ダイアナ神とドブネズミと私

 兄の1人がち中耳炎をこじらせてしまって、難聴を残してしまった。大戦前のことである。不憫であるとして、父が空気銃を買ってやった。
根元に狩りの女神「ダイアナ」の刻印が打たれていて、その中で、ダイアナは右腕で銃を高々と掲げ、左腕をおろして弓と矢を投げ捨てていた。乱暴な女神なのだろうか。

 とはいえ、今から思えば、兄の空気銃はオモチャであった。このごろのものはエアライフルと呼ばれるほどに、精度も威力もけっこうなこのらしいが、兄のものは、鉛の弾を押し出す銃身にしても、鉄の棒の中心にまっすぐに穴をくり抜いてあるというやり方ではなく、鉄のパイプの中に真鍮の細いパイプを吊ってあるというものだった。
しばらくすると、弾丸がまっすぐに飛ばなくなってしまったのに気付いた兄は、銃身をつかんで逆手に振りあげ、斜め上から立ち木に叩き付けた。なにか西部劇の一場面のように格好は良さげであったが、弾丸の通り道は決定的にまがってしまった。
次の兄は凝り性である。裂けてしまった木の台尻に銅線をびっしりと巻いて補修し、ついで銃身の歪みを矯正しようとしたが、あれこれの試みはすべて失敗であったというか、弾はもっと曲がりくねって飛ぶようになった。それで、いわくの付いた空気銃は蔵の隅に放り込まれたまま、長いあいだ忘れられることになった。

 戦争が終わってかなりの年が巡ったころ、私はほんの偶然に、蔵の中で件の空気銃がホコリまみれになっているのを見つけた。ちょうどそのころ、母が「台所にクマのように大きいネズミが出る」と怖がっていたので、飛び道具とネズミとが結び付いて、ひとつドブネズミを退治してやろうという目論見になってしまった。

 暗闇のなかで、なにかが這いまわる気配がする。ころはよし。片手にしっかり握っていた紐を引くと、仕掛けどおりにスイッチが鳴って電燈がついた。
私は中学2年生だった。野の小動物というものは、何か異常を感じるとつと動きを止めて様子をうかがい、次の刺激で電光のように走り出すものだということを学んでいた。
はたして、流し台のちょうど真ん中に、まるまると太ったドブネズミがすくんでおり、黒く輝く愛嬌のある眼が、むしろ好奇心を一杯に含んでこちらを見上げていた。髭だけをそよぐように動かしている。
私も目をそらさず、ゆっくりと銃を肩にあてがい、2メートルほどの至近距離で発射した。いくらひねくれ鉄砲でも、この距離では歪みも何もあったものではなかった。

 ドブネズミはぞっと毛をそば立て、背中をこんもりと持ち上げにかかった。飛び掛ってくるつもりかと私はうろたえたのだが、直後、それどころではない様子が分かった。背骨を高く曲げ、手足をいっぱいにつっぱって、しばらくは微妙にバランスを保っていたが、やがて重々しくひっくり返り、こんどは反対に身体全体を弓なりにのけぞらせて硬直した。手足が空を掻いて痙攣し、尻尾だけがまるで別の生き物のように滑らかにのたくった。

 ネズミというもののうちで、いちばん可愛らしい部分。それは間違いなくあの眼である。邪気がなく、磨きあげた黒曜石の玉のようにつぶらに輝いている。
一方、全体に毛深い身体に比べて、手と指にだけは毛もなく、不釣合いに華奢な細づくりで、いつも冷たげにしっとりと濡れて見える。目の前のドブネズミも、ほんのり桜色をした上品な指を持っていた。これがいっぱいに押し開かれてぶるぶると引きつった有様は、まるで人間の断末魔を見るようだった。

 手の次に気味のわるいところといえば、あの尻尾であろう。細づくりな手とは反対に、まばらに毛が生えそぼった黒っぽいミミズといったふてぶてしさで、不潔な感じが凝縮している。ドブネズミの尻尾がゆっくりとのたくるのを見た時には鳥肌立つおもいがした。

 銃身の先で死骸をひっくり返してみると、まぐれとはいえ、頭蓋骨の真ん中が正円に陥没して洞窟を作っており、ほんの少しだけ血が流れ、その奥に鉛の弾丸の衝撃でシオカラのように掻き混ぜられているであろう脳味噌の一部らしいものが見えた。尻尾を除いても25センチはあろうかという立派な体格だった。縦横な運動、それを支えている神秘な仕組みと代謝。これらを己の一撃で土に帰してしまうこと。圧倒的な力・・・。また身のうちを寒気のようなものが走り抜けた。
「ざまあみろ」
 私は死骸をさらにこずいたが、ネズミを殺すことにはこれ以上凝らないほうが無事というものだろうと、漠然と、しかし強く感じていた。

 その夏には、ネズミとの近すぎる縁がもう一つ待っていた。
 澤というものは、水脈が随所で分かれたり、また合流したりする。山仕事や農作業が早く済むと、私たち兄弟は好んで川遊びをした。わけても人気のあったのは、分かれた流れの一方を堰き止めてしまうというものだった。
力を合わせて一方の流れをなんとか止め、それより下流の水位が下がるまでしばらく待ってから、石の下をかたはしから探ってゆく。「手づかみ」と呼ばれていた。ヤマメなりの動きを手先にピピっと感ずる。それに爪を立てるようにし、ついには指でしっかりと握り込んで引き出すのである。

 ある午後、私は「すこし変わった感じだな」とは思ったものの、意外な大物かもしれないと期待して、両手で獲物を引き上げた。抜き出すと、なんと、ネズミであった。爪を立て、尾を絡め、歯をむき出して噛み付こうとした。腰を抜かしそうになって、岸の藪の中に放り投げるのが精一杯だったが、水の中では全体に銀色がかって光って見えたこと、指のあいだに「水掻き」らしい膜のようなものがあったことをからくも目にしていた。

「カワネズミだ。魚をうんと食う。そんなもなあ、石に叩きつけてやりゃあ良かったんだ」
 兄のひとりにそんなことを言われたが、私はまだドキドキしていて、その日はついに石の下に手を入れることができなかった。
後で調べると、「カワネズミ」は「モグラ」に近い希少種で、ずんぐりとして
見えるが、水の中ではたいそう俊敏に動きまわる大食漢の「魚ハンター」であり、「水掻き」に見えるものは膜ではなく、指の間の毛が発達してその用を果たしているのだということだった。絶滅が危惧されるような種を、石などに叩き付けるようなことをしないで、ほんとうに良かったと思った。

 私を、小動物殺しにはまり込まないように導いたのは、小さな体験なのか大きな体験なのか分からないけれども、この一夏に重なった二つのできごとであったかもしれないと思う。

投稿者: ロウボウ

長い間たずさわってきた少年矯正の仕事を退官し、また、かなりの時が経ちました。夕焼けを眺めるたびに、あと何度見られるだろうと思うこの頃。 身近な生き物たちとヒトへの想いと観察を綴りたいと思います。

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