の図工の時間に、「未来の家」という課題に「死刑台に上がる13段階」と名付けた奇怪な工作を作ったことがある。続いて、赤く塗った粘土を脳味噌に見立てカミソリの刃をいくつも突き立てた不気味な作品を作り、気にした担任の先生が少年の家を訪れて母親と話をしている。母親は、少し前に脳の機能について解説したテレビ番組を見たことがあるからと納得して、そのままにやり過ごしてしまった。
・・・少年が塀を伝うネコを狙って投げつけたたくさんの石が、隣家の樋に詰まってしまったことがある。近所の人たちは少年の家から石が飛ぶのを見ており、少年が繰り返しネコを追っているのに気付いていた。母親だけが知らなかった。
・・・中学1年から2年にかけて、自宅の土台の通気口から手斧が出てきたことがある。母が少年を正すと、友達から借りたものだという。その友達の家に母が問い合わせると、知りませんとのこと。それ以上詮索せずに、母は斧を自治会に寄付してしまった。同じころ、やはり土台の通気口から腐乱した猫の死骸が出てきて家中であれこれと話題になったが、斧と猫を関連させて考えたものは誰もいなかった。
・・・自慰をするときに地獄のような空想をするようになった。人間の腹を裂き、内臓に噛みつき、それをむさぼり喰うというシーンであった。「みんなもそうなのだろう」と思って友達に話すと、「それはおかしい」と言われた。ここでおそらく、少年本人の方が自分の抱えているものが恐ろしくなって引いてしまったのであろう。それ以上に話は発展しなかった。
図の右側に、ほぼ発達の段階にそって生じ得るさまざまな問題を赤文字で並べた。幼少時の家庭環境に根ざしているものが少なくなく、どの一つに目を留めてみても問題は大きい。当人はもとより周辺の一人二人では対応の難しいものばかりである。しかも見守りや働きかけは長期間にわたることを要する。
わけても「動物虐待」は快楽殺人者のほとんどに認められるともいわれ、心の中の嵐をうかがえる重要な指標である。神戸連続児童殺傷事件の犯人である当時少年も、小学5年の冬から残虐なやり方でネコ殺しを繰り返した。あたりのネコが気配も感じずに、よくうろついたものだと思われるほどに執拗であった。にもかかわらず、まともに気付かれず、注意を向けられることもなかった。
当事者の個々はそれぞれの立場に縛られやすく、「自分の領域はこれまで。ここからは他の部門で・・・」となりがちで、問題はつながって解決に向かわず、ぶつぶつに切られたまま先送りにされがちになる。
SOSに気付いたときは腹をくくって踏ん張る勇気が欲しい。問題を抱えている当人の方から「気付いてほしい」「助けてほしい」と発信しているのであるから、「自分に寄せてきた信頼を裏切らない」という一点のみに留意して対応を続ければ、事態は必ず変化する。
とはいうものの、勇気と根気と連携を要する。実際としてそのような環を作ることはできなかった。
2 審判決定書全文を開示したこと
東西の快楽殺人者の事件簿を見れば知れることであり、ささやかながら筆者が我が国の少年犯罪の戦前・戦後を要約したように、どの時代でも、どのような社会構造のもとでも、陰惨で猟奇な犯罪というものは散発している。その要因として、遺伝子レベルの変調からもたらされる脳の機能異常を基底とし、それに環境が絡んで発展したものと考えられる例が少なくない。大胆にいえば、どの時代でも天才が現われるのと類似な現象であるだろう。
たとえば、2000年(平成12)に特異な少年犯罪が集中し、「切れる17歳」を合言葉に、少年の急な兇悪化としてマスメディアが沸騰したが、結果として偶然であることが判明したことがある(カテゴリー:神戸連続児童殺傷事件 Ⅺ-1 少年犯罪の俯瞰[戦後編]を参照)。
特異な事件を惹起させた少年には「するべきことをやったら、さっさと吊るしてほしいと思っていた」というような心情がしばしば観られるが、このようにして起こされる事件を、法を厳罰化することで抑制しようとするのはほとんど意味をなさないであろう。また、このごろの特異な事案の犯人は発達したメディアに慣れており、その機能を逆手にとって、新たなタイプであるらしくアピールすることがあるので、本体を冷静に見極める必要がある。この国の人々はメディアを信頼する傾向が強いところから、反応が燃え上がりがちである。
