戦後ほぼ一貫して育まれ続けた社会通念と構造。これが多分、誰もが予想しなかったような速度で変遷した。1980年代の終わり頃からであるという。
その原因を乱暴に要約すれば、その頃から決定的になった「IT技術の爆発的な発展普及」と「新興国の台頭」とであろう。ITの発達によってもたらされる情報をてんでんに拾うようになったことで人々の価値観と欲望は多様化し、消費をするにあたっては、情報がピンポイントで得られるようになっただけに、何をどのように選択するのが賢いか、というパフォーマンスへの評価が次第にマニアックに厳しくなってゆく。
1 終身雇用制の瓦解がもたらしたもの
2 目標とされる成人像の変化
3 揺れる学校生活
4 まとめ
1 終身雇用制の瓦解がもたらしたもの
企業体としては、何をどのように消費市場に供給するかが難しさを増してきた。まずは生産コストを下げ、同時に新鮮な市場を得ようとする。物の生産を人件費の安い新興国のほうに移すために、最新の工作機械などが輸出され、製造技術や品質管理のノウハウを細かく伝える。
この動きそのもののために、何年間かは活況を保つことができた。この辺りを「混乱期」というらしい。けれどもやがて、ノウハウを学び終えた新興国から追い上げを受けることになる。
企業は余裕を失って、次第に「低迷期」に移行してゆく。かつての典型的な成人像である「ロバ」の要求、「もっと積んでください。その代わり駄賃と仕事をよろしくお願いします」に応えることが難しくなり、新人をゆっくりと育てるゆとりを持てなくなった。企業の姿勢は、「荷物は自分で作るように。それを何処に運んで、どういうふうに活かせたかを報告してくれれば、評価のうえ、相応に処遇します」というふうに変わってゆく。
ロバであるよりも、ステップの軽い「カモシカ」とか、知恵の廻る「キツネ」であることを従業員に求めるようになった。
かくして「終身雇用制」は瓦解し、かつて「窓際族」などと呼ばれて面倒をみられていたゆるい空間は失われてしまった。
「横並びに手をつなぎあって均一に」という就労姿勢が、「専門性によって細分されたプロジェクトチームなどの中で互いに競い合う」というやり方に変わってゆく。
が、多様化する消費市場のニーズに軽々と対応できる感性と運動神経を備えた、「カモシカ」のような人材にみんながなれるわけではない。
カモシカやキツネの役割を取れる人々にとっては「成果主義」も明快で良いかもしれない。が、不器用を自認せざるを得ないでいる人ほど、いわゆるリクルートの難しさと危険とを肌で感じており、したがって今在籍する企業に永くとどまって居たいと願うであろう。限られた土俵の中で、限られたグループの中で、自分という個人がいかにそこに必要であるかを証明し続けることは並大抵ではない。今の職にとどまろうとするだけで大変なストレスを背負う。
今の若者たちは大変である。互いに評価評定しあいながらも、ずるずると位置を後退させてしまうと、ついにはリストラが待っている。「ブラック企業」と呼ばれる苛烈な運営体のこともしばしば聞くようになった。加えて、所得に対する安心感がかぼそくなるという影響は大きく、終身雇用慣行が崩れるころから自殺者が急増し、高原状に高止まっている。
2 目標とされる成人像の変化
育児と教育は、以前と真反対のように、多様化する社会の要請するところ、「個性を大切にしなさい」「自分で価値観を見つけなさい」に変わっていっている。
そして、「目標とされる成人像」は前に述べたように「カモシカ」である。が、現実として「カモシカ」になれる人はごく一部である。そして、「好きなことをしなさい」という指針のもと、加速するばかりの情報のものすごい過剰の中で、いわば「自由ゆえの選択の不安」あるいは「自己責任の重さ」ともいうべきものに若者たちはさらされることになる。
「カモシカ」になれないのであれば、旧モデルの「ロバ」であり続けようとする者。あるいは生存のための戦略として、「キツネ」「ヤギ」「イヌ」「ネコ」「リス」その他をも選択しようとする者。それぞれの人格の大きさと形を、筆者なりの感じ方でそれぞれ輪に描いてみた。一番左に「赤ん坊」として、あるがままに汚れのない〇が書いてある。それが育つにつれてさまざまな作用を受け、本当の自分が周囲をおもんばかって委縮し、あるいは変形してゆく。
3 揺れる学校生活
絶えず変化する周囲からの要求と圧力。そうした状況に応えるには、仮の人格を個性とし、仮面やコスチュームのように替えるというようなカメレオン的なやり方のほうが有利であるかもしれない。
昨今の学校環境は、そのような「キャラ取り」の練習の場となっているように見えることもある。小さな輪の中で、みんなが「ケイタイ」を一時も手放せずにラインやチャットなどを頻回にやり取りして、「みんな同じなんだよね、仲良しなんだよね」と囲い合い、確かめ合う。ラインを巡っては「ブロック大会」というような踏み絵のようなきわどいこともし合う。
昨今の「NHK放送文化研究所」によれば、96%の高校生が「学校は楽しい」としているという。不思議な調査結果である。いじめや不登校、通信制や単位制高校、いわゆるサポート校やフリースクールの乱立といった複雑さは、どこの国の話なのであろう。「教室は例えてみれば地雷原」と彼ら自身が川柳を作っている。正しくは、「学校は楽しい。仲良しグループの中に居られる限りは・・・」ということなのだろう。
このようなやり方は、社会に出て生活と将来がかかってくるとなれば通用しないであろう。若者たち自身が、それを不安に感じて悩んでいる。情報の洪水に消化不良をきたして委縮し、本来の個性に自信を持ち切れず生かしきれず、とどのつまり「カモシカ」ならぬ「ロバモドキ」といったあいまいな物になってしまっているのが傾向であろう。現在の若者たちの「抑うつ傾向」はこうした状況から理解できよう。
総務庁の「統計数理研究所」の意識調査によると、かつて人々の理想は「趣味に合った暮らし」であった。近年になって徐々に増加している理想は、自分自身のこだわりである趣味からも自由になった「のんきな暮らし」である。「ナマケモノ」として描いてあるが、その人格像はきれいな○である。つまり人々は赤ん坊に帰ることを望んでいるのであろう。
4 まとめ
1980年代からのわずかな間に、社会ことに若者たちの在りようは大きく変化した。
かつて、日本の高度成長期に活躍した代表といえば、いわゆる「団塊の世代」がある。この世代を彷彿とさせる短いフレーズをピックアップすると、「年功序列」「〜であるべき思考」「会社第一主義」「企業戦士」「エコノミックアニマル」「男尊女卑傾向」・・・ということになるから、今の若者たちにとっては、なじめないどころか、ほとんど「天敵」であるだろう。これほどに社会は変わってしまった。敗戦による「天地がえし」というのは分かるけれど、平時に、経済や情報交換のありように地滑りのような変化があったとはいえ、「これほどの変貌がもたらされるというのは普通のことなのだろうか」と問うてみる。
国々それぞれの事情を要因としているが、中國、東南アジア諸国、アメリカなども急速に変貌しつつある。どの社会もメリーゴーランドのように目まぐるしく回転している。
この実態の捉え方は、いつの日か、「共存共栄」を価値の中心に据えた社会が巡って来ると信じることであるべきである。
長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。
身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。