少年犯罪の全体はこのところ数十年の経過から言って、年を追って落ち着きつつある。が、神戸連続児童殺傷事件については、冷静であるべき家庭裁判所の判事が、単発した特異事案を少年犯罪現象の一大変調のさきがけであると錯覚したらしく、「審判決定書」の全文を丸投げの形で、それも鳴り物入りという感じで公開してしまった。少年というものの成長の可能性や教育の可能性に信を置いた「少年法」の主旨を裁判所が自ら裏切ったものであり、守秘義務に違反するものであり、実態とはかけ離れた不安を社会に撒き散らしてしまうという、プロフェショナルらしからぬ判断に基づいた先走りとしか言いようがない。
この点について、2005年に「大阪弁護士会」が退職後に弁護士となった当該元裁判官に「業務停止3か月間」の懲戒処分を科したが、元裁判官は「事実を社会と共有するためにしたこと」と抗弁している。社会が共有すべき事実とは、丸投げされた犯行の凄惨さばかりではなく、それが少年犯罪全般のうちに占める位置や、人々が対応や予防を冷静に考えるための判断材料などを含むべきものと筆者は考える。
筆者が直接にゆさぶられたエピソードがある。少年が医療少年院での治療教育の導入にようやく乗り始めつつあるという微妙な時期に、当該裁判官が「テレビのクルー」を引き連れて「動向視察」に現れ、少年本人をフリーズさせて処遇の振り出しに戻してしまい、現場職員を全く困惑させてしまったことがあった。この裁判官にとって、少年は基本的に観念の中のものであり、一刻一刻をまさぐるようにして呼吸している存在ではなかったのである。この無神経さはどういうものだろうかと、現場が裁判官の動きに不信を感じ始めたきっかけとなった。
3 検察官調書を開示したこと
審判決定書にきびすを接するように、「検事調書」がごく初期の段階で、いきなり有力月刊誌に、これも丸ごとに掲載されたというのも、筆者には理解できない。 少年事件であれ成人事件であれ、捜査段階の一つである「検事調書」は当然、門外不出のものである。違法ないきさつで月刊誌の編集部に持ち込まれたらしいが、どうしてそれが掲載されることになったのかが分からない。判断を下したのは高名な評論家であるということになっており、氏は「社会的に報ずる価値がある。審判は終了し、全ては決定済みであるから、加害少年には何の不利益もない」というようなことを根拠にしている。
これも困る。「全ては決定済み」どころか、始まったばかりだったのである。加害少年には治療教育処遇が待っており、はるか先ではあるが社会復帰というハードルが控えている。それから、長い贖罪の日々があるべきはずであり、その果てに可能であるならば被害者側との修復の段階が予定されているのである。
治療教育処遇の始まる前から、危惧や恐怖が先立っている社会に待ち構えられるとしたら、「何の不利益もない」では済まない。現に不信が渦巻くままの状況で社会復帰をまさぐらなければならなくなった。評論家氏は逮捕直後の少年の供述や作文の中に「…なかなかの文章力を示す部分がある・・・知的能力は同年齢の者よりもはるかに上」といった特性を見て、惹かれるあまりに判断を誤ったのであろうか。
それから18年後、元少年が書いた「絶歌」を読んで、同じ評論家氏は次のように評している。「・・・あの本に対する私の評価はゼロである。・・・文章能力は、中学生時代よりはるかに低下している。・・・文章力は基本的に自己を見つめる力に比例する。内省力といってもよい。もともと少年は、悪くない頭を持ち一般の少年以上の内省力と文章力を持っていたのに、少年院生活を続けたら、それがともに一般水準以下になってしまったのだ。なんのための少年院だったのかと言いたい」。
これも困るというか、大きく見落としているところがあるだろうと筆者には思える。氏がかつて、少年の文章力が並よりもはるかに高いと見たのは、犯行時に書かれた「懲役13年」や「絶対零度の狂気」などからの印象であるだろうが、この時期の一連の文章は、少年が生きるか死ぬかの正念場、まさに死というものに直面して生命が燃え上がったときに、突き上げられるようにして吐き出されたものである。それに対して手記「絶歌」は、一言でいえば金銭欲で綴られたもので、「ごめんなさい、ごめんなさい」といった調子に張りがあるはずはなく、大きな落差が観られるのは当然のことで、生理的な現象によるところが大きいとおもわれる。
さらに氏は、文章力に伴う内省力も犯行時の上の部から、下の部に落ちてしまったと指摘している。ということは、連続して児童を無惨に殺傷している日々にこそ内省力が高く、少年の欲動や行動は高くコントロールされていたと言いたいのだろうか。
そしてこれらを「・・・何のための少年院だったのかと言いたい」とひっくるめて、矯正治療教育を一刀両断している。先に述べた家庭裁判所の判事と共通したところであるが、自分らの独善的な先走りが、常に吹き続ける追い風になって、なんでもありとばかりにマスメディアを勢い付かせ、そのたびに不安を膨張させた要因の底流になったことには内省が働いていない。事件の経過が難しくなるわけである。
筆者は矯正医官として長い時間を費やした。そうした一つの生涯のありようを無意味以下の害と決めつけられたわけであるが、そんな暴力に超然としていられるほど、出来上がってはいない。
4 マスメディアが過熱しすぎたこと
殺害した幼女の下腹部に、警察への挑戦の文字をナイフで刻み付けたというような例は戦前にもいくつか見られるが、平和が続いている戦後に、切り落とした男児の首に赤文字で書かれた挑戦状を銜えさせて晒すといった舞台設定はとんでもない劇場の幕開けを想わせ、当初は40代の男性が犯人像として想定されていたところ、逮捕されたのは14歳の少年であったからマスコミは沸騰し、世間は仰天した。
そうしたところへ丸ごと開示された少年審判決定書と検事調書という二つの文書は、メディアにとっては何を書き立てても問われるものではないという保証のようなものとなり、事案は焚き木の山となった。いよいよ燃え盛り、巨大な噴煙のように全国を不安と不信の煙で覆い尽くし、消えそうになると掻き立て、競い合った。法に違反する漏洩や憶測記事が溢れ、顔写真や実名までが報道され、ことある毎に、何年にもわたって、神戸連続児童殺傷事件が引き合いに出されることになった。『この不安定な時代に、とんでもない親に育てられて、化け物のような子供が世に放たれた』という捉え方がマスメディアの共通した踏み台となっていた。
当該少年の治療教育は、絶え間ない逆風の中で進めなければならなかった。説教や脅迫じみた電話に頻繫にディスターブされることをはじめとして、施設周囲の建物からは望遠レンズが向けられており、強引を当然のことのようにして取材に押しかけられた。他の少年少女を守るためにも、外側に向っている窓には隙間なく目張りを施さなければならなかった。当該少年をつかの間グラウンドに出してやるためには、花見などを装って紅白の幔幕を巡らす必要があったりした。
当該裁判官は当初、「世間では、怖くて男の子を産めなくなったと言っている」と発言して不安をあおっていた。およそ7年後に「佐世保女子高生殺害事件」が起こると、「怖くて女の子も生めなくなったと言っている」というのが発言に加えられることになった。
刺激の効果はまるで実験を見ているようにあざやかであった。少年法は厳罰化の方向に4回にわたって改定され、社会の治安の実態とはほとんど反対の印象を人々は抱きがちとなり、ことに若者層に行方への不安を植え込み、その結果が新生児数の低下に歯止めが利かなくなっている一因となっているとまで言えそうである。この国の自殺者は年を追って減少しつつあるが、若年層のそれは横ばいであるり、10代のそれは増加する傾向にある。こうしたことが、日本が沈滞に向かう下地になり得るとしたら、当時の家裁、検察、メディアなどの冷静さを欠いた動き方が煽りあげた問題は小さいとは言えない。しかも今もなお作用を続けているのである。
医療少年院に送致されていた当該少年は、「人はその信頼するものからのみ学ぶ」というモットーの下に治療教育を重ねることで、もとより完全ということはあり得ないが、「自他を信じて歩み直してみよう」というところまで到達していた。多角的な立場と視点からそのように判断されたし、社会に戻ってから10年を超えて具体的な贖罪を続けることができたという事実が、そうした判断が間違いではなかったことを裏付けている。
しかしながら、施設内で成人となった男性が社会復帰するに際して、社会の構え方は上に述べたように尋常ではなかった。「職を確保したうえで両親とともに生活を始める」などということは夢のような話で、仮退院の日時が明らかにされただけでもインターネット上の掲示板が臆測情報で溢れかえった。「化け物がすぐ近くに現れる!」。全国のあちらこちらに帰住先が拒否と恐怖を伴って点滅するありさまだった。男性はぎっしりと周囲を取り巻く「不信」の中で生活を始めなければならなかった。
探索され続け、一日一日を逃亡者として送った。施設収容時代に「心の母」として信頼を強く寄せることのできた一人の女性医師と、なんらかの形で連絡の取れた時だけが、おそらくほっと気の抜ける場面であったろう。
5 手記出版前後の危機と錯覚
匿名の手記を書いたのは加害男性である。当然、一番に責任を負うべきは男性本人である。それでも、被害者遺族である土岐守氏が「これからの唯一の方法」として手紙を書き続けるようにと手を伸べてくれているのだから、本来に戻って、じりじりと責任を果たすことを積み上げてほしいと願うばかりである。
一方、原稿を書いただけでは、本になって世に出回ることはない。そこには、少なくない手続きや思惑が介在する。
手記「絶歌」の出版に介在した者は、あのような形で手記を世に出すということが事件の被害者たちにどういう苦痛を与えるか、さらには社会にどのような不安や不信を撒き散らすかを全て承知していた。それどころか、事件を振り出しに戻すことになって、マスメディアや社会がふたたび騒然とするだろうことが見通せたからこそ、あえて為した確信的なふるまいとも言えそうである。
いわゆる「ヘイトスピーチ」のように差別や憎悪を声高に叩き付けるというやりかたではないが、それだけに、抜き打ちをしておいて、法や規制の外でほくそ笑むといった性質の悪さが窺われてならない。
精神的に長期にわたって負担となる行為を意図的に行う、あるいは、相手のありようを無視するということではヘイトスピーチと共通するところがあり、現に被害者遺族たちに「二度殺されたような苦痛」を与えてしまった。
影響はもっと広い範囲に及んだ。多くの人々の努力、多くの時間、数億円もの国費、数えきれないほどの誠意を反故にしてしまい、なによりも、事件の犠牲になった幼い子供たちの無垢な魂を救ってあげること、おそらくもっとなによりも、「化け物のような少年も変わり得る」という社会にあらまほしい余裕を、もう少しというところで悲観に変えてしまった。このあたりの危機と錯覚を少し拡大してみる。
青年は逃亡者のようにストレスに取り巻かれた生活を送りながら、月々の給与からしかるべき賠償金を間に立ってくれた人に送り、年に1度は被害者の遺族たちに、生活の報告を兼ねた謝罪の手紙を書き続けていた。
「次第に心に届く内容になってきている」という遺族側の感想が新聞に載ることがあり、これは青年にとって大きな励みになったであろう。けれど、本名と素顔で日々を過ごせるようになるには、先ずは出発点として遺族たちとの直接の関係を作り上げることが必須の条件となるが、これを充たすだけでも幾つもの段階をクリアしなければならないところ、その時期はもちろん、踏むべき順序も示されているはずはなく、遠い目標を前に青年の疲労は堆積されつつあった。
本人は知るよしもなかったが、まさにこの時期、崖のぼりにたとえれば、10年を超す努力の結果である充分なだけのテラスが、次のワンストロークで手の届く頭上に用意されつつあったのである。土岐守氏が「このくらいで良いのではと妻と話していた」というのは、こうした設定のことである。
ところがその一方で、運命的な巡り合わせといおうか、崖にとりついてあがいている青年の背後に、「異端者の世界」ともいうべき梯子がせり上がってきていた。異端の世界とは、このころ邂逅した某出版社社長の著書『異端者の快楽』などから得られたもので、「・・・真の表現や表出は、異端者のみによってなされる。彼らはこの世の規範や倫理から逸脱しているからこそである・・・」「・・・作品さえ良ければ、その作者が殺人者であろうと性的異常者であろうと、わたしを感動させてくれれば、誰であっても体を張って守ってやろうと思う・・・」などというフレーズでちりばめられていた。
このような人と繋がって守られることで、別の世界で生き延びることができるのだという錯覚は、疲弊した青年にとって大きな誘惑となり、昂揚をもたらし、持ち前の強い自己顕示欲を刺激されないではすまなかった。
青年は崖から両手を離し、身をひるがえして梯子に飛び移った。異端の世界に生きることに引かれ、手記を出版することを決心したのである。そうした直後に、一時のことであったかも知れないけれども「皆に迷惑を掛けることになるから・・・」と我に返り、元に戻ろうとしたが、すでに手遅れになっていた。
ところで、この出版社社長のありようの根底には「・・・大衆というものは、この世にいてこの世ならぬものを観たいものである・・・」という認識がある。つまり、異端者たちの作品を撒き餌にして物見高い大衆というものを集め、一網打尽にからめとろうという商業主義がその正体なのである。
はたして社長は、「・・・体を張って守ってやる」などということをしなかった。匿名無断の手記が世に出されたときに、身を呈して青年の気持ちといきさつを代弁することもせず、どういうことか、手記出版を関連する出版社に移すことをした。 こうした事情についてある週刊誌の記者に問われると、「警察を呼ぶ」と大声を発したらしい。言論の自由は声高に言うけれども、それに伴う責任については逃げ回る。「言論の自由」が泣いているであろう。多くの作家たちがさすがに見透している・・・金儲けだけを考えているクズ編集者・・・。
不思議な人が、この業界では通用しているらしい。世の若者たちには是非参考にしてほしい。あまり生真面目に考え過ぎることをせずに結婚し、子供を育てても大丈夫なのではなかろうか。
ほんのもう少しのところで、土岐守氏の言われるように、全てが踏みにじられてしまった。
思えば、当該青年が崖を登りきる寸前で手を離し、「異端者の世界」という梯子に飛び移ったのもSOSの一つであったとも考えることができる。そこで某出版社社長が取るべきであった対応は、『君自身が分かっているとおり、今は時期を間違っている。何年か贖罪を続けて、被害者側の許しを得たうえで本を出すというのなら、喜んで力になろう。私を含めてみんながハッピーになれる。世の中はそういうものなのだ』という一言を口にするだけで済み、事態は一変したはずである。それが為されなかったというところに、この国の社会の問題が凝集されて表れている。
社長のあらまほしかった架空の言葉のとおりである。特異な犯罪を少なくすることができるのは、困難なことではあるが、一人でも多くの人が「人はみな生かされて生きている」という構えを自然なことのようにして持つことであるだろう。つまり社会の成熟さこそが特異な犯罪を処遇し、次を予防することができる。一つ一つの積み上げが良い循環を育ててゆく。
神戸連続児童殺傷事件の修復の道筋がのるかそるかという一点で、いきなり暗転してしまったことが繰り返し悔やまれるのは、そうした積み上げの先駆となるべき基礎の一つが、崩落させられて繋がりを失ってしまったという意味からである。
Ⅲ まとめ
犯罪現象は社会に始まり社会に吸収されるものであるから、それへの対応には社会の総合力とでもいうものが試されることになる。
神戸連続児童殺傷事件は目立った劇場型犯罪の一つであったが、その幕開けの前のいくつかのSOS(予兆)を捉えきれなかったのは、犯行少年に近しくあった人々の不手際であったであろう。
しかしながら、この事件の顛末で際立って目立つのは、むしろ、社会をリードしていると目される人やグループの判断の誤りと、先走った独善的な行動である。
不足であったのは「矯正教育」ではない。社会総体の「対応力」である。煽られたり、踊らされてはならない。犯罪現象のみならず、この国の将来が懸っている。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。